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松本城天守

松本城天守



 西に3000メートル級の山々が連なる北アルプスを望む松本平に聳える5層天守で知られる松本城。黒塗りの下見板張りの外壁から別名烏城とも呼ばれます。
 五層天守としては最も古い城と言われ、文禄年間(1592年~1595年)の建築物とされ、現在五つある国宝の天守閣の一つです。
 松本城を築いたのは石川数正、康長親子です。石川数正は徳川家康の重臣でしたが、小牧長久手の合戦以降の豊臣陣営との交渉役として奔走、秀吉に認められ寝返った人物です。秀吉の配下となり和泉に領地を与えられました。
 天正18年(1590年)徳川家康が関東に移封となると、松本城に八万石で入封しました。天正20年に松本城改築の工事を始めましたが、このとき始まった朝鮮出兵、文禄の役で数正は肥前の名護屋城に出陣しますが、その最中に亡くなり、家督は嫡男康長が継ぎ、松本城の改築は継続し、文禄2年(1593年)頃に天守閣は完成しました。
 五層天守は織田信長の安土城に始まります。安土山に聳える高さ30メートルの大天守は権力の象徴でした。そして信長は最も信頼している柴田勝家に五層天守の造営を認め、
松本城縄張り図 信長の亡き後、天下人となった豊臣秀吉も五層天守を権力の象徴として使い、自らの居城である大坂城に、安土城に匹敵する大天守を造営し、名護屋城、そして伏見城にも五層天守を築きました。そして信頼する大大名に五層天守の造営を認めます。関東に移封された徳川家康を北から押さえるために会津90万石に移封された蒲生氏郷の会津若松城。加賀、能登83万石、前田利家の金沢城。中国地方121万石の太守、毛利輝元の広島城。備前、美作57万石の宇喜多秀家の岡山城です。
 それに対して石川数正、康長親子はたったの8万石の小大名に過ぎません。その石川父子に五層天守の造営を認めたのは、明らかに秀吉の最も恐れた大名、徳川家康への当てつけです。かつて家康の家臣だった石川数正に力の象徴である五層天守の造営を認め、家康を悔しがらせました。
 家康は天下を取ると、大坂城(高さ約30メートル)をしのぐ巨大天守を次々と築きます。本拠地である江戸城(約45メートル)。隠居城である駿府城(約33.5メートル)。九男義直のための名古屋城(約36メートル)がそれです。そして娘婿の池田輝政が築いた姫路城(31.5メートル)も大坂城をしのぐ天守でした。





松本城天守二

西側から見た天守





天守台

天守平面図


 松本城大天守の規模は平面が東西17メートル、南北15メートル。高さが約25メートルの層塔式天守です。北に三層の小天守があり二層の渡り櫓で繋がり、東には二層の辰巳櫓、更に東に単層で高欄を巡らせた月見櫓があり、連立複合式天守となっています。
 最上層である五層目が大きくなっているのは、以前は高欄が巡らされていたものを、風雪を避けるために壁で覆ったからで、幅に対して高さが高く、各層の低減率の低い、全体的にアンバランスなものとなっています。
 一層目腰部には石落としが設けられ、天守全体に鉄砲狭間、矢狭間など、戦いのための設備が設けられ、戦いのための城であることを窺わせます。




石落とし外

石落としと矢狭間、鉄砲狭間


 縦長の長方形の狭間が矢狭間、正方形の狭間が鉄砲狭間になります。




石落とし内

内側から見た石落とし





鉄砲狭間

石落としに設けられた矢狭間





 松本城は信濃の守護、小笠原氏の本拠地、林城の支城でかつては深志城と呼びました。戦国時代に信濃に進出した武田信玄により、信濃支配の拠点として大改築し、その後の松本城の基礎がこの時代に成立します。扇状地の一番下端に位置する平城で、本丸を中心に北側を除いて二の丸を配置し、それを囲むように三の丸が築かれました。三の丸の虎口には武田氏の城郭特有の丸の馬出が設けられ、三日月堀が馬出を囲んでいたと言われます。武田時代は重臣の馬場美濃守信房、信春父子が在城し、天正10年(1582年)に武田氏が織田信長によって滅ぼされると信春は深志城を開城し、信長に味方した木曽義昌に与えられましたが、信長が本能寺の変で倒れると、上杉景勝の力を借りた小笠原氏の分家、小笠原貞種が深志城を占領しますが、徳川家康の力を借りた本家の小笠原貞慶に攻められ旧領を回復し、深志城から松本城に名を改めました。



