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河井継之助

河井継之助




 幕末の長岡藩を動かしたのが家老の河井継之助でした。
 河井継之助は文政10年(1827年)に長岡城下で生まれました。河合家は120石と位の高い家柄ではありませんでした。継之助は少年の頃から気性が激しく負けず嫌いの井格で、師匠の手を焼かせました。藩校である崇徳館で儒教を学び、高野松陰の影響で陽明学にのめり込んでいきます。嘉永3年(1850年)に側用人、梛野嘉兵衛の妹すえと結婚。嘉永5年(1852年)江戸に遊学、朱子学者、斉藤拙堂の弟子になる一方、佐久間象山のもとで砲術を学びました。嘉永6年(1853年)斉藤拙堂の元を去り、古賀謹一郎に入門します。その年の6月、ペリーの艦隊が浦賀に来航、藩主牧野忠雅は家臣を偵察に送る一方、広く家臣に意見を求めました。継之助の建言書が藩主の目にとまり、継之助は御目付格評定方随役に任命され長岡に戻ります。しかし国元では藩の上層部に反感を持たれ、僅か二ヶ月で辞任しました。
 安政5年(1858年)家督を継ぎ、外様吟味役に任じられます。
 安政6年(1859年)再び江戸に遊学、古賀謹一郎の久敬舎に再度入門。さらに見聞を広めようと備中松山藩(岡山県高梁市)の山田方谷を訪ね西国遊学の旅に出ます。山田方谷は陽明学者で松山藩の財政を立て直した人物でした。文武奨励、産業振興、藩の負債整理、藩札の刷新、倹約令を出して松山藩の財政を立て直しました.ここで学んだ事が長岡藩の藩政改革に役立ちます。
 その後長崎、佐賀、熊本を訪ね、安政7年(1860年)3月、江戸に戻り、しばらく横浜に滞在した後、長岡に戻ります。
 文久2年(1862年)11代藩主、牧野忠恭(ただゆき)が京都所司代にに任じられ継之助は京都詰めになり、翌文久3年(1863年)正月に上洛します。しかし4月に攘夷が決行されると牧野忠恭は所司代を辞任、6月に江戸に戻ります。9月に忠恭は老中に任じられると、継之助は公用人(幕府、他藩との折衝役)として江戸詰になります。継之助は忠恭に老中の辞任を進言します。この時辞任撤回を求める牧野家分家で笠間藩藩主、牧野貞明と衝突し、その責任を負い公用人を辞任し長岡に戻りました。
 慶応元年(1865年)外様吟味役に再任。その後郡奉行に任じられ、藩主の信任のもとに藩政改革を断行し藩の財政を立て直します。その間継之助は町奉行を兼ね、さらに奉行格加判と出世し、慶応4年(1868年)には家老に任じられました。
 継之助の藩政改革は、信濃川の治水灌漑を行い、農業の生産性を高め、賄賂などを取り締まりました。町奉行を兼ねるようになると産業振興政策をとり、賭博、遊郭を廃止しました。藩債を整理し藩費を節約、税制を改め蓄財に努めました。
 また兵制改革を行い、フランスに倣った洋式の兵制を組織し訓練し、洋式銃を大量に配備しました。また藩士の禄高改革を断行、100石以下の藩士には100石に加増、反対に100石以上の藩士には100石に減らし、禄高の平均化を図り軍制の集権化を行うという画期的なものでした。河井継之助は家老という要職にありながら120石のままでした。


長岡城碑

長岡城二の丸址



 元和2年に越後高田城主で徳川家康の六男、松平忠輝が改易となると、蔵王堂城主に、かつて、越後を治めていた堀忠俊の家老を務めていた堀直寄が八万石で入部します。しかし蔵王堂城は信濃川に面し、水害に弱い事から、蔵王堂城の南約二キロの所に、新たに城を築きました。これが長岡城です。
 堀直寄は元和4年(1618年)に同じ越後の村上城に10万石で移封となり、代わりに譜代大名、牧野忠成が6万2000石で入部します。これは同じ越後の新発田城の溝口氏、村上城の堀氏に対する牽制の目的がありました。その後牧野氏は加増を受け7万4000石の大名となり、幕末まで13代にわたり長岡を支配しました。
 城は西に信濃川が流れ、東を栖吉(すよし)川、さらにその内側を柿川が城を囲むように流れ、八文字の浮島城と呼ばれました。また北東側には八丁沖という広大な沼地があり天然の要害となっていました。
 本丸を中心に西に二の丸、東に詰の丸、それを囲むように三の丸が設けられ、本丸の北西隅に天守の代用となる御三階櫓が設けられました。
 本丸の広さは東西43間、南北53間。二の丸は東西45間、南北51間。詰めの丸が東西22間、南北51間あり、堀の幅が31間から34間あり、石垣は使われずほとんどが土塁で囲まれていました。




長岡城図

長岡城図



 慶長4年(1868年)の戊辰戦争(北越戦争)で長岡城は落城し焼失、その後廃城となりました。明治31年(1898年)本丸跡に長岡駅が開業しました。現在、長岡城は原型をほとんどとどめません。長岡駅の西口には上越新幹線長岡駅があり、二の丸には長岡市役所であるアオーレ長岡という近代的建築物が建っています。その隅に長岡城址の石碑があります。




長岡駅

長岡駅


 本丸址に長岡駅が建っています。




シティーホール・アオーレ1

シティーホール・アオーレ


シティーホール・アオーレ2

シティーホール・アオーレ


 二の丸址には長岡市役所である、シティーホール・アオーレが建っています。近代的な建築物です。広大な吹き抜け空間が特徴です。




城内稲荷神社

城内稲荷神社


 アオーレの脇にかつて二の丸にあった場内稲荷神社が建っています。





大手通

大手通


 長岡駅から西に延びる通りで、この辺りが城であったことをとどめる地名です。

高田駅

高田駅

 近代的な駅舎となっています。





寺町

寺町


 信越本線の東側には、城下町を東から守るために配置された寺町が形成されています。

 高田全体では約六十六寺あるといわれ、全国でも有数の数です。






儀明川

儀明川


 儀明川は街の中心部を流れ、高田城の東を守る堀の役割をしていました。 






上杉謙信像

上杉謙信像


 逆光になってしまったので判りにくいですが、上杉謙信公のブロンズ像です。上杉謙信は高田の北側、春日山城を居城としており、当然ながら高田では最大の英雄です。







雁木2

雁木1



雁木1

雁木2


 雪が大量に降る地域では、歩行者の通行を確保するために、軒下を通路として解放しています。それを雁木(がんぎ)といい、雪国の生活の知恵と、助け合いから生まれたのでしょう。

 表通りでは見られなくなりましたが、少し裏に入ると、色々なところで見ることが出来ます。






アーケード1

アーケード1



アーケード2

アーケード2


 表通りでは雁木は見られませんが、立派なアーケードが設けられています。






教会1

教会1



教会2

教会2


 高田駅から高田城に向かう途中で、教会を二つ見ました。立派な教会なのでカメラに納めました。

 話は跳びますが、日本にスキーを伝えたオーストリアのレルヒ少佐は、高田市の西側の金谷山で、陸軍の兵士にスキーを教えるなど、外国の文化が入ってきた土地です。