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三重目闇の間二

三重目


 二層目の屋根裏にある、外から見えないのが三重目で、別名暗闇重とも呼ばれています。窓はなく、南側千鳥破風の木連格子に開かれた明かり取りから光が入るだけです。戦時には兵士が集まる武者溜まりとなりますが、普段は倉庫として使われていました。


闇の間破風窓

木連格子の明かり取り



破風

千鳥破風


 三層目の千鳥破風に木連格子が嵌まり、中央下が明かり取りとなっています。




三重目千鳥破風内部

千鳥破風内部


 松本城天守の中で最も大きい千鳥破風です。



四重目御座の間

御座の間


 四重目は戦時に城主が入る御座の間となっています。そのため柱や鴨居、長押などは檜で鉋がけされており、鴨居の上は小壁となっていて、他に比べて丁寧な造りとなっています。四方に窓があり、部屋の中は明るく天井が高いので広く感じます。
 御座所の廻りに御簾がかけられて展示されており、格式が感じられます。



四重目柱

御座の間の柱


 柱や鴨居、長押は鉋がけされており、丁寧な造りとなっています。




五重目階段

五重目


 五重目は中央が三間四方の広間となり、周囲を入側を廻らし、東西に千鳥破風、南北が唐破風があり、それぞれが出窓のように張り出して小さな空間を作っています。
 戦時の時にはこの部屋に重臣たちが詰めました。
 天井までが4.54メートルと高く、最上階に行く階段は途中踊り場があります。角度は緩やかですが、多少のゆがみがあり、頭上に梁があるなどして登りづらくなっています。



唐破風内部

唐破風の間


 千鳥破風に比べ、天井が緩やかなカーブを描いているのがわかります。




唐破風外

南側唐破風


六重目屋根裏

最上階天井


 最上階は三間四方の広間に周囲を1メートル余りの入側を廻らせる構造です。これはかつて廻り縁の高欄を巡らせていたのを、周囲を高い山で囲まれ強い風が吹く土地柄のため、風よけとして回り縁を含め壁で囲んだものです。
 天井は太い桁や梁が井桁のように組まれ、四方に垂木が伸びているのがわかります。



六重目人形

二十六夜神


 天井裏には松本城の守り神である二十六夜神が祀られています。享保12年(1727年)に本丸御殿が火災で焼失した時、天守が難を免れたのは二十六夜神のおかげだと言われています。






六重目眺め

天守からの眺め


 西の北アルプス方面を見ています。冬になれば頂を白くさせ、さぞ美しい眺めになるでしょう。

二重目窓

竪格子の武者窓」


 二重目は四方に立格子の武者窓が設けられ、光が入り一重目に比べて遙かに明るくなっています。かつては八室に分けられていたようです。
 松本市出身の赤羽通重氏が収集した141挺のの鉄砲を始め、数多くの装備品、文献史料が松本市に寄贈され、平成11年3月に松本城鉄砲蔵として、松本城および松本市立博物館に別けて展示されました。



火縄銃

火縄銃


 火縄銃は玉の重さによって、細筒(足軽銃)、中筒(侍銃)、大筒に分けられます。細筒は二匁玉筒(口径11ミリ)前後、中筒は10匁玉筒(口径19ミリ)前後、大筒は20匁玉筒(口径24ミリ以上)となります。





馬上筒

馬上筒など


 他にも城内の狭間からの射撃専用に造られた長砲身の狭間筒。馬上で扱いやすいように重臣を50センチ程度に短くした馬上筒。さらに銃身を短くした短筒があります。馬上筒は加藤清正が取り入れました。

上から狭間筒、短筒、馬上筒になります。





火縄銃産地

火縄銃の産地


 薩摩筒
天文12年(1543年)に種子島に漂着した南蛮船から、火縄銃2丁を購入した種子島の領主、種子島時堯(ときたか)は、一丁を島津氏を通じて京の室町幕府12代将軍、足利義晴に送り、もう一丁を鍛冶師の八坂金兵衛に命じて分解させ、鉄砲の製造を試み、よく天文13年に完成しました。これが薩摩筒の始まりとなりました。


