金沢城ではいろいろな様式の石垣の積み方が見られます。
一般には自然石を積み上げた野面積み。石の表面などを割り、加工した打ち込みはぎ。丁寧に切りそろえた石を使った切り込みはぎの三種類があります。
打ち込みはぎは織田信長の安土城築城で使用されたことが始まりで、築城の全盛期である慶長期の城郭のほとんどに使われた積み方で、日本の城の石垣と言えばこの積み方をイメージする人が多いでしょう。
切り込みはぎは石の加工に時間が掛かるため大坂の陣が終わった元和以降、築城に時間が掛けられるようになり、使われるようになった積み方です。
ちなみに「はぎ」は漢字で「接」が使われます。
金沢城では別の呼び方を使い、野面積みが自然石積み。初期の打ち込みはぎが割石積み。後期の打ち込みはぎが粗加工石積み。切り込みはぎが切石積み呼んでいます。つまり打ち込みはぎが、時間が下り時間に余裕が出来、加工技術も上がり、次第に加工する面が多くなり、前期と後期に分かれたものと考えればいいでしょう。
丑寅櫓台石垣
文禄年間の石垣で、城内で最も古い自然石積みの石垣です。
鶴の丸にはいろいろな石垣の構造が展示されています。
割石積み
粗加工石積み
切石積み
金沢城の石垣が、いろいろな積み方の石垣を見ることが出来るのは、金沢城がたびたび火災や地震に襲われ、石垣の修築を行ったからです。
北陸地方はフェーン現象で乾いた風が吹き、火災が多い地域です。金沢もたびたび大火に襲われ金沢城も焼失することがありました。
金沢城を襲った主な災害
慶長7年(1602年) 落雷で天守焼失。
元和5年(1620年) 本丸焼失
寛永8年(1631年) 本丸焼失、二の丸に御殿を移す。
寛文2年(1662年) 地震で本丸辰巳櫓下石垣など被害多数。
宝暦9年(1759年) 宝暦の大火で金沢城の大半焼失。
寛政11年(1799年) 金沢に地震、石川門などに被害。
文化5年(1809年) 二の丸火災で二の丸御殿焼失。
明治14年(1881年) 二の丸火災で兵舎(二の丸御殿)焼失。
石垣の修築は、徳川幕府が最も神経を尖らせており、福島正則が無断で広島城の石垣を修築し、改易となったことはよく知られています。
加賀藩では災害のたびに幕府の許可を取り、石垣の修理しました。元和7年以降13回、幕府に修理願いが出されています。
前田利家は天正年間の越前府中時代、石垣造りの先進地である近江国穴太(大津市)から石工集団、穴太衆の穴太源介や小川長右衛門を呼び寄せ召し抱え、築城や陣地の構築に活躍しました。
しかし江戸時代になり幕府の命令で江戸城、駿府城、名古屋城、高田城などの手伝普請に駆り出されると、多くの穴太衆が必要となり、幕府に関わりの深い穴太衆の戸波清兵衛を召し抱えてました。また穴太衆ではないが後藤杢兵衛が召し抱えられ、後藤家は穴太家とともに加賀藩の石垣普請に活躍しました、
本丸申未櫓台下石垣
割石積みの石垣です。真ん中を斜めに石垣の角に来る算木積みが見られ、左側が新たに石垣が積まれたものと思われます。
二の丸五十間長屋石垣
粗加工石積みの石垣で、最も城郭の石垣らしい場所だと思います。
数寄屋丸裏石垣
切石積みの石垣で、目地をそろえた布積みとなっています。切石積みは地中にしみこんだ雨水が排出できないので、所々に水抜き穴が必要となります。
北の丸石垣
上段が割石積みの乱れ積み、下段が粗加工石積みの布積みとなっています。
本丸南石垣
上段は割石積み、下段が斜めに積む谷積み(落とし積み)となっています。谷積みは江戸時代末期以降に見られ、城郭では明治以降、陸軍時代の補修部分に見られます。