松本城縄張り図

松本城縄張り図




丸の馬出し

丸馬出し

 馬出を囲む堀が三日月形をしています。武田氏の城郭によく見られました。




 天正18年(1590年)の徳川家康の関東移封で、小笠原貞慶は下総の古河に移り、松本城には石川数正、康長父子が入ります。康長は関ヶ原の戦いで家康の東軍に付き本領は安堵されますが、慶長18年(1613年)大久保長安事件(家康の側近、大久保長安の死後、不正蓄財が発覚し改易となった事件。背後に家康の六男、松平忠輝やその舅の伊達政宗、キリスト教徒による幕府転覆の嫌疑がありました。長安は忠輝の付家老でした)に連座して改易となりました。元々徳川家の重臣だった石川家が、関ヶ原の合戦で勝利した徳川家に譜代として復帰しようと、大久保長安の取りなしを頼み、長安と深いつながりが出来たのがアダとなりました。
 松本には石川氏が改易になると、小笠原貞慶の子である秀政が信濃飯田より入封します。秀政は大坂の陣で戦死し、息子の忠真が後を継ぎますが、忠真はその後、二万石の加増を受け播磨明石、豊前小倉に移封となり明治維新まで小倉を領有しました。

 一般に層塔式天守は藤堂高虎が慶長9年(1604年)から慶長13年にかけて築いた今治城が最初と言われています。今治城天守は高虎の伊勢、伊賀に転封されると、幕府に献上され丹波亀山城に移築されました。層塔式天守が築かれるようになったのは慶長中期以降となります。松本城は望楼式を残しながらも層塔式天守になります。これは小笠原時代に大改築され望楼式から層塔式になったものと見られています。昭和25年から30年にかけて天守の解体復元工事が行われましたが、調査の結果、入母屋破風などの痕跡が見られ、石川氏時代の天守の古材を利用して再建されたものと考えられています。


21世紀美術館

金沢21世紀美術館


 金沢の新しい名所が2004年に開館した金沢21世紀美術館です。
 直径112メートルの円形の建物で、外壁がガラス張りとなっており出入り口が4カ所にあります。
 高い位置から鳥瞰してみると、いろいろな建物をまとめて円形の建物で囲った感じです。 設計したのがSANAAという妹島和世、西沢立衛の二人の建築家です。SANAAはこの建築でイタリアのヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展金獅子賞を受賞し、世界的な建築家となり、2010年には建築界のノーベル賞と言われるブリツカー賞を受賞しました。




外観


ガラスを多用している開放的な建物です。





中から外


 建物が円形になっており、歩いていると外の風景に目が行ってしまいます。



スイミングプール

スイミングプール


 中庭にあるプールです。透明のガラスに水が張ってあるだけで、その下の部屋の人が見えます。






ルーブル・ランス


 少し前にNHKでSANAAについての番組を放送していたので見てました。新国立競技場で話題となったザハ・ハディドのライバルになり、フランスの炭鉱の街だったランス市に建設されるルーブル美術館の別館、ルーブル・ランスのデザインコンペでは、ザハ案とSANAA案が最後まで争いました。ザハ案の新国立でもわかるように個性的で圧倒的な存在感のデザインに対し、SANAA案は周囲にマッチした落ち着いたデザインでした。二つの案は最後までもつれ、最後は審査員長に委ねられ、SANAA案に決まりました。



ルーブルランス

ルーブル・ランス外観


 アルミとガラスを多用した建物で、ルーブル美術館の館長は日本の貴族の邸宅にたとえました。





ルーブルランス図面

ルーブル・ランス図面


 日本の御殿建築に見られる雁行状に建物が配置されています。




ルーブルランス内部

ルーブル・ランス内部


 




新国立競技場


 そして2012年に新国立競技場のデザインコンペで再び争うことになります。ル―ブル・ランスとは逆の結果になりザハ案が採用されました。
 しかし東日本大震災での復興工事、東京での建築ラッシュで人件費の高騰、円安による建築資材の高騰、消費税の3パーセントアップなどで建築費は当初見積の1300億円を遙かに超える3000億円以上と試算され、批判が相次ぎ白紙撤回されてしまいました。




新国立

ザハ案


流線的で近未来的なスタジアムです。廻りを圧倒する存在感があります。キールアーチ構造は当初から難工事が予想されていました。審査員の一人は実現は可能だろうが、ただしいくら掛かるかわからないと言っていました。審査員長の安藤忠雄氏の強い後押しがあり、ザハ案に決定しましたが、建設費が高騰が問題となり撤回となりました。






新国立SANAA案

SANAA案


後ろ側が新宿御苑、右側が明治神宮外苑絵画館になります。国立競技場の建設される土地は明治神宮外苑になりますが、SANAA案はそれほど高くなく、周囲の環境にマッチしています。それでいて屋根のウエーブが個性を出しています。しかしスタンドと屋根の間に空間が出来て、それがネックとされてしまいました。計画ではコンサートにも使われるように遮音性も重視していました。





