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姫路城

姫路城天守


 姫路は山陽路の要衝として古くから発展してきた土地です。
 姫路城は慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦の前哨戦である岐阜城攻めで活躍した三河吉田城主、池田輝政が、恩賞として播磨国52万石を当てえられ、翌年から9年がかりで姫山に築いた城郭です。





姫路城の歴史



播磨国古地図

播磨国図


 姫山に最初に城を築いたのは元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の皇子、護良親王の命で京に出兵した赤松則村(円心)で、そのときは砦のような応急的なものでした。
 貞和2年(1346年)に赤松貞和により、姫山に本格的な城郭が築かれました。しかし赤松氏は赤松満祐の時、嘉吉元年(1441年)に6代将軍足利義教を殺害するという嘉吉の乱を起こし、山名持豊(宗全)に打たれ没落、山名持国に播磨国を与えられ姫路に入ります。応仁元年(1467年)応仁の乱で東軍(細川勝元方)に付いた赤松政則が播磨、備前、美作の守護に返り咲き、姫路城は赤松氏の配下に置かれ、本丸、鶴見丸、亀居丸などが築かれました。
 赤松政則は後に置塩城に本拠を移したため、姫路には一族の小寺氏が城代として入りましたが、小寺氏も天文14年(1545年)に御着城に移り、姫路城には小寺氏の重臣、黒田重隆、職隆(もとたか)父子が入ります。この職隆の子供が豊臣秀吉の軍師として知られた黒田官兵衛こと孝高(よしたか)で、天文15年に姫路城で生まれました。
 やがて播磨国には織田信長が進出し、黒田孝高は中国攻めを任された羽柴秀吉の配下となります。秀吉は天正8年(1580年)に別所長治の三木城を落城させ、三木城を本拠にしようと考えていましたが、三木城は播磨国の東側に偏っていたため、黒田孝高は播磨国の中央に位置する姫路に本拠を置くことを進言し、秀吉に明け渡します。秀吉は姫路に三層の天守を築き本格的な城郭に改築しました。
 天正10年(1582年)に織田信長が本能寺で明智光秀に討たれ、秀吉は山崎の合戦で明智光秀を討ち信長の後継者として頭角を現し、天正11年に大阪城を築き移ります。姫路城には秀吉の弟、秀長が入

り、秀長が大和郡山に城を築き移ると、秀吉の正妻、北政所(おね)の兄、木下家定が姫路城主となりました。姫路城は豊臣政権にとり、大坂城を西から守る重要な城となり、信頼の置ける一族衆が入りました。






池田輝政



池田輝政肖像

池田輝政肖像画


 姫路城をほぼ現在の姿にし、三つの小天守を従える五層の大天守を築いたのは池田輝政です。池田輝政は織田信長の重臣、池田恒興の次男で永禄7年12月(1565年1月)尾張で生まれました。
 恒興は信長が本能寺の変で討たれると、秀吉と合流し山崎の合戦に挑み勝利しました。清洲会議でも秀吉側に付き、秀吉の織田家中での地位向上に寄与し、摂津国大坂、尼崎、標語12万石を与えられました。後に大垣城主となりますが、天正12年(1584年)に秀吉が徳川家康と争った小牧長久手の合戦に参戦し、長久手の合戦で長男元助、娘婿野森長可(ながよし)と共に討ち死にしました。
 父と兄の死を受け池田家を相続したのが次男の輝正になり、大垣城13万石、 後に岐阜城13万石の城主となります。輝正は紀州征伐、佐々成政征伐、九州平定に参戦し活躍。天正18年(1590年)に小田原の役で北条氏が滅亡すると、三河、遠江、駿河、甲斐、
信濃の太守徳川家康が関東に移り、空いた三河の吉田城(豊橋)に15万石で入封します。 文禄3年(1594年)に秀吉の勧めで家康の次女、督姫と結婚します。慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、舅である家康に接近し、関ヶ原の合戦では前哨戦である岐阜城攻めで活躍し、播磨52万石へと加増されました。他に督姫との間に生まれた次男忠継に備前国岡山藩28万石が、三男に忠雄に淡路国洲本藩6万石、弟長吉に因幡国鳥取藩6万石が与えられ、一族合わせて92万石という大大名に成り、輝正は西国将軍と呼ばれました。