 根来筒(紀伊筒)
 種子島でいち早く火縄銃の製造を習得し、紀伊国根来に戻った津田監物が天文13年(1544年)に鍛冶師集団芝辻一家に製作させたことに始まります。
 織田信長の根来攻めもあり、隣国和泉の堺に生産地は移っていきました。


 堺筒
 泉州堺の商人、橘屋又三郎が種子島で火縄銃の製造を学び、堺の鍛冶師たちに銃の製造法を伝えました。紀州根来より芝辻清右衛門等を招き、火縄銃造りが盛んになりました。芝辻、榎並屋、井上、田中家が製造に当たり、徳川幕府の直轄地として幕末まで続きました。近江国国友村とともに二大生産地となりました。


 国友筒
 種子島時堯から足利義晴に送られた火縄銃は、製造を希望する義晴の意をくみ、幕府管領細川晴元は北近江の国友村に腕のいい鍛冶師集団がいることを知り、火縄銃の製造を命じたことに始まります。天文18年には織田信長より大量に注文が入り、織田、豊臣、徳川などの権力者の庇護の元発展し、日本有数の生産地となります。現存する火縄銃の三分の一は国友製と言われています。


 他に阿波筒、備前筒、仙台筒などが知られています。




火縄銃製作工程

銃身の製造


下の端を藁で巻いた芯棒に海苔巻き状に細長い鉄板を巻き付けていきます。
 その上に進み、その上から細長い鉄板を螺旋状に巻いていきます。巻き終わったら次は逆向きに巻き、銃弾の発射に耐えれる頑丈な砲身を作っていきます。




からくり一

カラクリの仕組み

 

 火縄銃の心臓である機関部をカラクリと言います。火縄銃は火皿に点火用の火薬を載せ、火鋏に挟んだ火縄が、引き金を引くことで火皿に落ちて火薬が発火し、それが銃身内の発射薬に着火し爆発、弾丸が飛ぶ仕組みとなっています。その火鋏を動かす仕組みをカラクリと言います。





からくり二

カラクリの種類


平カラクリ
伝来当時のカラクリに多少の改良を加えた程度の標準的なカラクリです。徒落(かけおち、暴発)の危険があります。


外記カラクリ
寛永時代に井上外記正継によって考案されたカラクリで、無双カラクリとも呼ばれます。火鋏がロックされ徒落の危険はありません。


蟹の目なき内カラクリ
二重ゼンマイカラクリとも呼ばれ、徒落の危険がないカラクリです。






火薬弾丸製造
銃弾、火薬の製造器具


 火薬、弾丸、火縄造りは武士の妻や娘の仕事でした。弾丸もそれぞれ口径が違うので、それにあった弾丸を造りました。火縄は出来不出来によって命中度が違うので大切な仕事でした。





棒火矢

棒火矢


 毛利水軍などが使っていた焙烙玉(中国の焙烙鍋に似た陶製の入れ物に火薬を詰め込み、ハンマー投げのように振り回して飛ばす武器)を、ロケット状にして大筒で飛ばす兵器です。実践では使用されませんでした。



当世具足

当世具足


 銃弾入れや、火薬入れなどを吊り下げています。



象嵌

象嵌いり銃身


 江戸時代になり平和な時代が続くと、火縄銃の発展は止まり、代わりに象嵌など凝った装飾を銃身や銃床に入れるようになりました。 




点火装置

点火方法の進歩



 左側上から指火式、火打式、指火式。右側上からピン打式、管打式 となります。

指火式は直接火を火門に押し付けて火薬に点火する方式で、最も原始的な方式です。固定式や車の上に載せる大砲ならいざ知らず、構えて撃つ銃には不向きで、15世紀に火縄銃が発明されると、急速に廃れました。


 火打ち式はホイールロックまたはフリントロックの二種類があり、火縄の代わりに火打ち石を使いました。日本では良好な火打ち石が取れなく普及しませんでした。引き金を引いて発射までタイムラグがあるため、命中精度が悪かったようです。

 ピン打ち式は 1836年にフランス人 カシミール・ルフォーシュ により考案された方式で、撃鉄(ハンマー)が落ちると、薬莢の後ろにある蟹の目のように飛び出したピンを叩き雷汞(らいこう、水銀を硝酸で溶かし、エチルアルコールを咥えた化合物。少しの衝撃で爆発)を爆発させ、薬莢内の火薬に点火させる方式です。


