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高岡城

高岡城址



 加賀百万石で知られる前田家。その2代目(初代藩主)前田利長は慶長10年(1605年)に隠居します。男子がいなかったため、家督は弟で前田利家の4男、利常が相続し、自らは越中富山城に隠居します。
 その富山城が慶長14年(1609年)に火災で焼失すると、新たに高岡城を築きました。



前田利家

前田利家





前田利長像

前田利長像




 前田利長


 前田利長は前田利家と妻まつの長男として永禄五年(1562年)尾張荒子城に産まれました。幼名は父、利家と同じ犬千代。織田信長に仕え天正9年(1581年)に利家の旧領越前府中の一部を与えられ、信長の娘永姫を娶っています。
 本能寺の変で信長が倒れると、柴田勝家の元で働きますが、賤ヶ岳の合戦では利家とともに羽柴秀吉に味方し、以降秀吉の配下となります。天正13年(1585年)に越中を支配し秀吉と対立していた佐々成政が九州の肥後に移封されると、越中の内三十二万石を与えられ伏木の守山城を居城としました。
 慶長3年(1598年)、父利家が亡くなる前年に隠居し、前田家の家督を相続します
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では徳川家康の東軍に与します。西軍側に与した山口宗永の大聖寺城を攻め落としますが、その帰路、小松城の丹羽長重(丹羽長秀の子息)に襲われ、浅井畷の合戦(八月九日)となる。利長は丹羽長重勢をかろうじて撃退し、金沢城に戻る事が出来ました。この時七尾城の弟前田利政は動かず西軍に与したと見られました。
 その後、美濃を目指しますが九月十五日の関ヶ原の合戦には間に合いませんでした。
 合戦は東軍の勝利に終わり、利長はその恩賞で、西軍に与し改易となった大聖寺、小松と弟の利政の旧領を合わせ、百二十万石の最大の大名となりました。(その後、富山藩十万石、大聖寺藩七万石、上野国七日市藩一万石と三つの子藩が独立、加賀藩は表高百三万石になりますが、その後の新田開発により実高百三十万石余りの大大名となります)
 慶長10年に家督を弟で利家の4男利常に譲り、越中富山城を改修し隠居します。しかし慶長14年(1609年)に富山城は火災で焼失すると、前野に新城を築城し高岡城と名付け移り住みました。利長は富山城や伏木の守山城をはじめ越中国中から商人、職人などを高岡に集め、城下の発展に尽力しました。


 利長は大阪冬の陣直前の慶長19年(1614年)に亡くなります。大坂の陣後、元和元年(1615年)に幕府は一国一城令を出し、これにより高岡城は廃城となりました。
 三代利常は廃城となった高岡城を高岡奉行の管理下に置き、城内に米蔵や火薬庫を置き、金沢藩越中西部の拠点になりました。(東部の拠点は魚津城。間には子藩の富山藩があります)
 また城下の維持にも務め、鋳造業、高岡漆器などの産業の発展に力を入れました。


ガトリング砲

ガトリング砲



 もうずいぶん前に流行ったマカロニウエスタン(40~50年ほど前です)でおなじみの兵器で、元祖機関銃といえる武器です。クリント・イーストウッド主演の荒野の用心棒(1964年)に登場しました。
 フランコ・ネロ主演の続荒野の用心棒(66年)で棺桶から取り出して撃ちまくるシーンが印象的ですが、こちらはミトラィユーズというさらに古いタイプの機関銃です。
 マカロニウエスタンで流行ったせいか、ジョン・ウエィン主演の正当派西部劇、オレゴン魂(75年)に登場、大女優キャサリン・ヘップバーンが撃ちまくっていました。
 ガトリング砲は、アメリカで南北戦争の最中の1862年、医師で発明家のリチャード・ジョーダン・ガトリングによって発明されました。当初は動作不良が多く、信頼性が乏しかったようですが、その後改良が加えられ、1865年モデルでは信頼に耐える機関銃として軍に採用されました。
 その仕組みは、ハンドルを回す事で複数束ねた銃身が回転し、機関部の周りに固定された楕円形のレールをカムが通る事でボルト(遊底)が前後に動き、給弾、装填、発射、排莢という動作を行い、銃弾を次々と撃ちます。一分間で200発ほど撃つ事が出来(現在の機関銃が一分間に500発から1000発ほど)、当時としては驚異的なスピードでした。

 参考ですが下の図はM61バルカン砲の構造です。モデルによってボルトを動かす方法に違いがあります。



ガトリング砲仕組み

ガトリング砲の仕組み




 しかしその後、反動やガス圧を利用してボルトを連続的に動かすホチキス機関銃やマキシム機関銃、ブローニング機関銃が登場すると、大きく機動性に欠けるガトリング砲は次第に消えていきました。
 戦後、戦闘機がジェット化すると、1959年に登場したM61バルカン砲として再びガトリング砲が脚光を浴びました。その発射スピードは一分間に6000発と驚異的で、適度に弾丸を散らつかせる事が出来、登場して50年以上経つ現在でも第一線級の兵器となっています。




