本丸二の丸図
イモリ堀側から見た本丸
本丸は大きく分けて本丸、東丸、本丸付段の三つから成っています。高さは本丸が標高五十八メートル前後、東丸もほぼ同じ高さ。本丸付段が約五十五メートルと一段低くなっています。
金沢城の中心となる本丸には五層の天守閣が聳えていましたが、慶長七年(1602年)に落雷で焼失。その後再建されず、代わりに御三階櫓を建て、天守の代用としました。
寛永8年(1631年)、金沢城下で発生した寛永の大火で、本丸を始め金沢城内の多くの施設が焼失しました。金沢藩は二の丸を整備し藩主の住居、および藩庁である二の丸御殿を建て、以降金沢藩の中枢は二の丸に移り、本丸には御三階櫓、本丸および、本丸付段に三十間長屋、辰巳櫓、丑寅櫓、戌亥櫓、申酉櫓などといった櫓など、防御施設が再建されました。
寛永の大火で金沢藩は防火を目的に犀川から水を引いた辰巳用水を整備、寛永9年に完成します。辰巳用水は逆サイフォンの原理を用いて、今の兼六園のあるあたりから金沢城内に水を送り込みました。水を送る側の兼六園の霞が池の標高が約五十三メートル。金沢城の二の丸が五十メートルで、水を送ることができますが、本丸が五十八メートルと水を送ることができず、これが御殿が本丸から二の丸に移った理由の一つでしょう。
再建された諸櫓も宝暦9年(1759年)宝暦の大火でほとんど焼失すると、諸櫓は再建されず。本丸および本丸付段の三十間長屋が再建されただけでした。
極楽橋
本丸付段と二の丸の間の堀に架かるのが極楽橋です。極楽橋というと羽柴秀吉の築いた大坂城の北側に架かる橋が極楽橋といい、それから名付けられたのかと思いましたが、金沢城の極楽橋も歴史は古く、尾山御坊時代、、犀川と浅野川を三途の川とし、尾山御坊を須弥山と見立て、一向宗門徒にとり尾山御坊は安楽国(極楽)であり、その入り口を極楽に向かう橋という事から、名付けられたようです。大坂城の極楽橋も、前進である石山本願寺の時代から名付けられた名前で、同じような意味があったのでしょう。
三十間長屋
長さ二十六、五間、幅三間の二層、入母屋造りの長櫓で、他の櫓同様、腰部をナメコ壁とし、瓦は鉛瓦で葺いています。宝暦九年(一千七百五十九年)の宝暦の大火で焼失後、幕末の安政五年(1858年)に再建され、現存し重要文化財に指定されています。
鉄門
本丸の入り口で、かつては壮大な櫓門が聳えていましたが。宝暦の大火で焼失後は再建されませんでした。しかし石垣は整然とした切り込みはぎの石垣で修理されています。
本丸址
本丸はうっそうとした森となっています。
御三階櫓
慶長7年に天守が落雷で焼失後、幕府に気兼ねして御三階櫓を天守の代用としました。高さは約15,4メートルほどで、最上階には廻り縁が巡らされた望楼式の櫓でした。
御三階櫓も寛永の大火で焼失、その後再建されますが宝暦の大火で焼失してからは再建されませんでした。御三階櫓の北側には二層の三十間長屋が続いていました。三十間長屋は文化3年(1806年)に再建されますが、明治維新後に解体されました。
辰巳櫓石垣
東ノ丸の南東(辰巳)の方角に建つ櫓が辰巳櫓です。このあたりは比高が三〇メートル近くあり、右側が三段また、左側は四段に分けて石垣が築かれています。右側から奥の丑寅櫓にかけての石垣が城内でも最も古い石垣で、文禄年間に利家の信任厚い篠原一孝によって築かれ、使われている石も小さな自然石を積み上げた野面積みとなっています。
かつては望楼式二層の櫓が建っていましたが、宝暦の大火で焼失してから再建されませんでした。
辰巳櫓址から見た風景
辰巳櫓の櫓台から21世紀美術館方面を見下ろした写真です。城下はさらに5メートルほど低く、比高は35メートルあり、櫓台に立つとその高さを感じることができます。
丑寅櫓跡から見た兼六園
丑寅(北西)の方向にあることから丑寅櫓と呼ばれました。ここにも望楼式二層櫓が建っていましたが、宝暦の大火で焼失後、再建されませんでした。
薪ノ丸
本丸付段の一段下にある隠し曲輪の雰囲気がある小さな郭です。三代藩主利常の正妻、珠姫が本丸に居住していた頃、御殿で使用する薪を貯蔵しており薪ノ丸と名付けられました。その後、刀剣や重要な書類を収めた土蔵が二棟と、番所、役所が建っていました。
鶴丸から見た本丸石垣
一番奥が丑寅櫓の石垣です。高さはありませんが、打ち込みはぎの石垣が整然と並んでいます。左側にちらりと写る建物が、重要文化財である鶴の丸倉庫です。