慶応3年(1867年)10月、15代将軍慶喜が大政奉還を行うと、討幕派は12月9日、王政復古を発し倒幕の狼煙を上げます。この時長岡藩では12代牧野忠訓(ただくに)が新藩主となっていましたが、忠訓は継之助を伴い上洛します。継之助は忠訓の名代として議定所に出て、徳川家を擁護する建言書を提出します。その後慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まると、大坂の玉津橋の警備を命じられます。しかし戦いは幕府軍の敗北に終わり、慶喜は大坂城を密かに脱出、江戸に戻りました。それを知った継之助は忠訓と急ぎ江戸に戻ります。忠訓を長岡に帰し継之助は江戸に残り、江戸藩邸を処分しその資金で武器商人スネル兄弟から武器を大量に購入しました。その中には日本には3門しか輸入されて今なったガトリング砲二門の他、最新式の大砲であるアームストロング砲、先込め式のエンフィールド銃、元込め式のスナイドル銃合わせて2000挺が含まれていました。
新政府は京都守護職だった会津藩、江戸市中を警備し、薩摩藩邸を焼き討ちした庄内藩を朝敵と見なし、仙台藩、米沢藩など奥羽諸藩に会津藩追討を命じ、奥羽鎮撫総督九条道孝を送ります。奥羽14藩は仙台藩領白石城で列藩会議を行い、会津、庄内両藩の赦免の嘆願書を奥羽鎮撫総督府に送りますが、受け入れられませんでした。
福島の金沢屋に投宿していた奥羽鎮撫総督府参謀であった世良修造は、東北諸藩を「奥羽皆敵」と見なす密書を、同じく参謀だった大山格之助に送り、それを知った仙台藩士、瀬上主膳、姉歯武之進により4月20日に暗殺されます。
東北諸藩は結束を固めるために新たに11藩を加え、5月3日に奥羽列藩同盟を結成します。
長岡藩は奥羽列藩同盟への加盟を誘われていましたが、それには加わらず、また新政府とも距離を置く独自の道を歩んでいました。
新政府軍は北陸道、東山道を進軍し、天領だった小千谷に本営を置きます。5月2日、河井継之助は、東山道軍監察の岩井精一郎と小千谷の慈眼寺で会談を行います。小千谷談判と言われ、継之助は長岡藩の独立性を主張し、新政府軍の長岡攻撃を止めるように要求します。岩井精一郎は長岡藩を7万4千石の小藩と軽んじ、継之助の要求を一蹴し、会談は決裂しました。5月4日、長岡藩は新発田藩、村上藩など越後五藩とともに奥羽列藩同盟に加わり、奥羽越列藩同盟が成立します。
長岡、小千谷間にある榎峠が新政府軍に占拠されていたため、継之助は5月10日榎峠を攻撃し奪取します。新政府軍は翌日榎峠の奪還のため朝日山の占拠を目指し、両者の間で激しい戦闘が起こります。新政府軍を指揮した時山直八は戦死し長岡藩が勝利します。
5月19日、新政府軍は密かに信濃川を渡河し長岡城を攻撃。長岡藩兵は榎峠の守備に大半を割いていたため、長岡城の守りは手薄で半日で落城し、城兵は栃尾に撤退します。長岡藩兵は体勢を立て直し加茂に集結し見附を奪回します。
そして7月24日、長岡藩兵600名と、同盟軍である会津、桑名藩兵は、長岡城の東北に広がる八丁沖という広大な沼地を、深夜、闇夜に紛れて密かに渡り、長岡城の新政府軍を攻撃し奪還に成功しました。しかし新政府軍が反撃に転じ、継之助は脚に銃弾を受け負傷し、歩く事が出来なくなります。
その後、新発田藩が新政府軍に寝返えると、長岡藩と米沢、庄内藩は分断され、戦いは新政府軍に有利に動きます。7月29日、列藩同盟側にあった新潟港が新政府軍に占拠され、同じ日に長岡城が攻め落とされます。
長岡藩兵は継之助を戸板に乗せ越後会津間の難所であった八十里越えを通り会津に逃げますが、傷口に菌が入り破傷風にかかり悪化し、8月16日に亡くなりました。享年四十一歳でした。