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西の丸



天守より見る西の丸

大天守より見る西の丸


 大坂の陣が終わり二年が過ぎた元和元年(1616年)。播磨国を治めていた池田氏は輝政の嫡子、利隆が弱冠33歳で亡くなり、まだ幼かった光政が相続しましたが、幕府は姫路を重要視し、幼い光政では荷が重すぎると因幡国鳥取に転封となり、代わって伊勢国桑名から本多忠政が十五万石で姫路に移ってきました。
 本多忠政は徳川家康の重臣で徳川四天王の一人、勇猛果敢な武将で知られる本多忠勝の嫡子で、姉は大河ドラマ真田丸で話題の真田信繁(幸村)の兄、真田信之の正妻、小松姫になります。
 忠政の嫡子、忠刻は将軍徳川秀忠の娘、千姫を娶り、千姫の化粧料として十万石が与えられ、また忠政の次男、政朝(まさとも)が隣接する竜野藩五万石が与えられ、一族で三〇万石が与えられました。譜代大名としては破格な石高です。
 忠政は姫路城主になると、忠刻、千姫夫婦のために隣接する鷺山に西の丸を新たに築きました。面積は約3627坪の半円形の曲輪で、山を崩し斜面に盛り土をして台地を築き殿舎を建て、西側の外縁、カの櫓から化粧櫓まで長さ一六〇間の長櫓で繋ぎ、間に三つの櫓を持ち、千姫付きの侍女が生活したことから、長局と呼ばれました。





西の丸図

西の丸図


 今はありませんが、南北に殿舎が並んでいます。

 本多忠刻、千姫夫婦が生活したのでしょう。






カの櫓

カの櫓


 西の丸南西隅にある二層の隅櫓です。梁間約6メートル、桁行約10メートルの大きさで、三カ所に石落としが設けられています。





西の丸への坂

西の丸への坂道


 菱の門の西脇に西の丸への登り口があります。




武者溜まり入り口

武者溜まり入り口


 上の西の丸への登り口の途中、左側に武者溜まりの入り口があります。戦時には兵を忍ばせておりました。現在は犬矢来風の柵があり、中には入れません。






ワの櫓

ワの櫓


 西の丸南西隅にある二層の隅櫓で、ここから化粧櫓まで続く長局に入ります。

 梁間は南側約6メートル、北側が約7、3メートル、桁行約6メートルの変形の櫓です。





レの渡り櫓内部

レの渡り櫓内部


 ワの櫓からをの櫓までを結ぶ渡り櫓。梁間は2間(約4メートル)
 部屋で仕切られ、左側が堀となり、武者が通れるように左側に戸があります。




渡り櫓埋め門

埋門


 渡り櫓には所々に、出入り口があります。






雨水抜き穴

雨水抜き穴



雨水抜き管

雨水抜き管


 姫路城には窓の戸の敷居の溝に溜まった雨水が、外に流れるように、雨水を抜く管が埋め込まれています。管はかつては竹製でしたが、耐久性がないため現在は鉄製になっています。
 上の写真は天守のものです。





石落とし

石落とし




狭間

狭間


 長局は女性が住む建物ですが、姫路城の西側を守る曲輪だけに、各所に石落としや狭間などの戦のための設備が設けられています。





長局

長局


 ヲの櫓から化粧櫓までは渡り櫓も大型化し、北へ行くほど高さを増していきます。





長局内部

長局内部


 ヺの櫓から北側は、渡り櫓も大型化し、梁間は三間(約六メートル)あります。堀側は幅約二メートルの武者走りとなり、西の丸側は小部屋で仕切られています。





千姫説明文

千姫の説明


 千姫はもちろん豊臣秀吉が溺愛した息子、秀頼の妻ですが、大坂城が落城して秀頼は亡くなり、千姫は江戸の父、秀忠の元に帰ります。その途中、桑名の渡しで藩主の息子、本多忠刻と出会い、見初めたと言われています。そして二年後の元和3年(1617年)に忠刻の下に再嫁することになります。

 忠刻の母は徳川家康の長男、信康の娘、妙高院になり、千姫と忠刻は家康の孫とひ孫の関係になります。

 また妙高院の母、徳姫は織田信長の娘になるから、信長の妹、お市の方の孫にあたる千姫とは二重の血縁と言うことになります。歳は忠刻が慶長元年(1596年)、千姫が慶長2年(1597年)生まれと一つ違いになります。

