にっくんのブログ -12ページ目

にっくんのブログ

ブログの説明を入力します。

篠山城角馬出




篠山城図

篠山城図


 篠山城の最大の特徴は大手、南、東の三カ所に角馬出を持つことです。馬出とは城門を守るために、外側に張り出した小さな郭(出丸)で、半円形の丸馬出、長方形の角馬出などがあります。
 城門を二重に守る他に、出撃する兵を溜めておく武者溜まり、侵入してきた敵を馬出に留め、三の丸側の城門から攻撃する施設でもありました。
 北側の大手馬出は残念ながら撤去されましたが、南馬出、東馬出の二カ所が残っています。





南馬出図

南馬出し図


 南西隅にある南馬出は南北約40メートル、東西約100メートルばかりの長方形の郭で、東と西に門があります。周囲を土塁で囲まれ、さらに外側を幅約30メートルほどの水堀で囲まれています。





南馬出

南馬出


 現在は土塁で囲まれた駐車場?となり、小さな石碑とお地蔵様、電柱があるだけでした。






南馬出二

南馬出


 車が通るだけで、訪れる人もなく、ひっそりとしています。






南馬出堀

南馬出堀


 幅約30メートル余りの水堀で囲まれています。堀の周囲は木々が生い茂っています。






外堀

外堀


 篠山城三の丸を囲む外堀は幅が約40メートルほどの水堀で、二の丸側の土塁の上に屏風塀が連なっていました。屏風塀は塀の一部を屏風のように三角形に張り出し、死角をなくすように工夫した塀です。





外堀南東隅

外堀南東隅


 かつて三の丸南東(辰巳)隅に三層櫓がありました。






東馬出図

東馬出図


 東北隅にある東馬出は南北約50メートル、東西約40メートルと、南馬出の半分ほどの大きさです。周囲を約20メートル余りの水堀で囲まれています。篠山市役所に近いこともあるのか、南馬出と違い整備され小さな公園となっています。





東馬出堀

東馬出堀


 南馬出と違い、東馬出は整備されています。下が石垣で上に土塁という腰巻き土塁になりますが、土塁は低く削られています。






東馬出

東出丸内側


 芝生が貼られ、通路には砂利が敷かれ、公園として整備されています。






東馬出説明文

東馬出説明文


 馬出しの役割が書かれています。






篠山市市役所

篠山市役所


 篠山城の北側には篠山市役所や、丹波田園交響ホールが建っています。






外堀北東隅

篠山城北東隅


 三の丸の北東側は丑寅の方角で鬼門にあたります。上の東馬出図でもわかるように、この方角だけ三の丸が切り欠いているのは鬼門除けの意味があるのでしょう。
 尖ったままだと、そこから邪気が侵入してくるので、切り欠く鬼門除けの風習があります。

 切り欠いた分だけ外堀が広くなっています。





大書院外観

大書院外観


 大書院は慶長14年(1609年)の篠山城と同じ頃に建てられたものと言われています。その構造は京都の二条城、二の丸御殿の遠侍と似ていると言われ、5万石程度の譜代大名としては過ぎたる規模の書院で、中門が付属するなど古式に乗った書院造りの建物です。約260年にわたり篠山藩の行事が行われて来ました。明治維新後、篠山城は廃城となり、建物のほとんどは取り壊されましたが、大書院だけは残され、小学校や女学校、公会堂として使われました。しかし昭和19年1月6日に残念ながら火災で焼失してしまいました。





大書院古写真

大書院古写真


 その後、大書院の復元の計画が持ち上がり、古絵図、古写真、発掘などの学術調査が行われ、それに基づき設計され、平成12年3月に完成しました。床面積は約740平方メートル、軒高12,88メートル。入母屋屋根は焼失前の本瓦葺きから、築城当時の杮(こけら)葺きに変更されています。 総工費は約12億円かかったそうです。