 管打式はパーカッション式と言われ、火皿の代わりに雷汞を詰めた金属製のキャップ(雷管)をセットし、ハンマーで叩いて着火し、銃身内の発射薬を爆発させる仕組みです。





火打ち式

火打式と管打式銃


 上が火打式銃、下が管打式銃です。





コルト

コルトのリボルバー


 西部劇でおなじみ、ピースメーカーや、ターミネーターに使われたM1911A1ガバメントなどを製造した、スミスアンドウエッソンや、ウインチェスターと共にアメリカを代表する銃器メーカーです。創業は1836年、日本では天保6年。サミュエル・コルトによって創業された老舗メーカーでしたが、今年(2015年)の6月に倒産しました。
 写真は上からM1862ポリス、M1851ネイビー、M1861ネイビーリボルバーとなります。いずれもパーカッション(管打式)シングルアクションリボルバーで、アメリカ南北戦争(1861年~1865年)頃の銃になります。銃弾の装填が面倒で、弾倉の前から火薬、丸弾丸を詰め、銃身の下に付いたラマ―(突き棒)で押し込み、後ろから雷管を詰めるもので、弾倉ごと交換することも出来ました。
 


天守

松本城天守


 間近で下から眺めるとなかなかの迫力です。






渡り櫓入り口

天守登城口


 大天守と小天守をつなぐ渡り櫓の下に入り口があります。

 入って右側の小天守の方に進みます。






小天守二階

小天守二重目


 小天守は外観が三層、内部は四重になっています。残念ながら三重目から上は非公開となっています。

 上の写真は小天守二重目から渡り櫓を眺めたところです。






天守一階

大天守一重目


 渡り櫓を通り、急な階段を下り大天守一重目に入ります。一重目は窓が小さく中は薄暗区なっています。内部は7×8の56本の柱が規則正しく並んでいます。





天守一階武者走り

武者走り


 大天守一重目は外側の一段下に武者走り(入り側)が廻らしています。大天守自体が17メートル×15メートルと狭いため、むしゃばしりも150センチあまりと他の五層天守に比べて狭くなっています。

 その中で堀側の武者走りは、内側に比べて少し広くなっています。





天守台

天守平面図


 松本城が築かれた文禄から慶長初期は石垣造りはまだ未熟で、正確な長方形には出来ず、中の方が少し内側にくぼんだ、上から見ると糸巻き状になってしまいます。

 天守の柱や壁は石垣の際に沿って建てられるため、中の方が少し内側にくぼんでしまい、その影響は二重目まで及んでいます。




柱

でこぼこの柱


  現在使われる台鉋は室町時代、中国から入ってきたようですが、この時代は一般には使われず、大工は釿(ちょうな・ちょんな)を使って、材木を荒削りしました。下の写真が釿です。

 古い材木には釿で荒削りした跡が残っています。




ちょうな

釿(ちょうな・ちょんな)





しゃちほこ

しゃちほこ


 鯱は頭が虎、体が魚の想像上の動物で、口から水を噴きだし火を消すことから、建物を火災から守る呪いとして、大棟に載せられました。

 昭和の大修理(昭和25年~30年)の時に下ろされた鯱が展示されています。高さは雄が127センチ、雌が124センチあります。





家魚

懸魚心材


 千鳥破風や入母屋破風にはかぶら懸魚が取り付けられています。下のスペード形がかぶら懸魚になり、その上の黒いのが六葉になります。魚が付くように火災から木造の建物を守る呪いとして設えました。

心材は檜で、その上に下げ苧(さげお、麻)釘でを打ち付け、その上に漆喰を塗りました。





壁の構造

壁の断面


 松本城の漆喰壁は、外側が柱も全て塗り込める「大壁」、内側は柱を出す「真壁」となっています。厚さは一、二重目が約30センチ弱。上に行くほど薄くなっています。厚さ30センチもあれば鉄砲程度では打ち抜けませんでした。

 埋め込まれている縄は補強のためだと思います。





二階への登り口

階段と天井


 一重目は天井まで約2,5メートルと高くありません。

 一般に天井が低いのは、槍などの武器を使いにくくするためだと言われています。