金沢城 二の丸、玉泉院丸庭園 | にっくんのブログ

にっくんのブログ

ブログの説明を入力します。

金沢城二の丸



二の丸

二の丸広場


 二の丸はかつて芳春院丸と呼ばれていました。芳春院とは、初代加賀藩主、前田利家の正妻、お松の方のことで、今の二の丸の一角に隠居所があったのでしょう。芳春院は元和3年(1617年)に71歳で亡くなります。
 寛永8年(1631年)金沢城下から出た火事が、金沢城本丸を焼き、大きな損害を与えました。三代藩主、利常は二の丸を広げ、三の丸との間に堀を開き二の丸を整備しました。その面積は4000坪を超える広さでした。そして加賀藩藩主邸で、藩庁でもある二の丸御殿を整備しました。表向き、藩主の邸宅である中奥、藩主夫人の住まい(奥向き)である御広式に分かれ、その面積は時代によって変わりますが、約3000坪を超えていたようです。
 二の丸はその後、宝暦9年(1759年)の宝暦の大火で消失、直ちに再建されました。しかし文化5年(1808年)の文化の大火で再び消失し、二年後の文化7年に再建されます。その御殿は明治維新後、陸軍に接収され、兵舎として使用されますが、明治14年(1881年)に焼失、以後再建されませんでした。




二の丸御殿

二の丸御殿図


 左から玄関、虎の間、御広間(竹の間)と連なり、御広間の下に能舞台、右上に黒書院(柳の間)となり、その上が大台所となっています。黒書院の右下に檜垣の間、その下に白書院があります。





数寄屋丸


数寄屋丸

旧第六旅団司令部


 二の丸の西隣に位置する小さな郭で、二の丸より一段下の郭でしたが、二の丸御殿の奥向きであるお広式(藩主夫人の住まい)に勤める奥女中の住むヘ部屋方(江戸城でいう長局)が置かれました。
 明治時代に歩兵第六旅団司令部が置かれました。





玉泉院丸


玉泉院丸庭園

玉泉院丸庭園


 本丸や二の丸の西側に位置する小さな郭が玉泉院丸で、かつては西の丸と呼ばれました。玉泉院とは二代藩主、前田利長の正妻で織田信長の四女、永姫のことで、慶長19年(1614年)に利長が隠居城である高岡城で亡くなると、金沢城に戻り剃髪し、玉泉院と号し、西の丸の一角に住みました。玉泉院は元和9年(1623年)二月に五十歳で亡くなります。玉泉院の屋敷は取り壊され、西の丸は玉泉院丸と呼ばれるようになりました。

 三代藩主利常が寛永11年(1634年)に江戸から帰国すると、玉泉院丸に庭を造らせます。京都の剣左右衛門という庭師(数奇者)を招き、領内各地から奇岩名石を取り寄せ、作庭させた池泉回遊式庭園です。
 利常が寛永16年(1639年)に小松城に隠居すると、庭園は荒廃しましたが、その後五代藩主、綱紀が元禄元年(1688年)、加賀藩から禄をもらっている裏千家四代、仙叟千宗室に命じ茶室や花壇を作らせ、庭園の再興に努めました。



玉泉院丸庭園2

玉泉院丸庭園


 兼六園に比べれば遙かに小さいですが、こじんまりして起伏に富み、立体感が感じられる庭園です。




舟入

舟入




玉泉院丸庭園図

玉泉院丸図




色紙短冊石垣

色紙短冊積石垣


 五代藩主綱紀が寛文年間に整備した、方形や長方形の石を縦に積んだ石垣です。V字型の樋石から水が滝のように流れていたようです。

 寛永の大火後の寛永9年(1632年)に辰巳用水が整備され、金沢城内でも水が豊富に使用することができました。その水を滝に使われました。 





段落の滝

段落ちの滝


 色紙短冊積石垣に使われた水を引いて、段落ちの滝に水が流れてきました。





鼠多聞遺跡調査

鼠多門発掘調査現場


 金沢城は熊本城と同様、積極的に城門や櫓の復元を行っています。

 鼠多門は玉泉院丸の正門で、腰部が海鼠壁の二層の巨大な櫓門になります。復元されるのが楽しみです。