尾山神社、外総構え堀 | にっくんのブログ

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尾山神社



尾山神社

尾山神社神門


 藩祖、前田利家公を祀る神社です。
 前田利家は慶長四年(1599年)に亡くなります。二代藩主前田利長はその霊を祀ろうとしますが、当時は徳川幕府との間が微妙で公然と祀るのを憚り、金沢城に東に卯辰八幡社を建て合祀しました。しかし幕末になると卯辰八幡社は荒廃し、明治になり旧金沢藩士から藩祖利家公を新たに祀る神社を金沢城の金谷出丸跡に新たに建てる計画が持ち上がります。明治6年(1873年)3月に明治政府から許可が下り神社を建立、金沢の旧地名にちなみ尾山神社と名付けられました。
 尾山神社のシンボルである神門は明治8年(1875年)に大工棟梁、津田吉之助により建てられました。洋風建築を模した擬似洋風建築で中国風も加わる珍しいもので、重要文化財に指定されています。三階建てで一階は木骨に戸室石を貼ったもので三連アーチとなり、二階、三階は木造漆喰塗りとなってます。三階には5色の色ガラスが嵌められ、当時は金沢港に入る灯台の役割を果たしたと言われています。また屋根の避雷針は日本最古のものです。
 夜になると三階の色ガラスに灯が入り幻想的なようですが、訪れたのが昼間だったので見ることが出来ませんでした。


 戸室石

 金沢城の南東9キロの所にある山で、金沢城の石垣に使われた石は全てここで産出した戸室石になります。戸室石は安山岩の一種で、青みを帯びた青戸室と、赤みの強い赤戸室があります。



金谷出丸

 

金谷御殿

金谷御殿図


 金沢城の西側にある出丸で、隠居した藩主や世継ぎが住んだ殿舎がありました。
 13代藩主、斉泰の時代。前藩主、斉広の正室、新龍院が金谷御殿に入り、まもなく世継ぎの慶泰が金谷御殿に入ったため、新たに松の御殿を増築、新龍院が入ることになりました。度重なる御殿の増改築と藩主家族の華美な生活は、藩の財政を圧迫させました。





外総構え


 金沢城には内と外に二重の総構えの堀がありました。内総構えは慶長4年(1599)年から慶長6年にかけて造られました。当時は関ヶ原の合戦があり、金沢城の防備を固めるものでした。外総構えは慶長15年に造られました。



外総構え堀図

総構え図


 金沢城の下にある曲輪が金谷出丸で、そこを起点に内総構え、外総構えがのノ字を描くように渦を巻く渦郭式となり江戸城の構えとよく似ています。




外総構え

外総構え堀


 水路は外総構えの西側の部分で、半分が埋められ道路となっています。繁華街に近く飲食店が多く見受けられます。