竪格子の武者窓」
二重目は四方に立格子の武者窓が設けられ、光が入り一重目に比べて遙かに明るくなっています。かつては八室に分けられていたようです。
松本市出身の赤羽通重氏が収集した141挺のの鉄砲を始め、数多くの装備品、文献史料が松本市に寄贈され、平成11年3月に松本城鉄砲蔵として、松本城および松本市立博物館に別けて展示されました。
火縄銃
火縄銃は玉の重さによって、細筒(足軽銃)、中筒(侍銃)、大筒に分けられます。細筒は二匁玉筒(口径11ミリ)前後、中筒は10匁玉筒(口径19ミリ)前後、大筒は20匁玉筒(口径24ミリ以上)となります。
馬上筒など
他にも城内の狭間からの射撃専用に造られた長砲身の狭間筒。馬上で扱いやすいように重臣を50センチ程度に短くした馬上筒。さらに銃身を短くした短筒があります。馬上筒は加藤清正が取り入れました。
上から狭間筒、短筒、馬上筒になります。
火縄銃の産地
薩摩筒
天文12年(1543年)に種子島に漂着した南蛮船から、火縄銃2丁を購入した種子島の領主、種子島時堯(ときたか)は、一丁を島津氏を通じて京の室町幕府12代将軍、足利義晴に送り、もう一丁を鍛冶師の八坂金兵衛に命じて分解させ、鉄砲の製造を試み、よく天文13年に完成しました。これが薩摩筒の始まりとなりました。
根来筒(紀伊筒)
種子島でいち早く火縄銃の製造を習得し、紀伊国根来に戻った津田監物が天文13年(1544年)に鍛冶師集団芝辻一家に製作させたことに始まります。
織田信長の根来攻めもあり、隣国和泉の堺に生産地は移っていきました。
堺筒
泉州堺の商人、橘屋又三郎が種子島で火縄銃の製造を学び、堺の鍛冶師たちに銃の製造法を伝えました。紀州根来より芝辻清右衛門等を招き、火縄銃造りが盛んになりました。芝辻、榎並屋、井上、田中家が製造に当たり、徳川幕府の直轄地として幕末まで続きました。近江国国友村とともに二大生産地となりました。
国友筒
種子島時堯から足利義晴に送られた火縄銃は、製造を希望する義晴の意をくみ、幕府管領細川晴元は北近江の国友村に腕のいい鍛冶師集団がいることを知り、火縄銃の製造を命じたことに始まります。天文18年には織田信長より大量に注文が入り、織田、豊臣、徳川などの権力者の庇護の元発展し、日本有数の生産地となります。現存する火縄銃の三分の一は国友製と言われています。
他に阿波筒、備前筒、仙台筒などが知られています。
銃身の製造
下の端を藁で巻いた芯棒に海苔巻き状に細長い鉄板を巻き付けていきます。
その上に進み、その上から細長い鉄板を螺旋状に巻いていきます。巻き終わったら次は逆向きに巻き、銃弾の発射に耐えれる頑丈な砲身を作っていきます。
カラクリの仕組み
火縄銃の心臓である機関部をカラクリと言います。火縄銃は火皿に点火用の火薬を載せ、火鋏に挟んだ火縄が、引き金を引くことで火皿に落ちて火薬が発火し、それが銃身内の発射薬に着火し爆発、弾丸が飛ぶ仕組みとなっています。その火鋏を動かす仕組みをカラクリと言います。
カラクリの種類
平カラクリ
伝来当時のカラクリに多少の改良を加えた程度の標準的なカラクリです。徒落(かけおち、暴発)の危険があります。
外記カラクリ
寛永時代に井上外記正継によって考案されたカラクリで、無双カラクリとも呼ばれます。火鋏がロックされ徒落の危険はありません。
蟹の目なき内カラクリ
二重ゼンマイカラクリとも呼ばれ、徒落の危険がないカラクリです。
銃弾、火薬の製造器具
火薬、弾丸、火縄造りは武士の妻や娘の仕事でした。弾丸もそれぞれ口径が違うので、それにあった弾丸を造りました。火縄は出来不出来によって命中度が違うので大切な仕事でした。
棒火矢
毛利水軍などが使っていた焙烙玉(中国の焙烙鍋に似た陶製の入れ物に火薬を詰め込み、ハンマー投げのように振り回して飛ばす武器)を、ロケット状にして大筒で飛ばす兵器です。実践では使用されませんでした。
当世具足
銃弾入れや、火薬入れなどを吊り下げています。
象嵌いり銃身
江戸時代になり平和な時代が続くと、火縄銃の発展は止まり、代わりに象嵌など凝った装飾を銃身や銃床に入れるようになりました。
点火方法の進歩
左側上から指火式、火打式、指火式。右側上からピン打式、管打式 となります。
指火式は直接火を火門に押し付けて火薬に点火する方式で、最も原始的な方式です。固定式や車の上に載せる大砲ならいざ知らず、構えて撃つ銃には不向きで、15世紀に火縄銃が発明されると、急速に廃れました。
火打ち式はホイールロックまたはフリントロックの二種類があり、火縄の代わりに火打ち石を使いました。日本では良好な火打ち石が取れなく普及しませんでした。引き金を引いて発射までタイムラグがあるため、命中精度が悪かったようです。
ピン打ち式は 1836年にフランス人 カシミール・ルフォーシュ により考案された方式で、撃鉄(ハンマー)が落ちると、薬莢の後ろにある蟹の目のように飛び出したピンを叩き雷汞(らいこう、水銀を硝酸で溶かし、エチルアルコールを咥えた化合物。少しの衝撃で爆発)を爆発させ、薬莢内の火薬に点火させる方式です。
管打式はパーカッション式と言われ、火皿の代わりに雷汞を詰めた金属製のキャップ(雷管)をセットし、ハンマーで叩いて着火し、銃身内の発射薬を爆発させる仕組みです。
火打式と管打式銃
上が火打式銃、下が管打式銃です。
コルトのリボルバー
西部劇でおなじみ、ピースメーカーや、ターミネーターに使われたM1911A1ガバメントなどを製造した、スミスアンドウエッソンや、ウインチェスターと共にアメリカを代表する銃器メーカーです。創業は1836年、日本では天保6年。サミュエル・コルトによって創業された老舗メーカーでしたが、今年(2015年)の6月に倒産しました。
写真は上からM1862ポリス、M1851ネイビー、M1861ネイビーリボルバーとなります。いずれもパーカッション(管打式)シングルアクションリボルバーで、アメリカ南北戦争(1861年~1865年)頃の銃になります。銃弾の装填が面倒で、弾倉の前から火薬、丸弾丸を詰め、銃身の下に付いたラマ―(突き棒)で押し込み、後ろから雷管を詰めるもので、弾倉ごと交換することも出来ました。