 千姫と忠刻の仲はよく、元和4年(1618年)に勝姫、よく元和5年に長男幸千代が生まれます。この時代が千姫にとって最も幸せな頃でした。

 元和7年(1621年)に幸千代がわずか3歳で亡くなり、さらに五年後の寛永3年(1626年)5月に夫の忠刻が結核で亡くなりました、享年31歳、早すぎる死でした。父親の忠政はまだ健在で、忠刻はまだ部屋住みの身分でした。本多家は忠刻の弟で竜野藩主の政朝が相続しました。

 わずか5年のうちに最愛の息子と夫を亡くした千姫は悲嘆に暮れました。追い打ちを掛けるようにこの年の11月に母のお江与の方までもが亡くなります。

 その後再婚することなく、出家し天樹院と名乗り、江戸城竹橋の屋敷で余生を過ごしました。

 娘の勝姫は寛永5年(1628年)父、秀忠の養女となり、奇しくも姫路城を築いた池田輝政の孫で、鳥取藩主の池田光政と結婚しています。

 千姫は寛文6年(1666年)に70歳で亡くなりました。 数奇な運命に翻弄された人生と言えるでしょう。






化粧櫓内部

化粧櫓内部


 長局の北の端が化粧櫓です。梁間三間(約6メートル)、桁行七間(約14メートル)の二層の櫓です。

 二階は畳敷きで、主室は15畳、北西側に床の間があります。次の間は18畳あります。天井は竿縁天井となり、生活の出来る場所でした。

 他の櫓とは違い、窓が大きくとられ、外光を多く取り入れられる明るい部屋になっています。

 娘の勝姫とカルタ取り?をする千姫の人形が飾られていました。

備前丸


本丸図

本丸古図




備前丸

備前丸


 天守の前に広がる郭が本丸になります。池田輝政と徳川家康の娘、督姫との間に出来た次男忠継に備前国岡山藩二十八万石が与えられたことから、それにちなんで本丸を備前丸と呼びました。

 上の古図からわかるように、備前丸の周囲には長櫓が築かれていました。南側が長局という二階建ての長櫓、西側に御対面所、そして大天守の南東側に御台所があり、本丸御殿の機能を果たし、初代城主、池田輝政は備前丸で生活をしました。しかし手狭であることは否めず、三の丸に御殿が建てられ、藩の政庁の機能は移されました。

 備前丸の諸櫓は、残念ながら明治十五年(1882年)に、火災で焼失してしまいました。現在まで残っていたらさぞ壮観な光景だったでしょう。





折廻櫓

折廻櫓


 大天守の東側にある二階建ての櫓です。横に備前門が付属しています。

 こちら側が内側になり二階建てになっていますが、外側は一階が石垣になっています。







井郭櫓

井郭櫓


 折廻櫓横の備前門を出たところに井郭櫓があります。白漆喰総塗籠一重の櫓で、梁間四間、桁行六間の大きさです。搦め手口を守る役割がありました。名前の由来となる井戸が中にあります。


井郭櫓内部

井郭櫓内部


 井郭櫓の内部にある井戸で、深さは約24メートルあります。梁材には釣瓶を引き上げる滑車が架かっています。






帯郭櫓

帯の櫓


 この櫓も搦め手口を守る櫓です。南と北に並ぶ二列の櫓を東側で繋げた、上から見るとコの字型になる風変わりな櫓で、南側の内部は畳敷きで数寄屋風の部屋があります。

 帯の櫓下の石垣が、姫路城内で最も高い石垣になり、高さは24メート利あります。

 この櫓の下を通り、井戸曲輪に出ます。井戸曲輪にある帯郭櫓が検死台に見えたことから、別名切腹丸と呼ばれましたが、実際にここで切腹したという事実はありません。



 


土塀

土塀


土塀中

土塀の屋根下


 土塀の屋根に隙間があり、屋根の構造がわかります。

 垂木に支えられ、細い竹材が簀の子状に並べられ、その上に土が敷かれ、本瓦の瓦が葺かれています。漆喰で塞いでしまうと、湿気で竹材や材木が傷んでしまうために、風通しをよくしているのでしょう。