姫路城総曲輪

姫路城図


 姫路城は一族合わせて100万石近い領地を持つ池田輝政が慶長6年(1601年)から全力を注いで築いた城郭でした。
 その規模は標高45メートルの姫山を中心に本丸、二の丸を置き、その南に三の丸、それを内曲輪(内郭)とし内堀が囲み、その広さは23ヘクタールありました。
 内曲輪の左から渦を描くように中堀が掘られた渦郭式で、その内側が中曲輪。さらにその外側に外曲輪が設けられ外曲輪を囲む外堀が築かれ、外堀の南側はJR姫路駅の前まで来ていました。中曲輪は武家屋敷が並び、外曲輪は南側と東側に町人が住み、その外側、および北側が武家屋敷でした。外堀の広さは南北約2キロ、東西約1.6キロあり、江戸城の内郭ほどの広さがありました。



姫路駅より見る姫路城

姫路駅から見た姫路城


 姫路城外堀の南側に姫路駅があります。姫路駅を出ると正面に姫路城を見ることが出来ます。姫山を含めて約90メートルあり、ランドマークとなっています。





中堀

中曲輪の石垣


 姫路駅から姫路城に向かう途中に中堀があります。堀は埋め立てられ道路となり、石垣が残り往時を偲ばせています。




中堀中の門跡

中の門跡


 中堀にかかる門で、姫路駅前の通りの一本西側の通りに中の門がありました。


 



内堀

内堀


 内曲輪を囲む内堀は、幅が30~40メートルほどありました。





安間家住宅

武家屋敷安間家資料館


 安間家住宅は篠山藩主青山氏の家臣の住宅で、安間家は禄高12石3人扶持で篠山藩士の標準的な徒士の住宅です。
 茅葺きの母屋は正面を東に向け、間口6間、奥行き7間半で逆L字形となっています。正面左手に玄関を置き、右に6畳の次の間、その右手に庭に面して8畳の座敷となります。玄関奥には土間が続き、その右手が台所。座敷の奥に仏間、居間が続いています。
 建築当初の姿をよく残し、平成6年、町指定文化財となり全面改修をして資料館として開館、安間家に伝わる古文書や家具、食器類の他、武具や史料などを展示しています。






安間家住宅見取り図

安間家見取り図





安間家住宅2

安間家


 武家屋敷と言っても農家風の建物です。


 



安間家住宅3

安間家内部


 仏間から座敷を見たところです。





安間家住宅座敷

安間家座敷


 雛人形などが展示されていました。






安間家住宅外観

後ろから見た安間家


 こうしてみると岩手県の南部曲屋のように見えます。






御徒町

御徒町武家屋敷


 慶長14年(1609年)に篠山城が完成し、翌年から城下町の町割りが始まりました。篠山城の西側に南北に通りを開き、両側に徒士(かち)を住まわしたことが御徒町(おかちまち)の始まりです。この時各家に割り当てられた間口は平均8間だったと言われています。その後、天保元年(1830年)に火災でこの辺りの建物のほとんどが焼失しました。そこで約6尺(1.8メートル)後退させ屋敷を再興させ、広がった通りは火除け地としての役割も持ちました。
 明治維新を迎えても御徒町の武家の多くは篠山にとどまり、家屋敷の手入れを怠らなかったので、往時の武家屋敷の面影を今に残すことが出来ました。この通りを御徒町通り(西新町)と呼びました。御徒町武家屋敷群は篠山城東側の河原町妻入商家群と共に、平成16年に伝統的建造物群保存地区に選定されました。




御徒町武家屋敷

御徒町武家屋敷




御徒町武家屋敷

御徒町武家屋敷


 どの武家屋敷も、門も母屋も茅葺きで農家風になっています。





小林家長屋門

服部家長屋門


 御徒町通りの一本東にある、外堀に面した通りにある服部家の長屋門です。茅葺き屋根の重厚な造りとなっています。







鳳鳴酒造



鳳鳴酒造酒瓶

鳳鳴酒造製品


 篠山の町中にある酒蔵です。鳳鳴酒造は寛政9年(1797年)創業という、220年近く続いてきた老舗酒蔵です。酒を買ったついでに内部を見せてもらいました。


 篠山は灘の酒造りを支えた丹波杜氏を輩出してきた土地です。江戸時代中期の寛政頃、灘の杜氏は賃金が高騰したり、近江や紀伊など他地域に出稼ぎに行くようになり、代わりに丹波杜氏が重用されるようになりました。丹波の農民にとり酒造りは農閑期の重要な収入源になりました。





