高田城三重櫓
徳川家康の6男、松平忠輝の居城として、新潟県上越市高田に築かれた城郭です。
忠輝は信濃川中島十五万石の大名でしたが、越後、福島城(直江津)の堀秀治が慶長11年(1606年)に亡くなり、まだ幼い嫡子忠敏が相続しますが、慶長15年(1610年)家臣団内でお家騒動があり改易となり、代わりに松平忠輝が福島城主となり堀氏の旧領四十五万石を引き継ぎ、川中島の領地と合わせ六十万石の大名となります。
これは最大大名である、金沢の前田氏百二十万石を、越前の松平忠直と挟み合う形で牽制する配置で、同時に会津の蒲生氏や米沢の上杉氏に対する睨みでもあります。
忠輝の父徳川家康は福島城を廃し、新たに内陸の菩提が原に築城を命じ、東北、甲信越、北陸の大名に手伝い普請を命じます。
手伝い普請にかり出されたのは仙台城主伊達政宗、盛岡城主南部利直、会津若松城主蒲生忠郷、、山形城主最上家親、米沢城主上杉景勝、秋田城主佐竹義宣、谷村城主鳥居成次、小諸城主仙石秀久、上田城主真田信之、松本城主小笠原秀政、村上城主村上義明、新発田城主溝口宣勝、金沢城主前田利常の13大名で、縄張りおよび普請奉行には忠輝の舅である伊達政宗が任じられました。築城は慶長19年3月15日に始まり、七月には完成しました。その間わずか4ヶ月という突貫工事でした。その年の内に大坂冬の陣が始まります。
本丸は広く南北約228メートル、東西約215メートルもあり、それを囲むように二の丸、北の丸、南に三の丸(陽戦曲輪)が築かれました。それらを取り囲む外堀は関川や矢代川の蛇行部分の流れを取り込んでいるため極めて広く、西側で約97メートル、大手堀で約107メートル、南堀で約151メートル、北堀で約140メートルもありました。現在はやや狭くなっているようです。
外堀を含む内郭の面積は約60ヘクタールとも70ヘクタールとも言われ、大大名の居城の倍以上の広さを持ち(熊本城や姫路城、金沢城、名古屋城などは20ヘクタールから30ヘクタールぐらいです)、徳川時代の大坂城(約59ヘクタール)に匹敵する巨城になります。
その外側に武家屋敷を配し、武家屋敷を囲むように青田川が流れ、総構えとなっています。
高田城の特色としては石垣を使わず全てが土塁で囲まれています。これは近くに石垣に使われる石の採掘場が無かったからと言われています。天守閣は築かれず(計画はあったようです)、また櫓も本丸南西部に天守の代替として二層の櫓(地震で倒壊したため、三層櫓で再建)と、本丸御門の両脇に平櫓が築かれたのみでした。
大坂城に匹敵する面積を持つ巨城の割りに評価されないのは、石垣が使われず土塁のみと、櫓もほとんど持たない城だからでしょう。しかし関ヶ原の合戦の前哨戦である大津城攻めで大砲(大筒)有用性が認められた時代、櫓のような高い建物は標的にされ易く、また土塁は大砲の攻撃に対しても有効で、幕末に築かれた五稜郭などは標的になる櫓を使わず、土塁を多用していました。ある意味で質実剛健な城郭と言えるでしょう。
高田城鳥瞰図
高田城古地図
上が北側になり、東に関川、西に青田川が流れています。
外堀
外堀をはさんで、三の丸(陽戦曲輪)を見たところです。三の丸との間の堀は埋められ、競技場などの施設になっています。
外堀西側
東洋一という蓮畑となっています。
本丸図
本丸は南北約228メートル、東西215メートルあり、御殿がありました。名古屋城の本丸が150メートル四方で、面積は倍近くあります。北東部は鬼門にあたり、鬼門除けのため角を凹ませていました。
本丸御門
門の両脇、土塁上には多聞櫓(平櫓)が建っていました。架けられている橋は極楽橋と言います。
三重櫓
築城当初は二重櫓でしたが、、寛文五年(1665年)地震で倒壊し、三重櫓として再建されました。その大きさは東11メートル、南北10メートルでした。現在の櫓は平成5年に木造で再建されました。
三重櫓内部
青田川
高田城の総構えになり、内側に武家屋敷がありました。