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旧司祭館北側

松本市旧司祭館


 開智学校の西隣に建つのが、松本市旧司祭館です。元々は三の丸の一角にあったものを、平成2年から3年にかけて現在の地に移築されました。
 明治22年(1889年)に松本カトリック教会のクレマン神父によって建てられた長野県で最古の本格的西洋館です。アーリー・アメリカン様式(コロニアル様式)で下見板張りの建築物です。下見板とは下から上へと板を少しずつかぶせながら貼る方法で、日本の城郭ではおなじみです。
 1階、2階にベランダを持ち、各部屋に暖炉を備えていました。一階、二階ほぼ同じ広さで、それぞれ約100平方メートルあります。
 この建物でサフラン神父が明治34年から27年の歳月を費やして、日本初の日仏辞典を編纂しました。








机とイス

テーブルとイス






家具

家具





一階ベランダ

一階ベランダ




二階ベランダ

二階ベランダ


 一階、二階の北側にベランダがあります。標高が高く、冬になると寒さの厳しい土地なので、ガラス窓で仕切られています。外光が入り明るいですが、北側なので日差しはあまり入りません。





旧司祭館外観

旧司祭館外観


 寄棟の屋根に煙突が左右に二カ所出ています。右側の煙突には煙路が二つまとめられています。





暖炉

暖炉


 冬の寒い土地なので、各部屋に暖炉が設置されています。





下見板について


洋下見板

西洋の下見板


和下見板

日本の下見板(犬山城)

 

 下見板は家屋の外壁に使われる工法で、世界中で広く使われています。下から順に上に少しずつかぶせて貼ることで、雨が入らない仕組みです。

 西洋のものにはありませんが、日本の場合は押さえ縁やささら子で押さえるのが一般的です。








松本市時計博物館


時計博物館

時計博物館


  時計博物館は昭和49年に古時計の研究者である本田親蔵氏(1896年~1885年)が、その膨大なコレクションを松本市に寄贈され、松本市博物館で展示されました。
 2002年に松本市博物館の分館として現在の地に開館しました。本田氏のコレクションの他に市民からの寄贈も含め400点の洋時計、和時計、を収蔵。そのうち110点を動く形で展示しています。

 外観の時計は振り子時計になっていて、日本最大の振り子時計だそうです。






時計博物館2

飾られていた美しい時計






ミニ松本城

ミニ松本城


 松本城に向かう途中にあった松本城を模した店舗です。 青翰堂という古本屋です。
 目立つ建物なので、少し前にテレビで取り上げられていました。それによれば昭和20年代に現店主の父親が建てたそうで、今の店主が最上階に住んでいたそうです。その頃には廻りに高いビルがなく、松本城の天守が見えたそうです。

 今ではすっかりビルの谷間に埋もれてしまいました。しかしそれでも目を引く建物です。




旧開智学校

旧開智学校


 松本城の北側に明治初期の擬洋風建築で知られる旧開智学校はあります。
 元々は市内中心部、女鳥羽側に面して校舎は建っていましたが、昭和38年に廃校となり昭和39年に現在の地に移築されました。
 開智学校は明治6年に廃仏毀釈で廃寺となった全久院を仮校舎に設立されました。そして明治9年(1876年)に擬洋風建築の校舎は完成しました。
 棟梁の立石清重は前年の明治8年に二度上京し、開成学校(東京大学の前身)、大蔵省、三井組ハウス、圓井学校、栗原学校を見学。そして山梨県の日川学校、琢美学校のスケッチをしています。

 明治6年に着任した山梨県県令の藤村紫朗は、公共建築物に積極的に洋風建築を取り入れ、それらの建物は藤村様式と呼ばれ、山梨県各地にありました。
 それらの建築物の特色を開智学校に取り込み建築されました。





模型

開智学校模型


 完成した開智学校校舎は木造二階建て、寄棟造り、桟瓦葺き、白漆喰大壁造り、八角塔屋附き、擬洋風建築で広さは517平方メートル。当初は逆L字形に教室棟が付属しており、併せて2653平方メートル、1300人の児童を収容し、費用は当時の金額で11128円24銭8毛(現在の金額で約1億3000万円)かかりました。






開智学校塔屋部

塔屋部


寄棟の屋根の上に八角形の塔が載ります。塔は西洋建築の象徴として多くの擬西洋建築に使われました。校舎の前面には車寄せが設けられ、その上がベランダのようになっていますが、外に出ることは出来ませんでした。






