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兼六園図

兼六園図



 金沢城の百間堀を隔てた台地に広がる兼六園は、金沢を代表する観光名所で、岡山の後楽園、水戸の偕楽園とともに日本三名園の一つに数えられます。林泉回遊式庭園で広さは約11,4ヘクタールあり、金沢城寄りの蓮池の地。その南東に広がる千歳台。その西側の梅林の三つに分かれます。
 蓮池の地には元々藩の作事所が建っていました。五代藩主前田綱紀は延宝四年(1676年)に作事所を城内に移し、蓮池御亭(れんちおちん)を造営。これが兼六園の始まりとなり蓮池庭(れんちてい)と呼ばれました。
 宝暦9年(1759年)の宝暦の大火で蓮池庭も一部焼失し、その後荒廃しましたが、安永3年(1774年)に11代藩主前田前田治脩(はるなが)が再興に努め夕顔亭や翠滝を造営しました。
 蓮池庭のの南東に広がる千歳台、梅林には横山氏や奥村氏など7家の重臣屋敷がありましたが、元禄9年(1696年)に金沢城の防火のために藩に接収され空き地となり、寛政四年(1792年)に藩校(明倫堂と経武館)が置かれました。
 文政5年(1822年)、12代藩主前田斉広(なりなが)が藩校を移し、千歳台に隠居所として竹沢御殿を造営しました。竹沢御殿は能舞台を二つ持ち、二の丸御殿に匹敵するほど広大で豪壮な御殿でした。庭には辰巳用水から水を引き曲水が流れ橋を架けけられました。松平定信により兼六園と名付けられました。
 しかし2年後の文政7年(1824年)に斉広は死去し、13代藩主前田斉泰は竹沢御殿を縮小し、霞ヵ池を掘り拡げ、曲水を新たに取り入れ、栄螺山を築き、隣接する蓮池庭調和するように取り入れ作庭し、現在の兼六園に近い庭となりました。
 明治7年(1874年)に兼六園は一般市民に開放されました。





琴柱灯籠

徽軫(ことじ)灯籠


 霞ヶ池のほとりに建つ兼六園のシンボルとなっている灯籠です。脚が二股になり、琴の糸を支える琴柱に似ていることから徽軫灯籠と名付けられました。高さが約2,67メートルの雪見灯籠の一種です。





内橋亭

内橋亭


 霞が池に突き出して建てられた御亭です。は後の山は栄螺山と呼ばれ、13代藩主斉泰の時代に造られた築山です。





曲水

曲水


 辰巳用水から水を引き、竹沢御殿のあった千歳台をゆったりと流れています。





雁行橋

雁行橋


 11枚の赤戸室石を、雁が列をなして飛ぶ姿を形取ったことから、雁行橋と呼ばれました。また一つ一つの石が亀の甲羅をしていることから亀甲橋とも呼ばれ、渡ると長生きすると言われています。





瓢池

瓢(ひさご)池


 上から見ると瓢箪の形に見えることから瓢池と呼ばれました。蓮池庭の中心で、池のほとりに夕顔亭、翠滝が設けられました。




夕顔亭

夕顔亭


 兼六園で最も古い建物で、農家を思わせるかやぶき屋根の茶室です。安永3年(1774年)の建築物です。茶室の次の間の袖壁に夕顔(瓢箪)の透かし彫りがあることから、夕顔亭と呼ばれました。




時雨亭

時雨亭


 5代藩主、前田綱紀が兼六園の前身、蓮池庭を造園した当初から噴水前にあり、蓮池御亭と呼ばれました。6代藩主前田吉徳により立て替えられ、後に時雨亭と呼ばれました。明治に入り取り壊されましたが、2000年に現在の地に再建されました。




