長町武家屋敷
長町は中上級武士の屋敷がありました。この辺りは江戸時代から大火の被害を免れ、黄土色の土塀を巡らせた屋敷が、江戸時代の武家屋敷街の雰囲気を偲ばせます。
長町の由来は香林坊下から図書橋辺りまでの長い町筋から来ていると言われていますが、藩の家老である長氏。または山崎長門から名付けられたなど、諸説あります。
長町地図
上が東側で外総構え堀、下が西側で大野庄用水です。
左のクランクのある通りが写真の通りです。
長町界隈
通りを石畳とし、レトロな街路灯が雰囲気を出しています。
長町界隈
反対を見ると近代的なビル群が建ち並んでいます。金沢位置の繁華街、香林坊のビルで、長町が金沢市の中心部に窺わせます。
長町の民家
それほど古い建物ではないですが、数寄屋風の二階建ての建物が、黄土色の土塀にマッチしています。
新家邸長屋門
大身の武家は長屋門や、物見が設置されていました。
大屋家
大屋家も大きな武家屋敷です。
金沢藩では屋敷の広さは知行高により決められ、百石から二百石までは二百坪、三百石から四百石までは三百坪、五百石から七百石までは四百坪、八百石から一千石までは五百坪、一千百から一千四百石までは五百五十坪、一千五百坪から一千九百石までは六百坪と決められていました。
大野庄用水
天正から慶長時代、金沢城築城の材木が運ばれ、本流である犀川を遡り、この水路の川岸に荷揚げされたことから、御荷川(おにかわ)と呼ばれました。それがいつしか鬼川となりました。現在では大野庄用水と呼ばれています。
水量が豊富で、金沢ではこの川の水車の水力により、文明開化の産業が始まったと言われています。
川の流れは周辺の武家屋敷の中に引き込まれ、優雅な曲水の流れとして利用されました。