 アメリカの南北戦争(1861~65年)が終わると、使われなくなった武器が武器商人によって大量に日本に入ってきました。その中にガトリング砲が3門(一説には4門)、含まれていました。そのうちの2門を長岡藩の家老、河井継之助がスネル兄弟から1門5000両で購入しました。もう一門は新政府軍の甲鉄艦(ストンウォール号)に搭載されていました。
 次々発射される弾丸は、新政府軍に恐怖を与えたと思いますが、多勢に無勢で、たったの2門だけでは、戦線を好転させるには力不足でした。



 慶応3年(1867年)10月、15代将軍慶喜が大政奉還を行うと、討幕派は12月9日、王政復古を発し倒幕の狼煙を上げます。この時長岡藩では12代牧野忠訓(ただくに)が新藩主となっていましたが、忠訓は継之助を伴い上洛します。継之助は忠訓の名代として議定所に出て、徳川家を擁護する建言書を提出します。その後慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まると、大坂の玉津橋の警備を命じられます。しかし戦いは幕府軍の敗北に終わり、慶喜は大坂城を密かに脱出、江戸に戻りました。それを知った継之助は忠訓と急ぎ江戸に戻ります。忠訓を長岡に帰し継之助は江戸に残り、江戸藩邸を処分しその資金で武器商人スネル兄弟から武器を大量に購入しました。その中には日本には3門しか輸入されて今なったガトリング砲二門の他、最新式の大砲であるアームストロング砲、先込め式のエンフィールド銃、元込め式のスナイドル銃合わせて2000挺が含まれていました。
 新政府は京都守護職だった会津藩、江戸市中を警備し、薩摩藩邸を焼き討ちした庄内藩を朝敵と見なし、仙台藩、米沢藩など奥羽諸藩に会津藩追討を命じ、奥羽鎮撫総督九条道孝を送ります。奥羽14藩は仙台藩領白石城で列藩会議を行い、会津、庄内両藩の赦免の嘆願書を奥羽鎮撫総督府に送りますが、受け入れられませんでした。
 福島の金沢屋に投宿していた奥羽鎮撫総督府参謀であった世良修造は、東北諸藩を「奥羽皆敵」と見なす密書を、同じく参謀だった大山格之助に送り、それを知った仙台藩士、瀬上主膳、姉歯武之進により4月20日に暗殺されます。
 東北諸藩は結束を固めるために新たに11藩を加え、5月3日に奥羽列藩同盟を結成します。

 長岡藩は奥羽列藩同盟への加盟を誘われていましたが、それには加わらず、また新政府とも距離を置く独自の道を歩んでいました。
 新政府軍は北陸道、東山道を進軍し、天領だった小千谷に本営を置きます。5月2日、河井継之助は、東山道軍監察の岩井精一郎と小千谷の慈眼寺で会談を行います。小千谷談判と言われ、継之助は長岡藩の独立性を主張し、新政府軍の長岡攻撃を止めるように要求します。岩井精一郎は長岡藩を7万4千石の小藩と軽んじ、継之助の要求を一蹴し、会談は決裂しました。5月4日、長岡藩は新発田藩、村上藩など越後五藩とともに奥羽列藩同盟に加わり、奥羽越列藩同盟が成立します。
 長岡、小千谷間にある榎峠が新政府軍に占拠されていたため、継之助は5月10日榎峠を攻撃し奪取します。新政府軍は翌日榎峠の奪還のため朝日山の占拠を目指し、両者の間で激しい戦闘が起こります。新政府軍を指揮した時山直八は戦死し長岡藩が勝利します。
 5月19日、新政府軍は密かに信濃川を渡河し長岡城を攻撃。長岡藩兵は榎峠の守備に大半を割いていたため、長岡城の守りは手薄で半日で落城し、城兵は栃尾に撤退します。長岡藩兵は体勢を立て直し加茂に集結し見附を奪回します。
 そして7月24日、長岡藩兵600名と、同盟軍である会津、桑名藩兵は、長岡城の東北に広がる八丁沖という広大な沼地を、深夜、闇夜に紛れて密かに渡り、長岡城の新政府軍を攻撃し奪還に成功しました。しかし新政府軍が反撃に転じ、継之助は脚に銃弾を受け負傷し、歩く事が出来なくなります。
 その後、新発田藩が新政府軍に寝返えると、長岡藩と米沢、庄内藩は分断され、戦いは新政府軍に有利に動きます。7月29日、列藩同盟側にあった新潟港が新政府軍に占拠され、同じ日に長岡城が攻め落とされます。
 長岡藩兵は継之助を戸板に乗せ越後会津間の難所であった八十里越えを通り会津に逃げますが、傷口に菌が入り破傷風にかかり悪化し、8月16日に亡くなりました。享年四十一歳でした。