篠山城鳥瞰図
篠山城は神戸の北側、約40キロ余りの場所の篠山という町にある城です。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、山陰道の要衝、丹波篠山に慶長14年(1609年)に築いた城郭です。縄張り(城の設計)は築城の名手と言われた藤堂高虎。家康の娘婿である姫路城主、池田輝政を普請総奉行に西国15ヶ国20名の大名に命じ、国普請で築かせました。8万の人足を動員し、わずか6ヶ月で普請工事(堀を掘り石垣を築く土木工事)は完成しました。
この辺りはかつて八上藩といい、篠山城の東側の八上城がありました。豊臣秀吉の五奉行の一人、前田玄以の子である前田茂勝が5万石で納めていました。茂勝は熱心なキリスト教徒で幕府から危険視され、藩政を顧みず放蕩な生活を送ったなどと言いがかりをつけ、慶長13年(1608年)に改易とし、代わりに譜代の松平康重を常陸笠間から移封させました。松平康重は松井松平家の譜代大名ですが、家康の御落胤と言われた人物です。
そして家康は翌慶長14年、八上城の西3キロの場所にある小高い笹山に築城を命じ、池田輝政を総普請奉行に、山陰、山陽、南海道の20の大名が動員されました。
本丸の東に二の丸があり、それを囲むように内堀を廻らせ、それを囲み三の丸、そして外堀が囲んでいます。三の丸の大きさは約400メートル四方と、それほど大きくない城ですが、三の丸の虎口である大手(北側)、東、南に角の馬出を備えた城と知られています。馬出とは虎口(城門)の外側に築かれた小さな郭のことで、たいてい二カ所に入り口があり、侵入してきた敵を、城門側から鉄砲や弓矢で攻撃して城門を守る仕組みで、角の馬出し、丸馬出しなどがあり、丸馬出しは武田系の城郭によく見られます。
角の馬出しは他に名古屋城に見られ、本丸の外側に大手馬出し、東馬出しがあります。篠山城は南と東に角の馬出しがある城として知られています。
犬走り
犬走りは城壁の外側にある細い通路のことです。石垣造りが未熟だった時代、高石垣を築くときに、二段、または三段に分けて築きますが、そのとき石垣の間に出来る平地が犬走りになります。
藤堂高虎は関ヶ原合戦の恩賞で伊予20万石に加増され、今治城を築きます。今治城は地盤の悪い土地に築かれた水城で、高い石垣を築くには難しい場所でした。高虎は堀の内側に平地を築き、その内側に石垣を築くことで、地盤の悪い土地での高石垣を可能にしました。その平地が犬走りになります。高虎は犬走りの使用を好み、篠山城や伊勢の津城にも使用しました。
犬走りは堀を渡った敵方の足がかりになる弱点もありますが、帯郭にも使える利点もありました。
二の丸の石垣
篠山城の石垣は、近江国坂本(大津市)の石工集団、穴太衆によって築かれました。記録では筑後、三河、駿河の三人が関わっています。
慶長期の城郭の石垣は、間もなく起こるであろう大坂城攻めに備え、短期間で築かなければいけないため、運びやすい小ぶりの石が使われます。
篠山城では表面を加工した打ち込みはぎが使用されています。
二の丸鉄門石垣
鉄門は二の丸の北側にある門です。この場所だけ特に小さな石が使われ、野面積みとなっています。
二の丸鉄門石垣
いかにも城郭の石垣らしい、打ち込みはぎの石垣です。角石は長方形の石を交互に積んだ算木積みになっています。
二の丸埋門
二の丸の南側にある搦め手門です。
二の丸南側石垣
二の丸東側、堀と石垣
二の丸は周囲を多門櫓で囲み、三カ所に二層の隅櫓、東側中央付近に三層櫓が設けられ、るという厳重な構造となっていました。
本丸石垣
築城当初は本丸を天守丸、二の丸を本丸と呼んでいました。二の丸より一段高く、三隅に二層櫓があり、その間を多門櫓で繋がれていました。硬い岩盤の上に築かれたため、本丸には深さ16メートルの井戸がありますが、掘るのに二年近くかかったと言われています。
青山神社
本丸には青山神社があります。
寛延元年(1747年)から明治4年(1871年)の廃藩置県まで、青山氏が六代にわたり篠山藩主でした。
明治15年に創建され、青山氏第10代。青山忠俊を祭神として祀りました。昭和5年には名君として名高い第18代で篠山藩主、青山忠裕(ただやす)を合祀しました。
天守台
本丸の南東隅に天守台があります。広さは東西約19メートル、南北約20メートル。石垣の高さは本丸より4メートル、犬走りより約17メートル。二条城の天守閣と同じぐらいの規模がありましたが、実際には天守は築かれず、南東隅に二間四方の平櫓が置かれました。二の丸東側に三層櫓が築かれ、天守の代用となりました。
関ヶ原の合戦の前哨戦である大津城攻めで、大砲が威力を発揮しました。五層天守のような高い建築物は、大砲の標的になりやすいため、実戦的ではありませんでした。
天守台から見た風景
多門櫓跡
本丸は天守台を除いて多門櫓で厳重に囲まれていました。