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黒門外

黒門


 本丸の正門が黒門です。黒門は高麗門の二の門と奥の櫓門の一の門からなる枡形門です。枡形門には城壁の内側に枡形を造り二の門と一の門が直角に折れる内枡形と、城壁の外に枡形を作る外枡形がありますが、黒門は外枡形になります。
 松本城には本丸の黒門、二の丸の太鼓門、三の丸の大手門の三つの枡形門がありました。
 枡形門は外側の二の門を破った敵方を、枡形という広場にとどめ、一の門の櫓門や周囲の平櫓から攻撃し、城門を守る仕組みです。




黒門高麗門

高麗門


 門柱の上に貫(冠木 かぶき)で繋げ、後ろに控え柱を設けたのが冠木門といい、冠木に切り妻の屋根を載せたものを高麗門と呼びます。
 松本城の外枡形門では 二の門と一の門を一直線に設けず、ずらして筋違いにしています。





黒門

櫓門


 櫓門の右手には続き櫓が前方に張り出し、一の門を攻める敵に対し横矢を浴びせる効果があります。
 櫓門は昭和35年。高麗門や塀は平成元年に再建されました。門柱の五七桐紋の金飾りは豪華さを醸し出しています。石川数正は豊臣秀吉から桐紋の使用を認められていました。





黒門横

黒門






太鼓門外観

太鼓門


 二の丸の正門が太鼓門で、黒門と同じく二の門である高麗門、一の門である櫓門からなる外枡形門となっています。名前の由来は写真の右手一段高くなった塀の内側に鼓楼が設けられたことに由来します。





太鼓門外

櫓門


 太鼓門は明治4年(1871年)に撤去されましたが平成11年に再建されました。石垣の高さは約4,5メートル、門の幅が約10メートル。その上に桁行九間、梁間五間の櫓がのりました。
 写真、門の左側の大きな石は玄蕃石と言います。




太鼓門高麗門

二の門




太鼓門玄蕃石

玄蕃石


太鼓門は石川数正の息子、石川玄蕃頭康長の時代に築かれました。玄蕃石は高さ約4メートル、重さ22,5トンもある巨石で、この石を運ぶ人足が不平を漏らしたため、玄蕃頭康長は人足の首を切り、首を槍の穂先に刺して運搬を命じたため玄蕃石と呼ばれました。





太鼓門内

二の丸側から見た太鼓門





太鼓門天井

櫓門の天井


  釿で荒削りされた太い桁材が目を引きます。


堀側から見た天守

堀側から見た天守


松本の東には標高2000メートル余りの美ヶ原高原が広がりますが、その中腹から西に伸びる扇状地の端に松本城はあります。扇状地の端は伏流水が湧水として湧き上がる場所で、低湿地になり地盤が軟弱な土地になります。
 そのため松本城天守の石垣は、天守の高さに比較して低く、堀側で約6メートル、本丸側で約4.5メートルとなっていて、その角度も他城に比べかなり緩くなっています。
 このような地盤の弱い場所に建てられた天守に広島城がありますが、広島城の場合、天守台の堀側に帯曲輪(犬走り)を廻らせ、その上に高石垣の天守台を築いています。



本丸から見た天守

本丸側から見た松本城


 下の武者姿の人と比較して天守台が低いのがわかります。本丸側で約4.5メートルぐらい。





水堀二

松本城の堀


 水面に松本城が写っています。





水堀

松本城の堀


 天守から眺めたところで、泳ぐ鯉の姿がわかります。他の城に比べれば水は綺麗ですが、深さもそれほどありません。





土台

天守台の構造


 松本城では軟弱な地盤に石垣を築くために、地盤固めに筏地形(いかだじぎょう)という直径十五センチの丸太が並べられ、その上に石垣が築かれています。また天守台の地中には直径四十センチ、長さ5メートルの丸太が南北四本、東西四本の十六本が埋められ、地下3メートルのところで胴差しと言う横木でそれぞれの丸太が繋げられた頑丈な構造で、その上に大天守が築かれ支えてきました。この丸太は昭和の修理(昭和25~30年)でコンクリート製の杭に取り替えられました。




