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姫路城大天守




姫路城大天守

姫路城大天守


 白漆喰総塗籠の姫路城大天守は外観が五層内部6階地下1階の五層七重の天守で、高さは石垣上約31。5メートル。石垣の高さが14.8メートル、石垣を含めた総高は46.3メートルとなり、高さ45メートルの姫山を含めると約91メートルあります。
 天守には大入母屋根の殿舎の上に望楼を載せる古い形の望楼式天守と、寄棟屋根の階を積み重ねる層塔式天守があります。
 姫路城は一層と二層がほぼ同大の広さ(左側がやや張り出している)の入母屋屋根の殿舎に三層の櫓を載せた望楼式天守に属しますが、上の三層の櫓は四層目と五層目の間の庇が寄棟であるなど層塔式に近い形となり、慶長後期によく見られる望楼式から層塔式への過渡期の天守になります。
 この時期の天守には松江城と名古屋城があり、松江城は望楼式でありながら構造は層塔式に近く、寄棟の様式も取り入れています。
 層塔式天守は慶長九年(1604年)から13年(1608年)にかけて藤堂高虎により築かれた今治城が最初と言われ、後に京都の亀山城に移築されています。その起源は金閣や銀閣など禅宗の舎利殿に見ることが出来ます。



大天守図

大天守の構造図



大天守側面図

側面構造図




東心柱

東大柱


 姫路城には東西に二本の心柱が使われています。柱は長さ約24メートルあり、地階から五階まで貫き、最上階である6階を支えています。東の大柱は太さは底部で96センチ、西の大柱は太さは84センチあり、上に行くほど細くなっています。

 昭和31年から39年にかけて行われた昭和の大修理で、二本の心柱は取り替えられ、東は台湾桧、西は木曽桧ですが、台車に乗せる際に台車から落ち二本に折れてしまい、二つの材料を繋ぎ金具で補強して使用しています。





大天守大入母屋

大入母屋破風



大天守側面図二

側面図


 大天守一層目の広さは桁行(東西)が84.5尺(25.35メートル)に対し、梁間(南北)は66.1尺(19.83メートル)と、奥行きがありません。これは望楼式天守の場合、奥行きを深くすると、必然的に二層目上の大入母屋屋根が巨大化し、屋根に使う瓦の重量が重くなりどうしても限界があるからです。
 そのため姫路城は正面から見るとバランスのよい美しい形の天守なのですが、側面から見ると幅(厚み)のないアンバランスな細長い姿になっています。




比翼入母屋破風

比翼入母屋破風


 四層目の二つの千鳥破風は外側に寄せ庇と連続し、入母屋破風を二つに別けたような形になります。このような破風を比翼入母屋破風と呼び、三年ほど後に築かれた名古屋城や大坂の陣後に築かれた福山城にも見られる様式です。



比翼入母屋破風内部

比翼入母屋破風内部


 北側の西の入母屋破風内部で、右側の窓が扉になり、外に出ることが出来ます。



二層入母屋破風

二層目入母屋破風


 大天守西側に層目にある入母屋破風です。



二層目入母屋破風内部

二層目入母屋破風内部


 入母屋破風内部で、縦格子窓が二つ並び、右側の窓は開くことが出来ます。

 垂木の間にスプリンクラーが備えられ、万が一の火災に対応出来るようにしています。




唐破風出格子窓

唐破風と出格子窓


 南側二層目にある出格子窓と、その軒の大きな唐破風です。出格子窓の下には石落としが隠されています。大天守にはこのような出格子窓が一層目東側にもあります。




出格子窓石落とし

出格子窓と石落とし





屋根瓦

屋根瓦


 姫路城の瓦には台風などの強い風で瓦が飛ばされないように、また雨が瓦の隙間から入り込まないように、白漆喰目地で押さえています。

 昨年(2015年)に平成の大修理を終え公開された姫路城が屋根まで白いと言われたのは、この白漆喰の目地のためで、やがてカビが生えねずみ色になっていきます。

 また姫路城の城の壁が白漆喰塗りなのは、大坂城など豊臣系の城が、黒色の下見板張に対抗して、江戸城、駿府城など徳川系の城郭が白漆喰総塗籠で造られているためで、徳川家康の娘婿である池田輝政が、徳川方の城郭として築いたからです。

