備前丸
本丸古図
備前丸
天守の前に広がる郭が本丸になります。池田輝政と徳川家康の娘、督姫との間に出来た次男忠継に備前国岡山藩二十八万石が与えられたことから、それにちなんで本丸を備前丸と呼びました。
上の古図からわかるように、備前丸の周囲には長櫓が築かれていました。南側が長局という二階建ての長櫓、西側に御対面所、そして大天守の南東側に御台所があり、本丸御殿の機能を果たし、初代城主、池田輝政は備前丸で生活をしました。しかし手狭であることは否めず、三の丸に御殿が建てられ、藩の政庁の機能は移されました。
備前丸の諸櫓は、残念ながら明治十五年(1882年)に、火災で焼失してしまいました。現在まで残っていたらさぞ壮観な光景だったでしょう。
折廻櫓
大天守の東側にある二階建ての櫓です。横に備前門が付属しています。
こちら側が内側になり二階建てになっていますが、外側は一階が石垣になっています。
井郭櫓
折廻櫓横の備前門を出たところに井郭櫓があります。白漆喰総塗籠一重の櫓で、梁間四間、桁行六間の大きさです。搦め手口を守る役割がありました。名前の由来となる井戸が中にあります。
井郭櫓内部
井郭櫓の内部にある井戸で、深さは約24メートルあります。梁材には釣瓶を引き上げる滑車が架かっています。
帯の櫓
この櫓も搦め手口を守る櫓です。南と北に並ぶ二列の櫓を東側で繋げた、上から見るとコの字型になる風変わりな櫓で、南側の内部は畳敷きで数寄屋風の部屋があります。
帯の櫓下の石垣が、姫路城内で最も高い石垣になり、高さは24メート利あります。
この櫓の下を通り、井戸曲輪に出ます。井戸曲輪にある帯郭櫓が検死台に見えたことから、別名切腹丸と呼ばれましたが、実際にここで切腹したという事実はありません。
土塀
土塀の屋根下
土塀の屋根に隙間があり、屋根の構造がわかります。
垂木に支えられ、細い竹材が簀の子状に並べられ、その上に土が敷かれ、本瓦の瓦が葺かれています。漆喰で塞いでしまうと、湿気で竹材や材木が傷んでしまうために、風通しをよくしているのでしょう。
への櫓
山里曲輪へ抜けるところにある櫓で、現在は太鼓櫓と呼ばれています。
上山里曲輪
上山里曲輪櫓群
備前丸の南側一段下にある曲輪です。上山里、下山里と二つの曲輪が南北に並んでいます。
山里と言えば豊臣秀吉が大坂城本丸北側に設けた、野山(山里)を再現した茶の湯を楽しむための曲輪が有名で、その後秀吉が築いた聚楽第や名護屋城にもありました。
姫路城の山里曲輪は周囲に櫓が連なるだけで、遊興的な施設はありません。
現在は南西側にチの櫓、り一の渡り櫓、二の渡り櫓が残っていますが、以前は東側に多門櫓、南側にトの櫓がありました。
お菊井戸
上山里曲輪の中心にある、播州皿屋敷でお菊が投げ込まれたと言われる井戸です。
姫路城は室町時代から続く城郭で、おどおどろしい伝説が数多く残っています。
チの櫓とりの一の渡り櫓
二重の櫓がチの櫓で、りの一の櫓と繋がっています。
りの二渡り櫓
内部には歴代の鯱が展示されています。
ぬの門
りの二渡り櫓に繋がる二重の櫓門で、上山里曲輪の入り口になります。
るの門
りの二渡り櫓の下にある埋め門形式の小さな門で、いざとなれば土砂で埋めてしまうことが出来ました。
三国堀
るの門を出ると、三国堀の南側に出ます。