舟之御亭

舟之御亭


 梅林の中にある、屋形船を模した東屋です。





兼六園からの眺望

眺望台からの眺め


 眺望台から東方面を眺めたところです。

 金沢城ではいろいろな様式の石垣の積み方が見られます。
 一般には自然石を積み上げた野面積み。石の表面などを割り、加工した打ち込みはぎ。丁寧に切りそろえた石を使った切り込みはぎの三種類があります。
 打ち込みはぎは織田信長の安土城築城で使用されたことが始まりで、築城の全盛期である慶長期の城郭のほとんどに使われた積み方で、日本の城の石垣と言えばこの積み方をイメージする人が多いでしょう。
 切り込みはぎは石の加工に時間が掛かるため大坂の陣が終わった元和以降、築城に時間が掛けられるようになり、使われるようになった積み方です。
 ちなみに「はぎ」は漢字で「接」が使われます。
 金沢城では別の呼び方を使い、野面積みが自然石積み。初期の打ち込みはぎが割石積み。後期の打ち込みはぎが粗加工石積み。切り込みはぎが切石積み呼んでいます。つまり打ち込みはぎが、時間が下り時間に余裕が出来、加工技術も上がり、次第に加工する面が多くなり、前期と後期に分かれたものと考えればいいでしょう。



丑寅櫓台石垣

丑寅櫓台石垣


 文禄年間の石垣で、城内で最も古い自然石積みの石垣です。


 



鶴の丸にはいろいろな石垣の構造が展示されています。



割石積み

割石積み



粗加工石積み

粗加工石積み



切石積み

切石積み





 金沢城の石垣が、いろいろな積み方の石垣を見ることが出来るのは、金沢城がたびたび火災や地震に襲われ、石垣の修築を行ったからです。
 北陸地方はフェーン現象で乾いた風が吹き、火災が多い地域です。金沢もたびたび大火に襲われ金沢城も焼失することがありました。
 金沢城を襲った主な災害
 慶長7年(1602年)  落雷で天守焼失。
 元和5年(1620年)  本丸焼失
 寛永8年(1631年)  本丸焼失、二の丸に御殿を移す。
 寛文2年(1662年)  地震で本丸辰巳櫓下石垣など被害多数。
 宝暦9年(1759年)  宝暦の大火で金沢城の大半焼失。
 寛政11年(1799年) 金沢に地震、石川門などに被害。
 文化5年(1809年)  二の丸火災で二の丸御殿焼失。
 明治14年(1881年) 二の丸火災で兵舎(二の丸御殿)焼失。


 石垣の修築は、徳川幕府が最も神経を尖らせており、福島正則が無断で広島城の石垣を修築し、改易となったことはよく知られています。
 加賀藩では災害のたびに幕府の許可を取り、石垣の修理しました。元和7年以降13回、幕府に修理願いが出されています。



 前田利家は天正年間の越前府中時代、石垣造りの先進地である近江国穴太(大津市)から石工集団、穴太衆の穴太源介や小川長右衛門を呼び寄せ召し抱え、築城や陣地の構築に活躍しました。
 しかし江戸時代になり幕府の命令で江戸城、駿府城、名古屋城、高田城などの手伝普請に駆り出されると、多くの穴太衆が必要となり、幕府に関わりの深い穴太衆の戸波清兵衛を召し抱えてました。また穴太衆ではないが後藤杢兵衛が召し抱えられ、後藤家は穴太家とともに加賀藩の石垣普請に活躍しました、