鳳鳴酒造

鳳鳴酒造内部


 昔の酒造りに使われていた桶や酒壺が展示されていました。





鳳鳴酒造タンク

タンク


 今はホーロー製のタンクが使われています。





鳳鳴酒造酒船

酒絞り器


 発酵が終わり熟成した醪を袋に詰めて並べ、上から圧力をかけ圧搾し、酒と酒粕に分離する装置です。形が船の平底に似ていることから槽(ふね)と呼ばれています。





鳳鳴酒造麹室

麹室


 酒の元となる麹を造る部家です。麹室は真冬でも温度は30度、湿度は60パーセント以下に保たれます。部屋には窓がなく、天井も低い部屋で、蔵人達は裸になり約50時間かけて麹を造りました。その作業を製麴(せいきく)と言います。





篠山地図

篠山城付近の地図





篠山市立歴史美術館


歴史美術館外観

歴史美術館外観


 歴史美術館は明治24年(1891年)に篠山地方裁判所の庁舎として建てられ、昭和56年(1981年)まで使用されました。木造の裁判所建築としては最も古く、裁判所の役目が終わった後は、曳家工法で建物の向きを90度回転させ、外観および旧法廷を残しながら美術館として改築され、翌昭和57年に歴史美術館として開館しました。
 建築物の面積は564.2平方メートル。中央に玄関車寄せを置き前面左右に法廷を置き、上から見るとEの形になっています。
 館内は旧法廷が再現されているほか、篠山市に伝わる武具、漆芸品、絵画の他、篠山藩窯王地山焼の陶磁器、埋蔵物などが展示されています。





歴史美術館図

歴史美術館見取り図





歴史美術館廊下

歴史美術館廊下


 右手が各部屋の壁を取り払い、広い展示室になっています。




法廷2

法廷


 


法廷

法廷


 当時の法廷を再現しています。

 





青山歴史村



青山長屋門

長屋門


 篠山城三の丸を囲む外堀の北側に青山歴史村があります。
 青山家は忠朝(ただとも)の時代、寛延元年(1748年)に隣りの丹波亀山から篠山に転封となり、以来明治維新まで篠山藩を治めました。
 歴史村は青山家の明治時代の別邸、桂園舎を中心に約二九〇〇平方メートルの敷地に、土蔵三棟と茅葺き入母屋造りの長屋門が建っています。長屋門はもともと篠山藩士澤井家にあったものでしたが、昭和32年(1957年)にこの地に移築されたもので、文化年間(1804~1818年)頃の建物と言われています。
 昭和62年(1987年)に青山歴史村として開館し、青山家ゆかりの品々や、篠山藩藩校「振徳堂」の蔵書などの一部を展示しています。






青山歴史館図

青山歴史村見取り図




青山土蔵

桂園舎土間




青山座敷

桂園舎座敷


 床の間には青山家の家紋である「青山銭紋」の入った壺が置かれていました。

 青山氏は元々上野国(群馬県)青山郷に住んでいた武士でしたが、三河国(愛知県)の額田群百々(どうどう)に移住し、松平氏に仕えてきた譜代大名です。宗家と分家があり、篠山藩が宗家、美濃国郡上藩が分家になります。
 東京に青山という地名がありますが、青山家に由来するもので、青山通りを挟んで北側に宗家の青山家藩邸、南側に郡上藩の下屋敷(今の青山霊園)がありました。




 

青山庭

桂園舎庭


 桂園舎の北側にある庭です。庭の横には古文書を収める土蔵が二棟建っています。





青山版木館

版木館


 長屋門の横に立つ大きな土蔵が版木館です。篠山藩では藩士教育のために版木で数多くの漢学書を印刷し刊行していました。歴史村では1200枚余りの版木を所蔵しています。版木の材質は桜の木を使用しています。





版木館内部

版木館内部


 太い梁が重厚な土蔵の屋根を支えています。内部は版木の他に数多くの史料が展示されています。