への櫓

への櫓


 山里曲輪へ抜けるところにある櫓で、現在は太鼓櫓と呼ばれています。






上山里曲輪


チの櫓リの渡り櫓外観

上山里曲輪櫓群



 備前丸の南側一段下にある曲輪です。上山里、下山里と二つの曲輪が南北に並んでいます。

 山里と言えば豊臣秀吉が大坂城本丸北側に設けた、野山(山里)を再現した茶の湯を楽しむための曲輪が有名で、その後秀吉が築いた聚楽第や名護屋城にもありました。

 姫路城の山里曲輪は周囲に櫓が連なるだけで、遊興的な施設はありません。

 現在は南西側にチの櫓、り一の渡り櫓、二の渡り櫓が残っていますが、以前は東側に多門櫓、南側にトの櫓がありました。

 


お菊井戸

お菊井戸


 上山里曲輪の中心にある、播州皿屋敷でお菊が投げ込まれたと言われる井戸です。

 姫路城は室町時代から続く城郭で、おどおどろしい伝説が数多く残っています。


チの櫓リの渡り櫓内部

チの櫓とりの一の渡り櫓


 二重の櫓がチの櫓で、りの一の櫓と繋がっています。





リの渡り櫓

りの二渡り櫓


 内部には歴代の鯱が展示されています。






ぬの門

ぬの門


 りの二渡り櫓に繋がる二重の櫓門で、上山里曲輪の入り口になります。




るの門

るの門


 りの二渡り櫓の下にある埋め門形式の小さな門で、いざとなれば土砂で埋めてしまうことが出来ました。






三国堀

三国堀


 るの門を出ると、三国堀の南側に出ます。





大天守一階



1階内部

入側と大広間


 大天守一階は内側の母屋(内陣)が南と北に別れ、北側が三間四方の部家が三つ、南側が三間九間の大広間になっていて、その周囲を幅二間の入り側(武者走り)が廻らされています。




一階入り側

一階入側

 入側の壁には槍や鉄砲などを掛ける、武具掛けが並んでいます。







二階


 大天守二階は、一階とほぼ同じ構造となっています。


二階入り側天井

二階入側の天井


 天井の真ん中に通る桁が、三階の壁を支えています。






三階


三階中二階

三階入側


 三階は全階の中で天井までの高さが最も高く、約5.2メートルほどあります。南北側の窓の位置が高く、南北の入側の中二階に武者走りが通されています。

 また三階には四隅に兵を隠しておく武者隠しがあります。



三階中二階登り口

武者走りの登り口






四階


四階

四階内部


 四階は九間六間の広さで、仕切られておらず、そのまま大きな部家となっています。南北の四隅に比翼入母屋破風の中の部家があります。




四階石打ち棚

石打棚

 大天守の四層目は、四階と五階に別れ、四階の窓の位置が高いために、石打棚が設けられています。







五階


五階

五階内部


 五階は東西九間、南北六間の広さで周囲を入側が囲んでいますが、入側は建具で隠されています。

 南北に千鳥破風、東西に唐破風があり、破風の中に部屋が設けられています。




五階破風の間

唐破風内部







六階



刑部神社

刑部大神


 大天守最上階には刑部大神が祀られています。刑部大神は刑部氏の氏神と言われ、古くから姫山に鎮座されていました。秀吉の時代に総社に移されましたが、池田輝政が城主の時、輝政が重い病にかかり、刑部大神を城内の「と」三門内に移しました。





六階展望

最上階から南東方面の眺め


 三の丸の東側、馬出し(出丸)状の御作事所や、本丸下まで入り込んだ堀の様子がわかります。





六階千鳥破風

千鳥破風内側


 北側の千鳥破風の内側です。五七桐紋の瓦が使われています。








地階



地階

地階内部


 地階は南と東が石垣で囲まれ、北と西が中庭に面した半地下式となっています。内部は三間四方の部家が六室並び、奥(南)の三室は武器庫となっています。その北側と東側に幅二間の入り側が廻らされています。





地階流し

地階流し


 地階には流しや厠など、生活のための施設があります。




地階入り口

出入り口


 大天主の西側脇に出入り口があります。筋金が全面に張られた頑丈な扉があります。

 写真の正面は中庭に飛び出した台所櫓、右は大天守の下部です。