本丸申未櫓下

本丸申未櫓台下石垣


 割石積みの石垣です。真ん中を斜めに石垣の角に来る算木積みが見られ、左側が新たに石垣が積まれたものと思われます。




二の丸50間長屋石垣

二の丸五十間長屋石垣


 粗加工石積みの石垣で、最も城郭の石垣らしい場所だと思います。




数寄屋丸裏石垣

数寄屋丸裏石垣


 切石積みの石垣で、目地をそろえた布積みとなっています。切石積みは地中にしみこんだ雨水が排出できないので、所々に水抜き穴が必要となります。



北の丸石垣

北の丸石垣


 上段が割石積みの乱れ積み、下段が粗加工石積みの布積みとなっています。




本丸南側

本丸南石垣


 上段は割石積み、下段が斜めに積む谷積み(落とし積み)となっています。谷積みは江戸時代末期以降に見られ、城郭では明治以降、陸軍時代の補修部分に見られます。






菱櫓

石川門菱櫓


 金沢城三の丸の搦め手門が石川門になります。同じく三の丸の大手門だった河北門と同様、宝暦の大火(1759年)で焼失後、再建されますが、大手門である河北門が先に再建され安永元年(1772年)に完成します。しかし二の丸御殿の再建を急いだために、河北門は、枡形を囲む長櫓や付属のニラミ櫓の再建が省かれ、高麗門、櫓門だけの再建という中途半端な枡形門となりました。
 それに対し石川門の再建は遅れで天明8年(1788年)に再建されました。こちらの方は時間に余裕があったのか一の門の高麗門、二の門の櫓門だけではなく、枡形を囲む長櫓や菱櫓も再建され、宝暦の大火で焼失する前の状態で再建されました。
 金沢城の主だった建物は明治維新後に解体され陸軍の歩兵第七連隊の司令部が置かれました。二の丸御殿や五十間長屋、菱櫓、橋爪門などは明治14年(1881年)に焼失します。
 三の丸大手門(表門)である河北門は、通行の邪魔になるため明治15年に解体されましたが、石川門は搦め手門(裏門)であったために解体を免れ、現在にまで存続し、重要文化財に指定され、金沢城のシンボルとなりました。ある意味運のいい門といえるでしょう。



石川門一の門

石川門一の門



石川門二の門

石川門二の門



石川門枡形外側

枡形を取り囲む長櫓


 石川門は高麗門の一の門、櫓門である二の門の二つの門からなる枡形門で、枡形を囲むように長櫓を配し、その隅に望楼式二層の菱櫓を設けた防備に優れた門です。屋根を鉛瓦で葺き、腰部をなまこ壁とし、唐破風の石落としを要所に設けるという金沢城独特の意匠を踏襲しています。

 河北門より幾分小ぶりですが(櫓門の幅は河北門が約二十七メートルに対し、石川門が約二十五メートル)枡形を長櫓で囲む完全な形で再建されています。



石川門枡形内側

石川門枡形


 宝暦の大火で焼失後、石垣が修理され、右は切石を積み上げた切り込みはぎ、左側が打ち込みはぎと、石垣の様式が違っています。




石落とし内側

石落とし内側


 百間堀に面して設けられた昔からある石落としで、内側にも唐破風を使う贅沢な造りとなっています。





百間堀

現在の百間堀




百間堀二

明治初期の百間堀


 元々は空堀でしたが、辰巳用水が引かれ水堀となり、堀の水は防火に使われました。しかし明治44年(1911年)に堀の水は抜かれ再び空堀となり、市道が通されました。





辰巳用水


 寛永8年(1631年)寛永の大火で城下町や金沢城の大半を焼失した加賀藩では、防火のために用水を引く計画を立てられ、板屋兵四郎という人物に用水の開鑿を命じます。板屋兵四郎は領内の小松の商人で、測量術に長けていました。小松の商人であるとともに加賀藩の下級藩士として仕え、寛永4年(1627年)から奥能登二群の徴税代官も努め、農業用水の整備に努めていたことから、辰巳用水開鑿の大役を任されました。
 工事は大火の翌年寛永9年(1632年)に完成します。城下の南東、辰巳の方角の犀川の上辰巳に取水口を設け、隧道などを掘り小立野台地を流れ、兼六園を通り、百間堀を隔てた金沢城内には伏越の理(逆サイフォンの原理)を使い送り込みます。そのために水が漏れないよう、水圧に耐えれる精巧な導水管が埋め込まれました。導水管は最初は木製、後に石製に変わりました。
 これにより空堀だった百間堀などの城の堀は水堀となり、防火に使用され、城内に飲料水として使われ、玉泉院丸の庭に水を引を引きました。
 また城下の防火、飲料水として使われ、余った水は農業用水として使われました。
 延長11キロの用水を、わずか1年あまりで完成させた、当時の技術に驚かされます。



辰巳用水

兼六園にある辰巳用水の送り口


 現在は使用されていません。