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武家屋敷跡野村家

武家屋敷跡野村家



 野村伝兵衛信貞は、藩祖、前田利家と同じく尾張出身で、利家の直臣として従い、金沢の地に来ました。知行も一千二百と大身の武士で、御馬廻組組頭や、各奉行を歴任し、11代にわたり栄え、明治維新を迎えました。
 しかし廃藩置県で金沢藩が無くなり、収入が途絶えると生活が困窮し、門や土塀、庭園の一部を残し、土地は菜園へと代わりました。
 時代が下だり生活は更に窮乏、屋敷は取り払われ土地は分割され切り売りされ、人手に渡りました。
 加賀藩の子藩の大聖寺藩領、橋立の住人で、北前船による蝦夷地との交易で莫大な財をなした豪商、久保彦兵衛が、藩主を招くために建てた豪邸の一部、上段の間、謁見の間を昭和初期に移築し、現在に至りました。


野村家絵図

野村家平面図





上段の間

上段の間



 豪商が藩主を招くために金に糸目をつけない贅を凝らした造りとなっています。檜造りで鎖国時代に海外からもたらされた黒檀や紫檀を使った違い棚や床框などの精密な細工。畳の下には長さ六尺(約1,8メートル)の桐材の板を敷き詰め、釘隠は貴重な黒柿材を金彫師の手により彫られた透かし彫りとなり、襖の引き手は鉄刀木(タガヤサン)の細工彫りで出来ています。
 庭に面した障子戸にはギヤマン(ガラス)がはめ込まれていました。この建物が建てられた弘化、嘉永年間にはあまりにも貴重なものでした。
 襖絵は狩野派の最高峰、法眼位の佐々木泉景によるものとなっています。





折り上げ格天井

上段小間 折り上げ格天井


 藩主クラスの貴人を招くために、上段の間の天井は、縁がカーブし折り上げられている折り上げ格天井となっています。





奥の間

奥の間



 邸内にはもう一つ座敷があります。上段の間ほど豪勢ではないですが、立派な造りとなっています。





釘隠し葵

釘隠し


 源氏物語に由来する葵の意匠の釘隠しです、他に扇の意匠もあり、貴族趣味的な雅なものとなっています。





庭と縁側

縁側と庭


 座敷や上段の間に面して庭が広がっています。庭は木々に覆われ鬱蒼としています。






鬼川文庫

鬼川文庫展示品


  邸内の土蔵には、野村家に伝わる刀剣や武具、蒔絵を施した什器や、前田家、明智光秀、朝倉義景からの文書が展示しています。邸内の前を流れる大野庄用水の別名、鬼川から、鬼川文庫と呼ばれています。



長町界隈

長町武家屋敷



 長町は中上級武士の屋敷がありました。この辺りは江戸時代から大火の被害を免れ、黄土色の土塀を巡らせた屋敷が、江戸時代の武家屋敷街の雰囲気を偲ばせます。
 長町の由来は香林坊下から図書橋辺りまでの長い町筋から来ていると言われていますが、藩の家老である長氏。または山崎長門から名付けられたなど、諸説あります。




長町図

長町地図


 上が東側で外総構え堀、下が西側で大野庄用水です。

 左のクランクのある通りが写真の通りです。




長町界隈二

長町界隈


 通りを石畳とし、レトロな街路灯が雰囲気を出しています。




長町界隈三

長町界隈


 反対を見ると近代的なビル群が建ち並んでいます。金沢位置の繁華街、香林坊のビルで、長町が金沢市の中心部に窺わせます。




長町民家

長町の民家


 それほど古い建物ではないですが、数寄屋風の二階建ての建物が、黄土色の土塀にマッチしています。




長町長屋門

新家邸長屋門


 大身の武家は長屋門や、物見が設置されていました。



長町の建物

大屋家


 大屋家も大きな武家屋敷です。

 金沢藩では屋敷の広さは知行高により決められ、百石から二百石までは二百坪、三百石から四百石までは三百坪、五百石から七百石までは四百坪、八百石から一千石までは五百坪、一千百から一千四百石までは五百五十坪、一千五百坪から一千九百石までは六百坪と決められていました。



大野庄用水

大野庄用水


 天正から慶長時代、金沢城築城の材木が運ばれ、本流である犀川を遡り、この水路の川岸に荷揚げされたことから、御荷川(おにかわ)と呼ばれました。それがいつしか鬼川となりました。現在では大野庄用水と呼ばれています。
 水量が豊富で、金沢ではこの川の水車の水力により、文明開化の産業が始まったと言われています。
 川の流れは周辺の武家屋敷の中に引き込まれ、優雅な曲水の流れとして利用されました。


尾山神社



尾山神社

尾山神社神門


 藩祖、前田利家公を祀る神社です。
 前田利家は慶長四年(1599年)に亡くなります。二代藩主前田利長はその霊を祀ろうとしますが、当時は徳川幕府との間が微妙で公然と祀るのを憚り、金沢城に東に卯辰八幡社を建て合祀しました。しかし幕末になると卯辰八幡社は荒廃し、明治になり旧金沢藩士から藩祖利家公を新たに祀る神社を金沢城の金谷出丸跡に新たに建てる計画が持ち上がります。明治6年(1873年)3月に明治政府から許可が下り神社を建立、金沢の旧地名にちなみ尾山神社と名付けられました。
 尾山神社のシンボルである神門は明治8年(1875年)に大工棟梁、津田吉之助により建てられました。洋風建築を模した擬似洋風建築で中国風も加わる珍しいもので、重要文化財に指定されています。三階建てで一階は木骨に戸室石を貼ったもので三連アーチとなり、二階、三階は木造漆喰塗りとなってます。三階には5色の色ガラスが嵌められ、当時は金沢港に入る灯台の役割を果たしたと言われています。また屋根の避雷針は日本最古のものです。
 夜になると三階の色ガラスに灯が入り幻想的なようですが、訪れたのが昼間だったので見ることが出来ませんでした。


 戸室石

 金沢城の南東9キロの所にある山で、金沢城の石垣に使われた石は全てここで産出した戸室石になります。戸室石は安山岩の一種で、青みを帯びた青戸室と、赤みの強い赤戸室があります。



金谷出丸

 

金谷御殿

金谷御殿図


 金沢城の西側にある出丸で、隠居した藩主や世継ぎが住んだ殿舎がありました。
 13代藩主、斉泰の時代。前藩主、斉広の正室、新龍院が金谷御殿に入り、まもなく世継ぎの慶泰が金谷御殿に入ったため、新たに松の御殿を増築、新龍院が入ることになりました。度重なる御殿の増改築と藩主家族の華美な生活は、藩の財政を圧迫させました。





外総構え


 金沢城には内と外に二重の総構えの堀がありました。内総構えは慶長4年(1599)年から慶長6年にかけて造られました。当時は関ヶ原の合戦があり、金沢城の防備を固めるものでした。外総構えは慶長15年に造られました。



外総構え堀図

総構え図


 金沢城の下にある曲輪が金谷出丸で、そこを起点に内総構え、外総構えがのノ字を描くように渦を巻く渦郭式となり江戸城の構えとよく似ています。




外総構え

外総構え堀


 水路は外総構えの西側の部分で、半分が埋められ道路となっています。繁華街に近く飲食店が多く見受けられます。