 巨大建築物の建築がストップしたことは過去にもありました。
 明暦の大火(1657年)で焼失した江戸城の天守閣。その高さは石垣上約45メートル、石垣を含め59メートル近くある巨大建築物でしたが、4代将軍徳川家綱の後見人で、家光の腹違いの弟である保科正之は復興を優先し、加賀藩により天守台は修繕されたものの、天守閣は無用の長物と再建にストップをかけました。
 戦国時代が終わり平和な時代が訪れると、幕府、各藩は新田開発に力を入れ石高を上げることに努めます。石高が増えると人口が増加し(一石当たり一人を養える勘定です)経済は発展しました。それと同時に貨幣経済が進みますが、それに対して幕府、藩の収入は年貢に頼っていたため、財政的に色々と問題も出て来た時代でした。
 総面積1万坪という本丸御殿や西の丸御殿は再建されましたが、天守閣再建の計画はあったものの、経済の停滞期に入り(17世紀中頃から後半ぐらいに新田開発が一段落し、石高を思うように増やせなくなりました)時代が下るにつれ幕府の財政は更に悪化し、とうとう再建されず、3層の富士見櫓が天守の代用とされました。
 将軍家の江戸城の天守閣が再建されなかったため、五層での再建を希望した小田原城や和歌山城も三層での再建になりました。




新国立競技場の問題は、現在の日本の状況を浮き彫りにした事象です。
 計画を推し進めた人たちは60代、70代と、高度経済成長期、バブル期を知っている人たちです。オリンピックに国家の威信をかけたいのでしょう。そのためにはいくら金をかけてもいいと思っているのでしょう。国家の威信をかけるのに迫力のあるザハのプランはピッタリだったのです。
 しかし現実の日本は経済が思うように浮上しません。1000兆円という莫大な負債を抱え、税金の負担が徐々に増えてきています。少子高齢化が進み年金もどうなるかわからない状態です。その中で建設費が上昇し、3000億以上とも言われるようになりました。選定も不透明で、潤うのは一部の人だけで、多くの人は負担だけがのしかかるだけと思うのも当然です。批判が集中し、安保法案に対する批判をかわすためにスケープゴードとなり、白紙撤回となりました。
 新国立競技場は仕切り直しになりましたが、これからの日本を象徴する競技場にしてもらいたいものです。


 

東茶屋街2

東茶屋街


 金沢には金沢城の北東、浅野川を渡ったところに東茶屋街。その手前の橋場町に主計町(かずえまち)茶屋街。金沢城の南西、犀川を渡ったところに西茶屋街の三つの茶屋街があります。お茶屋は芸妓、芸者を上げて楽しむところで、旦那衆の夜の接待、社交の場として発展しました。

 金沢の茶屋街は文政3年(1820年)、12代藩主前田斉広の時代に藩の公認で置かれました。





東茶屋街



東茶屋街



金沢で最も大きな茶屋街が、卯辰山の西に広がる東茶屋街で、茶屋街が形成された文政年間から明治期までに建てられた伝統的な建築物が建ち並び、2001年に重要伝統的建築物保存地区に指定され、兼六園とともに金沢観光の中心となっています。指定地区の広さは東西180メートル、南北130メートル、広さ1.4ヘクターるあります。石畳の道の両脇に二階建ての風情のある建物が立ち並んでいます。
 京都の祇園と並ぶ伝統的な花街で、兼六園とともに金沢の観光名所となっています。
 一階は格子が填められ、二階に座敷があり軒の高い建物に統一されているのが特徴です。
 一見さんお断りと、敷居の高い昔ながらのお茶屋の他に、誰でも入れるカフェや小物屋お土産屋などが並んでいます。





東茶屋芸者


 何かの撮影で芸者さんがいました。





東茶屋街格子

木虫籠


 通りに面して木虫籠(きむすこ)と呼ばれる、目の細かい格子が填められ、外からの視線を遮っています。




灯籠と犬矢来

入り口


 それぞれの建てものは、通りから少し入ったところに入り口があります。小ぶりの灯籠と犬のいたずらを防ぐ犬矢来が特徴です。






西茶屋街



西茶屋街



 金沢城の西、犀川を渡った野町に西茶屋街があります。東茶屋街と同じ、文政3年に置かれました。東茶屋街に比べ規模が小さく、保存が遅れたために、昔の町並みを装った感じが否めません。




西茶屋街座敷

金沢市西茶屋資料館 座敷


 石川県出身の作家、島田清次郎が少年期を過ごした吉米楼に当時の茶屋を再現して建ってます。
 島田清次郎は「地上」で知られる作家で、明治32年(1899年)石川県美川町で生まれますが、幼いときに廻船業を営んでいた父親を海難事故で亡くし、母・みつの実家で生活します。母の実家は遊郭を営んでおり、多感な少年時代にそこで見た、貧しさが故に売られ、客を取らされる女たちが、のちに執筆される作品に反映されました。
 西茶屋資料館の一階は島田清次郎に関する資料が展示され、二階は茶屋時代の弁柄壁の座敷や再建が展示されています。




西茶屋街茶室

茶室


 四畳半の広さの茶室です。





西茶屋街落雁屋

落雁店


 西茶屋町の入り口脇にあり、落雁諸江屋西茶屋寮といいます。落雁諸江屋は、西茶屋街の東約300メートルのところにある、忍者寺で知られる妙立時横に本店があり、創業が嘉永2年(1849年)の老舗です。