雨のあとのにおい -10ページ目
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夕方

今日は小雨が降ったり、曇りがちの天気。

ぼくの気分は天気に容易に左右される。

どうにも、ぼくの気分は朝から曇ったままだ。


天気だけじゃない、一日のうちだって気分の波はたゆたっている。

朝の曇り、昼間のくもり、夕方の曇りでは、どれも違う。


そして、どうしてかこんな日は音楽がやけに心にしみたりする。

特に夕方の音楽なんかは。

夕方に訪れる、懐かしいようで不安な気持ち。

どうにも寂しい気分、体が閉じていくような感覚。

夕方、ゆっくりと日が暮れていくあいだ、

明かりをつけず、横になって音楽に身をあずけてみる。

そこにはまさに身体が溶けていくような、そんな心地さえする。


ぼくの夕方音楽はいろいろあるけれど、

miroque 「botanical sunset」

イノトモ 「やさしい手」

の2枚が断然染みる。


身体が閉じていく代わり、抑えていた感情が開いてくるようで、

このときは妙に涙もろくなる。今日みたいに曇りがちな日なんか特に。

そして、ぼくはなんだか「自分がここにいる」ということをはっきりと、

ほんとうにはっきりとわかって、何百キロ先まで透きとおって見えるような清明な気分と、

どうしようもない孤独と、自分の身体の重さをありありと感じてしまう。

でもそのあと、のそのそと動き出して夕ご飯を食べると、

いつのまにかそんな気分はどこかへいって、夜の風がやさしく感じられたりする。

夜の曇りはなんだかぼやけているからね。

東欧の絵本

今日、古本屋で絵本を買った。

「ゆきのおうま」という本で、チェコの絵本が翻訳されて、ほるぷ出版から出されたものだ。

何年前になるだろうか。道立帯広美術館で開かれた、東欧絵本の世界展に行ったことを思い出す。

その何年か前にはイギリス絵本の展覧会を見ていたのだが、

東欧絵本の原画を見たときは、ずいぶんと感覚が違うものだなあと感じたように思う。

絵自体がエキセントリックだったり、きわめて精緻な描写であったり、何ともいえない素朴さがあったり。

しかし、画面の美しさは素晴らしく、長い間見入っていた覚えがある。

また、イギリス絵本ではあまり感じなかった、懐かしさというものも強く感じた。

それはおそらく、北海道と気候が似ているせいだろう。

冬や雪をモチーフにした絵が多く、素朴さとも相まって何かこころに響くものがあった。


「ゆきのおうま」も、いかにも東欧らしさがあってとても気に入ってしまった。

雪の一日を描いた物語なのだけれど、なんと言っても絵が魅力的なのだ。

登場する子どもや動物、雪の馬(雪のしんしんと降るさまが馬に見立てられている)の目が

とても澄んでいて、美しい。

また、彼らの着ている上着やマフラーからは、つつましくも美しい暮らしが垣間見える。

そしてなんといっても、絵本全体に温かさが感じられる。

以前、星野さんの本のところでも書いたが、冬の景色のなかのいのちはとても温かい。

この絵本でも、雪いちめんに覆われたなかに現れる動物たちや、

こどもたちは幸福な空気に包まれている。

僕もまた、雪のしんしんと降るまよなかに感じた、自分の体温を思い出す。

ご飯の思い出

忘れられないほど美味しいご飯をいただいた思い出がある。

ひとつは青森にいた頃、無農薬でりんごを育てている農家の方のところへ友人と共に

尋ねた際に振舞っていただいたお昼ご飯。

もうひとつは岩手の花巻ならの里ユースホステルで頂いた朝ごはん。


どちらも自家栽培のお米で、味、香り、艶、粘りなど、それまで食べていたご飯の

価値観をひどく揺さぶられるほど、素晴らしかった。

そして米だけでなく、付け合せのおかずの素朴で、とても美味しかったこと。

どちらも、作ってくれたのは人の好いとても素敵なおばさんで、

ご飯を頂いている間はとても豊かで満ち足りた時間だった。

人をもてなすということはどういうことか、そこで教わったような気がする。

そして、美味しいご飯は最高のもてなしに通ずるとも。


僕はいま、伊賀の土楽窯さんで手捏ねでひとつひとつ丁寧に作られた、織部の釜を使っている。

同じ米でも、炊飯器で炊くより、味、粘り、香りが数段違う。

