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クリスマス・イブの日に、私の好きな聖書のエピソードを一つ紹介しました。
その記事は⇒こちら
私にとって聖書は「人間の物語」。「昔も今も、人間というのは同じだなあ」と思います。
私たちは忙しさや「xxすべき、xxであるべき」という思い込みに囚われて、目の前の人が何を求めているのか、「今ここ」で自分が何をするのが一番建設的で大切なのか、見失うことがありますね。
聖書の中の「マルタとマリアのエピソード」は、まさにそのお話。
フェルメールもその時の様子を「マルタとマリアの家のキリスト」と絵に描いており、聖書を読んだことのない方でもお話を知っている方も多いかも知れません。
以下、そのエピソードの、私の個人的解説です
イエスを自分の家に招いたマルタは、もうそれはそれは嬉しくて、テンションMaxでおもてなしをします。あの「イエス」が来ているわけですからね!今で言ったら、時の有名人・スーパースターが家にきたようなものです。
家は片付いてないといけないし、飲み物・食べ物、喜ばれるものをお出ししないといけないし、途切れてはいけない。当然忙しい。
一方、妹のマリアは、そんな姉マルタのことは意に介せず、イエスの足元に座って、ずーーーっとイエスの話に聞き入っています。マリアにとっては憧れの師が目の前にいるわけですから、そこを離れるなんてあり得ません。一期一会の機会を味わっています。
もうここで、私には「しっかり者の姉」と「空気の読めない、ちょっと天然な妹」の姿が想像できてしまうのですが、姉の方は、キッチンで忙しく働き、すべてが滞りないよう気を配っています。
マルタは料理を運びながら、イエスの近くをせわしなく通り過ぎる度、マリアのことを横目でチラチラ見ながら「なにやってんの、マリアのやつ!私はこんなに働いているのに!なんで私だけが!」とイライラを余計募らせたに違いないですね。
その気持ちを、マリアに建設的に伝えればいいのに、マルタはそうしない。だってそんなことしたら怒りで爆発しそうだし、爆発したらイエスもその場にいるし、恥ずかしい。マルタはそんな風に思ったのではないかしら。
そこでマルタは何をしたかというと、なんとイエスに
「ちょっと、私だけがもてなしてるって、おかしくないですか?マリアに手伝うように言ってもらませんか?」とお願いするんです!
「べき・ねば」でドライブがかかった長女はほんとに恐ろしい(笑)。時の人に「これ、ちょっとおかしくない?妹を叱って頂戴!」って言うんです。
イエスは、「マルタ、あなたはいろんなことに悩み、心を乱しているけど、大事なことはただ一つ。マリアはそれを選んだんだから、そのままにしてあげてね」と言います。
そう、大事なことはただ一つ。私はここで、イエスは「ただ人に話を聴いてほしかっただけ」だったと思うのです。飲食なんてどうでもいい、家が片付いてなくてもいい、心を開いて話を聴いてほしい。それが、彼がその場で求めていた、唯一のことだったのではないでしょうか。
でも「べき・ねば」で頭が一杯のマルタには、それが見えない。
そういう私も「こうあるべき」というフィルターが邪魔をして、今ここ、私の目の前の人・現実をまっすぐ見れないことが沢山あります
母親としても「べき・ねば」が多すぎて、娘が本当に何を求めているのか、ずっと気づくことが出来なかった。
人は誰でも、何らかのフィルターをかけて世界を見ています(アドラー心理学でもその点を指摘しています)。
マリアのように一期一会を楽しむには、まずは
自分がフィルターを通して世界を見ていることに気づくこと
そして
「べき・ねば」のようなゆがみの強いフィルターはできるだけ外す努力をすること
が大切ですね。
2000年前のお話ですが、現代にもそのまま通じる逸話です
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