金沢城 石川門、辰巳用水 | にっくんのブログ

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菱櫓

石川門菱櫓


 金沢城三の丸の搦め手門が石川門になります。同じく三の丸の大手門だった河北門と同様、宝暦の大火(1759年)で焼失後、再建されますが、大手門である河北門が先に再建され安永元年(1772年)に完成します。しかし二の丸御殿の再建を急いだために、河北門は、枡形を囲む長櫓や付属のニラミ櫓の再建が省かれ、高麗門、櫓門だけの再建という中途半端な枡形門となりました。
 それに対し石川門の再建は遅れで天明8年(1788年)に再建されました。こちらの方は時間に余裕があったのか一の門の高麗門、二の門の櫓門だけではなく、枡形を囲む長櫓や菱櫓も再建され、宝暦の大火で焼失する前の状態で再建されました。
 金沢城の主だった建物は明治維新後に解体され陸軍の歩兵第七連隊の司令部が置かれました。二の丸御殿や五十間長屋、菱櫓、橋爪門などは明治14年(1881年)に焼失します。
 三の丸大手門(表門)である河北門は、通行の邪魔になるため明治15年に解体されましたが、石川門は搦め手門(裏門)であったために解体を免れ、現在にまで存続し、重要文化財に指定され、金沢城のシンボルとなりました。ある意味運のいい門といえるでしょう。



石川門一の門

石川門一の門



石川門二の門

石川門二の門



石川門枡形外側

枡形を取り囲む長櫓


 石川門は高麗門の一の門、櫓門である二の門の二つの門からなる枡形門で、枡形を囲むように長櫓を配し、その隅に望楼式二層の菱櫓を設けた防備に優れた門です。屋根を鉛瓦で葺き、腰部をなまこ壁とし、唐破風の石落としを要所に設けるという金沢城独特の意匠を踏襲しています。

 河北門より幾分小ぶりですが(櫓門の幅は河北門が約二十七メートルに対し、石川門が約二十五メートル)枡形を長櫓で囲む完全な形で再建されています。



石川門枡形内側

石川門枡形


 宝暦の大火で焼失後、石垣が修理され、右は切石を積み上げた切り込みはぎ、左側が打ち込みはぎと、石垣の様式が違っています。




石落とし内側

石落とし内側


 百間堀に面して設けられた昔からある石落としで、内側にも唐破風を使う贅沢な造りとなっています。





百間堀

現在の百間堀




百間堀二

明治初期の百間堀


 元々は空堀でしたが、辰巳用水が引かれ水堀となり、堀の水は防火に使われました。しかし明治44年(1911年)に堀の水は抜かれ再び空堀となり、市道が通されました。





辰巳用水


 寛永8年(1631年)寛永の大火で城下町や金沢城の大半を焼失した加賀藩では、防火のために用水を引く計画を立てられ、板屋兵四郎という人物に用水の開鑿を命じます。板屋兵四郎は領内の小松の商人で、測量術に長けていました。小松の商人であるとともに加賀藩の下級藩士として仕え、寛永4年(1627年)から奥能登二群の徴税代官も努め、農業用水の整備に努めていたことから、辰巳用水開鑿の大役を任されました。
 工事は大火の翌年寛永9年(1632年)に完成します。城下の南東、辰巳の方角の犀川の上辰巳に取水口を設け、隧道などを掘り小立野台地を流れ、兼六園を通り、百間堀を隔てた金沢城内には伏越の理(逆サイフォンの原理)を使い送り込みます。そのために水が漏れないよう、水圧に耐えれる精巧な導水管が埋め込まれました。導水管は最初は木製、後に石製に変わりました。
 これにより空堀だった百間堀などの城の堀は水堀となり、防火に使用され、城内に飲料水として使われ、玉泉院丸の庭に水を引を引きました。
 また城下の防火、飲料水として使われ、余った水は農業用水として使われました。
 延長11キロの用水を、わずか1年あまりで完成させた、当時の技術に驚かされます。



辰巳用水

兼六園にある辰巳用水の送り口


 現在は使用されていません。