姫路城天守



大天守、西、乾小天守

天守群


 姫路城天守は連立式天守として知られています。天守は平面で見ると単独で建つ単独式から始まり、入り口を守るため、または入り口として付け櫓を付属させた複合式。付け櫓の代わりに規模の大きい小天守を渡り櫓で繋げた連結式と進歩し、松本城のように小天守と付け櫓を両側に持つ複合連立式、広島城のように両側に小天守を持つ複連立式があります。そして大天守に三つの小天守を渡り櫓で繋げたのが連立式天守になります。連立式天守はこの姫路城の他、愛媛県の松山城、和歌山県の和歌山城があります。かつて徳川家康が築いた江戸城も連立式天守だったと言われ、最も厳重な天守の形になります。




天守平面図

天守平面図


 姫路城は大天守の西に西小天守、北西に乾小天守、北に東小天守があり、大天守と東小天守の間をイの渡り櫓、東小天守と乾小天守の間をロの渡り櫓、乾小天守と西小天守の間をハの渡り櫓、西小天守と大天守の間をニの渡り櫓で繋げ、中に出来た中庭に籠城戦に備え台所櫓があります。




水五の門

水五の門、ニの渡り櫓


 姫路城天守の入り口と言うべき水五の門。大天守と西小天守の間にあり、門の上の二層の渡り櫓は、ニの渡り櫓になります。





水五の門内部

水五の門内部


 水五の門を入ったところで、向かいは大天守の地階になります。入っていきなり塗り籠めの塀が立ちふさがっています。





西小天守入り口

西小天守


 水五の門を入り、左に曲がり西小天守下の門を潜り、中庭に出ます。厳重すぎる構造になっています。





天守中庭台所櫓

中庭


 右側が大天守、正面が台所櫓。奥がロの渡り櫓になります。





登城口

登城口


 中庭を通りようやく登城できます。階段は急です。




乾櫓

乾小天守


 天守の北西にあるのが乾小天守で、三つある小天守の内、最も大きな小天守になります。三層内部四階、地下一階(他は三層内部三階)。広さは五間四方、三層目が三間四方で、北と西側に火頭窓が二つずつあります。





イの渡り櫓

乾櫓から見るイの渡り櫓


 天守の北側にある北腰郭の櫓群の西端になります。正面のイの渡り櫓は梁間四間、桁行が東(右)が三間、西(左)が四間の変形の平櫓です。




水一の門

天守から見る水一の門


 ロの渡り櫓西端から見たところです。左が乾小天守になります。小さな門が水一の門。そのとなりが油塀です。





ロの渡り櫓内部

ロの渡り櫓内部


 東小天守と乾小天守を繋ぐ二層地下一階の渡り櫓です。





出格子石落とし

ロの渡り櫓出格子窓


 ロの渡り櫓にある出格子窓。下は石落としになっています。白漆喰の格子は八角形で中に鉄が入っているようです。





狭間内側

狭間


 大天守や小天守、渡り櫓には数多くの狭間が配置されていますが、平時は塞がれています。





ハぼ渡り櫓ホの櫓

ニの渡り櫓、ホの櫓


 ニの渡り櫓は綺麗なカーブを描いています。梁間四間、桁行十間の長櫓で塩などの生活物資が貯蔵されていたといいます。ホの櫓は二層で一層目が桁行五間、梁間四間。二層目が桁行五間、梁間三間半あります。





トの門

との門と折り廻り櫓


 左のシートで囲まれているのがとの門で搦め手になり、門を下ると喜斎門に出ます。右の塗籠櫓が折廻り櫓で備前丸と隔てる長櫓で、その横の門がちの門です。





大天守入り口

大天守入り口


 イの渡り櫓から見た大天守入り口。観音開きの扉は白漆喰が塗籠められ、防火に余念がありません。

姫路城内郭



姫路城内郭図

姫路城内郭図


 姫路城内郭は東西約460メートル、南北約550メートル。広さは約24ヘクタールあり、内郭を囲む内堀は約1.8キロメートルほどあります。
 内郭の北側に高さ約45メートルの姫山があり、頂に五層の天守が築かれ、その西側にかつて鷺山という山があり、今の西の丸となっています。本丸と西の丸の間に二の丸、その南側に三の丸があります。本丸の背後は勢隠という帯曲輪があり、堀が二重に囲む厳重な構えとなっています。
 かつて天守の下に本丸(備前丸)があり、池田輝正の時代、藩主が生活する御殿がありましたが、手狭で不便だったため、池田氏の後、姫路城主となった本多忠政、忠刻(ただとき)父子の時代、三の丸に御殿を建て藩主の生活の場、姫路藩の政庁とし、御居城と呼びました。その向かい側に向屋敷という下屋敷がありました。





