堀側から見た天守
松本の東には標高2000メートル余りの美ヶ原高原が広がりますが、その中腹から西に伸びる扇状地の端に松本城はあります。扇状地の端は伏流水が湧水として湧き上がる場所で、低湿地になり地盤が軟弱な土地になります。
そのため松本城天守の石垣は、天守の高さに比較して低く、堀側で約6メートル、本丸側で約4.5メートルとなっていて、その角度も他城に比べかなり緩くなっています。
このような地盤の弱い場所に建てられた天守に広島城がありますが、広島城の場合、天守台の堀側に帯曲輪(犬走り)を廻らせ、その上に高石垣の天守台を築いています。
本丸側から見た松本城
下の武者姿の人と比較して天守台が低いのがわかります。本丸側で約4.5メートルぐらい。
松本城の堀
水面に松本城が写っています。
松本城の堀
天守から眺めたところで、泳ぐ鯉の姿がわかります。他の城に比べれば水は綺麗ですが、深さもそれほどありません。
天守台の構造
松本城では軟弱な地盤に石垣を築くために、地盤固めに筏地形(いかだじぎょう)という直径十五センチの丸太が並べられ、その上に石垣が築かれています。また天守台の地中には直径四十センチ、長さ5メートルの丸太が南北四本、東西四本の十六本が埋められ、地下3メートルのところで胴差しと言う横木でそれぞれの丸太が繋げられた頑丈な構造で、その上に大天守が築かれ支えてきました。この丸太は昭和の修理(昭和25~30年)でコンクリート製の杭に取り替えられました。
松本城北側の井戸
松本は水が豊富で、このような井戸をよく見かけます。
明治以降の松本城
明治になると松本城は天守などが競売にかけられ、明治五年に235両1分永125文で売却され個人所有となり天守は破却される運命にありました。
それを知った松本町横田の副戸長の市川量造は、買い主に破却の猶予を求め、広く松本城の保存を訴えました。有志と買い戻しの資金を集めますがなかなか集まりませんでした。そこで松本城本丸を会場に博覧会を開き、これが好評でその観覧料を資金にあて、買い戻すことに成功しました。
明治期の傾いた松本城
しかし天守の老朽化は著しく、地中に埋められた杭の一部が朽ち果て天守は南側に傾く状態でした。 明治18年に二の丸に長野県立中学松本支部(後に県立松本中学、現県立深志高校)が移り、校長の小林有也(うなり)は松本城天守の保存修理を訴えました。そして明治34年(1901年)に松本城天守閣保存会を発足し明治36年から工事が始まりました。この時五重目の柱に縄をかけ、南側に傾いた松本城を巻き取り機で引っ張り、傾きを直しました。
工事は途中日露戦争で中断しましたが、大正2年(1913年)に完成、総費用は当時の金額で二万円かかりました。明治中頃の1円は現在の5000円ほどですから、単純計算で1億円ぐらいになります。
しかしその後も天守はわずかばかり傾きます。戦後、昭和25年から30年にかけて昭和の大修理が行われ、この時地中に埋められた杭がコンクリート製に取り替えられました。
修理された柱
大天守初重の柱です。右側がチョウナで荒削りされたでこぼこが見受けられ、創建以来の古い材木であるのに対し、左側はでこぼこがない新しい部材です。二つの材料はボルトで繋げられています。
修理された柱
二つのボルトで繋げられているのがわかります。