大書院模型

大書院模型



大書院図

大書院図


 左側に中門が張り出しています。中門とは平安時代の寝殿造りで、釣殿を結ぶ中門廊の名残だと言われています。その右手に唐破風屋根の車寄せがあり、大書院の玄関となっています。

 中門や車寄せがある書院は、江戸城本丸や西の丸の大広間、仙台城本丸大広間に見られます。






二の丸御殿図

二の丸御殿

 

 二の丸御殿は大書院を中心に、西(図では下)に玄関と槍の間、東(上)に小書院。南(右手)に藩主の生活の場である中奥御殿、その下に台所。さらに右手に奥御殿と長局がありました。





大書院平面図
平面図






虎の間

虎の間


 玄関(資料館)から入ってすぐに、広さ36畳の虎の間という大広間があり、いろいろな史料が展示されています。





広縁

広縁


 大書院は八つの部屋からなり、その周囲を幅一間半(京間一間は1.97メートル)の広縁が囲み、さらに外側に一段下がり幅半間の落縁が囲んでいます。






玄関扉

車寄せ扉


 大書院の玄関になります。






葡萄の間屏風

葡萄の間


 玄関を入った正面に葡萄の間があります。葡萄の間には草花小禽図屏風という六曲一双のの屏風が置かれていました。これは青山氏に伝わるもので、江戸時代後期の絵師、狩野養川が描いたものと言われています。




上段の間

上段の間


 上段の間は幅が三間半(約6.9メートル)いっぱいに大床が造られ、床脇の違い棚は横に移され、その横に帳台構があります。
 大床には老松図、床脇の天袋は花卉(かき)図、違い棚に松竹梅雉子図、帳台構に牡丹図が描かれています。

 長押から上は、白壁のままです。






折り上げ格天井

折上格天井


 上段の間の天井は格式の高い折上格天井になっています。






次の間

次の間


 上段の間の一段下の間です。長押の下の壁は板張りとなっています。右手の襖には籬に菊図。中央の衝立は篠山城大書院で使われていた板襖で表に牡丹図、裏に桧に鷹図が描かれ、狩野派の絵師によるものだそうです。




武者隠し

帳台構


 帳台構の裏は小部屋があり、武士が詰め、上段の間の藩主に何かあった場合、飛び出して藩主を守るようになっています。






孔雀の間

孔雀の間

  上段の間の裏にある十五畳ばかりの部屋です。床の間には孔雀の掛け軸が飾られていました。







篠山城図

篠山城鳥瞰図


 篠山城は神戸の北側、約40キロ余りの場所の篠山という町にある城です。
 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、山陰道の要衝、丹波篠山に慶長14年(1609年)に築いた城郭です。縄張り(城の設計)は築城の名手と言われた藤堂高虎。家康の娘婿である姫路城主、池田輝政を普請総奉行に西国15ヶ国20名の大名に命じ、国普請で築かせました。8万の人足を動員し、わずか6ヶ月で普請工事(堀を掘り石垣を築く土木工事)は完成しました。
 この辺りはかつて八上藩といい、篠山城の東側の八上城がありました。豊臣秀吉の五奉行の一人、前田玄以の子である前田茂勝が5万石で納めていました。茂勝は熱心なキリスト教徒で幕府から危険視され、藩政を顧みず放蕩な生活を送ったなどと言いがかりをつけ、慶長13年(1608年)に改易とし、代わりに譜代の松平康重を常陸笠間から移封させました。松平康重は松井松平家の譜代大名ですが、家康の御落胤と言われた人物です。
 そして家康は翌慶長14年、八上城の西3キロの場所にある小高い笹山に築城を命じ、池田輝政を総普請奉行に、山陰、山陽、南海道の20の大名が動員されました。
 本丸の東に二の丸があり、それを囲むように内堀を廻らせ、それを囲み三の丸、そして外堀が囲んでいます。三の丸の大きさは約400メートル四方と、それほど大きくない城ですが、三の丸の虎口である大手(北側)、東、南に角の馬出を備えた城と知られています。馬出とは虎口(城門)の外側に築かれた小さな郭のことで、たいてい二カ所に入り口があり、侵入してきた敵を、城門側から鉄砲や弓矢で攻撃して城門を守る仕組みで、角の馬出し、丸馬出しなどがあり、丸馬出しは武田系の城郭によく見られます。
 角の馬出しは他に名古屋城に見られ、本丸の外側に大手馬出し、東馬出しがあります。篠山城は南と東に角の馬出しがある城として知られています。