桐門

大手門


 三の丸の南に位置する姫路城の大手門で、一番奥が桐一の門と呼ばれる櫓門で、その手前に桐二の門という高麗門、さらにその手前には桜門という高麗門がある三重構えの枡形門がありました。しかも桐一の門と桐二の門は180度向きを変える(普通の枡形門は90度)という他にはない厳重なものでした。
 現在、桐二の門跡に建つ高麗門は昭和13年(1938年)に建てられたものです。冠木までの高さは6メートル近くある巨大なもので、大型トラックでも十分通行できます。





武蔵御殿跡

武蔵野御殿跡


 池田氏の後に姫路城主となった本多忠政の嫡子、本多忠刻は、徳川家康の孫で豊臣秀吉の子、秀頼の正妻だった千姫が元和2年(1616年)再婚した相手です。忠政は息子夫婦のために新たに西の丸を築きますが、桐の門横に下屋敷を建てました。その屋敷の襖には武蔵野を思わせるススキが一面に描かれていたため、武蔵野御殿と呼ばれました。
 忠刻はなかなかの美男子だったようでしたが、寛永3年(1626年)に31歳で亡くなりました。千姫29歳、その後再婚せず、天樹院と号し江戸城竹橋門の屋敷でひっそりと余生を送り、寛文6年(1666年)に70歳で亡くなりました。
 二人の間には男女二人の子供がいました。長男幸千代は幼くして亡くなりましたが、長女勝姫は池田輝正の孫で名君として名高い光政に嫁いでいます。




三の丸

三の丸


 かつて三の丸には御殿の他に池泉回遊式庭園を持つ向屋敷、蔵、厩舎などが建っていました。現在は何も残らず、緑の芝生の貼られた広大な広場となっています。





菱門

菱の門


 二の丸の入り口で、現在の姫路城の正門が菱の門です。
 桁行十間半(約20メートル)梁間4間、二重の櫓門で、白漆喰塗り籠めの柱や長押などの構造材が出ている真壁造りとなっています。門の左右に番人部屋と納屋があります。二階の連子窓の両脇に華頭窓があり、その右側に出格子窓があります。門扉を支える柱の上に菱紋の装飾があることから菱の門と呼びました。





姫路城内郭

本丸図


 本丸は天守と備前丸を中心に、秀吉時代の縄張りを流用し、小さな曲輪を周囲に配した複雑な構造となっています。
 天守の南に、御殿のある備前丸、天守北側に北腰曲輪、西側に水曲輪があり、東側一段したの帯曲輪、井戸曲輪。備前丸南側一段下に上山里曲輪。西側に乾曲輪があります。本丸の南東に二の丸があります。




三国堀

三国堀


 二の丸の真ん中にあるのが三国堀で、池田輝政の領国、播磨、備前、淡路の三国から名付けられました。堀と言うよりも一種の溜池で、雨水を蓄え、戦時には飲料水として利用するのでしょう。
 また菱の門を破って侵入した敵を、前方と右に分散させる役割もありました。




三国堀埋め立て跡

堀跡


 拡大してみるとわかると思いますが、石垣の中に算木積みがあります。秀吉時代には小さな沢が三国堀へ流れ込んでいました。輝政が改築した際、埋め立てたのでしょう。





はの門

はの門


 二の丸から乾曲輪に向かう坂で、時代劇によく出てくる場面です。坂を登り切ったところにある門がはの門です。





にの丸石落とし

乾曲輪石落とし


 乾曲輪の塀は綺麗にカーブしており、二カ所に石落としが設けられています。





にの門櫓

にの門


 にの門はろの櫓と結合した複雑な形をしており、切り妻破風を乗せた石落としが設けられています。





にの門

にの門


 にの門はトンネルのように長く、途中で右に折れています。





天守背面

天守北側


 天守北側、ろの渡り櫓です。天守北側は北腰曲輪となっており、潮櫓など、生活物資を納めた多門櫓が建っています。以前は入れましたが、現在は入れません。





油塀

油壁


 幅約5メートル、高さ約2.2メートル、底部の厚さは約1.24メートルあり、白漆喰の総塗り籠めの姫路城の塀の中では唯一、土が剥き出しの塀で、輝政以前の姫路城内で最も古い塀と言われています。

 山土に豆砂利を混ぜ粥汁で練り合わせた土を、仮枠内で叩き固めたもので、コンクリートのように硬いと言われています。





天守西狭間

水曲輪


 天守に西側にある小さな曲輪です。塀には数多くの狭間が開かれています。





天守下

天守下


 水三の門を出て水曲輪を抜けると天守下に出ます。まだ水四の門、水五の門があり、その先がようやく天守に入れます。