塔説明

和洋折衷の説明


 松本の大工棟梁である立石清重が、東京の洋風建築を見よう見まねで設計施工したため、洋風の塔屋やポーチ、軒(コーニス)、ベランダ、天使の彫刻、縦長の窓を設け高価なガラスを多用する一方、龍や瑞雲の彫刻、ベランダの屋根の唐破風など寺社建築に見られるような和様(唐様)が折衷し、独特な建築となっています。






塔内部

塔屋内部


 塔屋の中には登れず、直下に写真が飾られていました。壁は白漆喰の真壁造りで窓には高価なステンドグラスが填められています。天井に鐘が吊り下げられ、授業開始の鐘を鳴らしました。







コーナーストーン

コーナーストーン


 西洋建築によく見られる隅石(コーナーストーン)を黒漆喰で作り出しています。これは立石清重が創意工夫で作り出した様式だそうです。






教室

教室


 木製のイスや机で、どこか懐かしい雰囲気です。






一階廊下

一階廊下







照明

洋灯


 一階の玄関を入った廊下の洋灯です。吊り元が円形の中に華の彫刻で装飾されています。






階段

階段






講堂

講堂


 二階の南東側にあります。廊下との仕切りが手すりだけというのが面白いです。






ステンドグラス

ステンドグラス


  講堂の窓の上のアーチ部に填められているステンドグラスです。開智学校では高価な輸入ステンドグラスを多用していたため、別名「ギヤマン学校」と呼ばれていました。



本丸御殿跡

本丸御殿跡


 松本城には本丸に本丸御殿、二の丸に二の丸御殿と古山寺御殿の三カ所の御殿がありました。




本丸御殿

本丸御殿図


 本丸御殿は藩主の私邸と政庁を兼ねた建物で、南側に玄関や対面の間である大広間や書院。北側に藩主の私邸となる御居間、御寝間、御台所などの建物がありました。
 建築年代はわかりませんが、享保12年(1727年)に火災で焼失しました。




二の丸御殿


二の丸御殿跡

二の丸御殿跡


 二の丸御殿は藩の副政庁の役割を担ってきましたが、享保12年に本丸御殿が焼失すると、二の丸御殿に藩主の住居が移り正政庁となりました。南北に長く、南から玄関、広間 、書院などの表向き。その北に御居間、御寝間といった奥向き。その横に御台所が連なり、本丸御殿と同じような構成となり、その北側が年寄り(家老)など藩の重役の詰める政庁の部分にあたりました。部屋数は50、坪数約660坪ありました。
 藩主の邸宅を兼ねるとなると手狭なため、一部の政庁が三の丸に移されました。
 明治維新後は筑摩県庁舎として使用されましたが、明治9年(1876年)に火災で焼失しました。




二の丸御殿絵図

二の丸御殿絵図





二の丸御殿図

天守に展示されていた二の丸御殿図




古山寺御殿


 松本城の御殿の中で最も古い御殿で、石川数正時代の建築物です。古山寺は古くは箇山寺と書き、数正の法名とも言われています。広さは約180坪と小さく、南側に座敷、坪庭を挟んで北側に台所となり、座敷の南側に数寄屋、西側に風呂屋が設けられた遊興的な建物となっています。


松本市立博物館

松本市立博物館


 古山寺御殿は松本城二の丸南東に位置する松本市立博物館の辺りにありました。





古山寺御殿跡

古山寺御殿の遺構


 松本市立博物館の内部で、古山寺御殿の遺構が展示されています。






二の丸櫓台

外堀

 

 本丸が石垣で囲まれているのに対し、二の丸や三の丸は土塁になっています。二の丸東側の土塁(二の丸御殿の東側)には土塁上には塀の一部を屏風のようにくぼませた屏風塀となっていました。屏風塀は死角をなくすためのものでした。




外堀

外堀を優雅に泳ぐ白鳥




本丸搦め手門

本丸搦め手門


 本丸の北側にある裏門です。







足駄塀


 内堀と北側の外堀を隔てるために堀の中に築かれた塀で、本丸の西と東の二カ所にありました。堀の中に杭を打ち、その上に土台を置き板塀を築くもので、他城には見られない珍しいものでした。

 塀を倒し、浮き橋として使われたこともあったようです。



足駄塀

足駄塀跡


 朱色の欄干の橋が架かるところに、かつて足駄塀がありました。

 橋を渡ると埋め門に繋がりますが、現在は閉鎖されています。