内堀犬走り

犬走り


 犬走りは城壁の外側にある細い通路のことです。石垣造りが未熟だった時代、高石垣を築くときに、二段、または三段に分けて築きますが、そのとき石垣の間に出来る平地が犬走りになります。
 藤堂高虎は関ヶ原合戦の恩賞で伊予20万石に加増され、今治城を築きます。今治城は地盤の悪い土地に築かれた水城で、高い石垣を築くには難しい場所でした。高虎は堀の内側に平地を築き、その内側に石垣を築くことで、地盤の悪い土地での高石垣を可能にしました。その平地が犬走りになります。高虎は犬走りの使用を好み、篠山城や伊勢の津城にも使用しました。
 犬走りは堀を渡った敵方の足がかりになる弱点もありますが、帯郭にも使える利点もありました。 






二の丸石垣

二の丸の石垣


  篠山城の石垣は、近江国坂本(大津市)の石工集団、穴太衆によって築かれました。記録では筑後、三河、駿河の三人が関わっています。
 慶長期の城郭の石垣は、間もなく起こるであろう大坂城攻めに備え、短期間で築かなければいけないため、運びやすい小ぶりの石が使われます。
 篠山城では表面を加工した打ち込みはぎが使用されています。





鉄門石垣

二の丸鉄門石垣


 鉄門は二の丸の北側にある門です。この場所だけ特に小さな石が使われ、野面積みとなっています。






鉄門石垣3

二の丸鉄門石垣


 いかにも城郭の石垣らしい、打ち込みはぎの石垣です。角石は長方形の石を交互に積んだ算木積みになっています。






埋め門

二の丸埋門


 二の丸の南側にある搦め手門です。






二の丸南側石垣

二の丸南側石垣





内堀西側

二の丸東側、堀と石垣


 二の丸は周囲を多門櫓で囲み、三カ所に二層の隅櫓、東側中央付近に三層櫓が設けられ、るという厳重な構造となっていました。






本丸石垣

本丸石垣


 築城当初は本丸を天守丸、二の丸を本丸と呼んでいました。二の丸より一段高く、三隅に二層櫓があり、その間を多門櫓で繋がれていました。硬い岩盤の上に築かれたため、本丸には深さ16メートルの井戸がありますが、掘るのに二年近くかかったと言われています。






青山神社

青山神社


 本丸には青山神社があります。

寛延元年(1747年)から明治4年(1871年)の廃藩置県まで、青山氏が六代にわたり篠山藩主でした。

明治15年に創建され、青山氏第10代。青山忠俊を祭神として祀りました。昭和5年には名君として名高い第18代で篠山藩主、青山忠裕(ただやす)を合祀しました。





天守台

天守台


 本丸の南東隅に天守台があります。広さは東西約19メートル、南北約20メートル。石垣の高さは本丸より4メートル、犬走りより約17メートル。二条城の天守閣と同じぐらいの規模がありましたが、実際には天守は築かれず、南東隅に二間四方の平櫓が置かれました。二の丸東側に三層櫓が築かれ、天守の代用となりました。
 関ヶ原の合戦の前哨戦である大津城攻めで、大砲が威力を発揮しました。五層天守のような高い建築物は、大砲の標的になりやすいため、実戦的ではありませんでした。






天守台二

天守台から見た風景






多門櫓跡

多門櫓跡


 本丸は天守台を除いて多門櫓で厳重に囲まれていました。