形が羽釜のようになっているのが美味しく炊ける秘密といわれているようだ。

炊いている最中に湯気がふたの端からヒューっと噴出す様子は、

なぜかとても懐かしい気持ちを呼びおこす。

そしてふたを取るときに立ち上る湯気の香り。

そこには、毎日のことながら、ささやかで幸福な時間が流れている。


しかしながら、記憶とは悪戯なもので、恋の思い出だけでなく、ご飯の味まで美化してしまうのだろうか。

どれだけ美味しく炊けたなあと思っても、あの時頂いたご飯の味には遠く及ばないと思ってしまう。

なるほど、そう、本当のもてなしとはそういうものなのだ。

ZAZENBOYS

ZAZENBOYS のライブに行ってきた。

Drs.がアヒトイナザワから松下敦にかわって、

どんなバンドサウンドになるのかとドキドキしていたけれど、

たとえていえば、ビキビキに鍛え上げられた強靭な大腿筋のような、

そんな凄まじいサウンドになっていた。

音の強さ、キレ、張り、間、弛緩、そしてバンドの一体感、

どれもが素晴らしい。

非常にかっこいいバンドだなあと、つくづく思う。

弁当ライフ

僕は毎日弁当を作っている。

職場の食堂が美味しくないということもあるけれど、

それが主な理由ではない。


弁当箱は、関にある素敵なお店而今禾 さんで買った

漆塗りの曲げわっぱが2段になったものを使っている。

下の段にごはん、上の段におかずが入る。

ご飯は減農薬米を4分づきにしてもらったものを、

おかずには茹でたり、焼いたりシンプルなものを入れる。

朝、時々煩わしいなと思うこともなくはないが、

最近は、弁当を作らないとなんだか落ち着かない。

職場で、僕は風呂敷を丁寧にほどき、

艶やかにあらわれる弁当箱をややうっとりと眺めたあと、

ゆっくり時間をかけて食べる。

僕より遅く食べ始めた人でも、たいてい僕よりは早く食べ終わっている。


僕がなぜ弁当を作るのか。

答えはシンプルだ。

食事はおなかを満たすためのものだけじゃないと知っているからだ。

気に入りの器に、食べたいものをバランスよく詰め込む。

見た目も内容もバランスが肝心だ。

そして僕は昼食の時間をゆっくりと楽しむ。

自分のためだけに作られたもの、そこにはいろんな情報が詰まっている。

僕はお弁当で、おなかだけじゃなく、身体全体を満たし、そしてこころも満たしている。

そんな気分に包まれたあと、やっぱり昼寝の時間が欲しいなあ、と心底思う。

こども時代

近くの児童書専門店メリーゴーランド で買った、高楼方子「記憶の小瓶」を読む。

これは、児童文学作家の高楼方子さんが、自らの幼少時代を綴った随筆であり、

幼稚園時代や小学校低学年時の出来事や光景がそのままうつしとられた

なんともまぶしくてけだるく、心細くてあかるい思い出の数々は、

自分の幼少時代をありありと思い出させるのにじゅうぶん過ぎた。

そして、あの頃はなんとシンプルに世界を見ていたことかと、

なんともいえない気分になった。

覚えたことや、記憶はいつでも引き出せるくらいはっきりと持ち続けられると思っていたのに、

いつの間にか、記憶が曖昧になって、忘れてしまっていることに、気づいた日。

なにか、とても大きなものを失ったような気がして、こわかったこと。

夢でうなされてはっと起きたときに聞こえる父親のいびきと、その合間に訪れる静寂の

つんと身を切るような孤独感。

夏休みのゆっくりとした朝ごはんのときに感じた、底などないような深いけだるさ。

こうした幼い頃の記憶は、頭よりも肌で覚えているような気がする。

高楼さんの文章は、そんな皮膚感覚を何度も何度も刺激した。


温度

星野道夫「イニュニック〔生命〕」を読んだ。

彼の撮る北方の風景は潔い美しさの中に温かさを感じる。

個人的に、寒い日のストーブだとかを思い出すのもそうだけど、

冬、生命のにおいとか気配とかが一面の雪で覆われて

静まり返ったなかを、キツネとかクマとかが歩く。

ほかに何もいないから、その生命が際立って、温かく感じられるのだろうか。

星野さんは動物たちとの圧倒的な近さでそれを伝えてくれる。

そしてそこに向けるまなざしも実に温かい。

こんなに温度を感じる本は久しぶり。


事始

ぼちぼちやってみます。

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