井戸

松本城北側の井戸


 松本は水が豊富で、このような井戸をよく見かけます。







明治以降の松本城


 明治になると松本城は天守などが競売にかけられ、明治五年に235両1分永125文で売却され個人所有となり天守は破却される運命にありました。
 それを知った松本町横田の副戸長の市川量造は、買い主に破却の猶予を求め、広く松本城の保存を訴えました。有志と買い戻しの資金を集めますがなかなか集まりませんでした。そこで松本城本丸を会場に博覧会を開き、これが好評でその観覧料を資金にあて、買い戻すことに成功しました。




明治松本城

明治期の傾いた松本城


 しかし天守の老朽化は著しく、地中に埋められた杭の一部が朽ち果て天守は南側に傾く状態でした。 明治18年に二の丸に長野県立中学松本支部(後に県立松本中学、現県立深志高校)が移り、校長の小林有也(うなり)は松本城天守の保存修理を訴えました。そして明治34年(1901年)に松本城天守閣保存会を発足し明治36年から工事が始まりました。この時五重目の柱に縄をかけ、南側に傾いた松本城を巻き取り機で引っ張り、傾きを直しました。
 工事は途中日露戦争で中断しましたが、大正2年(1913年)に完成、総費用は当時の金額で二万円かかりました。明治中頃の1円は現在の5000円ほどですから、単純計算で1億円ぐらいになります。
 しかしその後も天守はわずかばかり傾きます。戦後、昭和25年から30年にかけて昭和の大修理が行われ、この時地中に埋められた杭がコンクリート製に取り替えられました。





修理された柱

修理された柱


 大天守初重の柱です。右側がチョウナで荒削りされたでこぼこが見受けられ、創建以来の古い材木であるのに対し、左側はでこぼこがない新しい部材です。二つの材料はボルトで繋げられています。





ボルトの入った柱

修理された柱


 二つのボルトで繋げられているのがわかります。



辰巳櫓・月見櫓


 大天守の辰巳(南東)に位置する辰巳櫓、月見櫓は寛永年間に増築されました。
 徳川家康の次男で越前松平家の祖となる結城秀康の三男直政は寛永10年(1633年)から15年(1638年)まで松本城主でした。この間、三代将軍家光が寛永11年の上洛の帰路、中仙道を通り善光寺に参詣する予定でした。途中松本城に宿泊することになります。直政は家光を迎えるために辰巳櫓、月見櫓を増築しました。
 しかし中仙道(木曽路)は険しく落石の心配があるので、中止となり、家光は東海道で帰ることになり、松本城を訪れることはありませんでした。
 辰巳櫓は松本城の南東を守る二層の櫓で、花頭窓などの装飾性はありますが、矢狭間、鉄砲狭間を備えた軍事的な施設ですが、辰巳櫓の東に増築した月見櫓は初層に壁を設けず舞良戸が填められ、その周囲には朱塗りの回縁(まわりえん)が廻らされた遊興的な施設です。




辰巳櫓月見櫓

辰巳櫓・月見櫓


 月見櫓は工事中のため、残念ながらシートで覆われていました。





月見櫓

月見櫓


 パンフレットから割愛した月見櫓の写真です。回り縁を廻らせた開放的な建築物で、遊興的なもので、実戦的なな松本城天守の防御を著しく低下させています。 これは実戦的に建てられた松本城天守の防御を著しく低下させるもので、徳川幕府が安定期を迎えた時代だから設けられた施設なのでしょう。




辰巳櫓天井

辰巳櫓天井


 辰巳櫓は二層の櫓で、南北約三間、東西約二間半の広さでした。寛永年間の建築物で、釿で荒削りされた大天守の柱や梁と違い、部材は鉋で仕上げられています。





花頭窓内側

花頭窓


 辰巳櫓二重目には、仏教建築物に見られる花頭窓が用いられています。内側には戸板があり、雨水が外に流れるように工夫されています。




辰巳櫓花頭窓

外側から見た花頭窓





火薬入れ

火縄銃道具 玉箱


 辰巳櫓二重目は大天守二重目と繋がっており、松本城鉄砲蔵として火縄銃の道具が展示されています。




火縄銃道具1

火縄銃道具 火縄、火薬入れ




火縄銃道具2

火縄銃道具 変わり玉





月見櫓内部

月見櫓内部


 奥行き約6.9メートル、幅約5メートルあり、舞良戸が填められ、外側には朱色の回縁が廻らされていて、開放的で優雅な建築物です。




月見櫓天井

月見櫓天井


 天井は船底型の天井となっています。





月見櫓出入り口

月見櫓出入り口