星野洋品店(仮名)

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とある洋品店(廃業済み)を継がなかった三代目のドラマ感想ブログ

伊周、逃げやがった! 逃げようと思えば逃げられるけどさ、でもそれは公務執行妨害だし、反逆罪でもあるんだぞ~。

 

ネット上で「道長を聖人として描くために中関白家を貶めすぎだ!」と吠えている人がいましたが、時系列はドラマ化の都合で多少前後しているけど、ほぼほぼ歴史物語通りの進行なんですわ。文句は『大鏡』『栄花物語』の作者に言ってくれ。
 

歴史物語や『小右記』で知られるところでは、4月24日に流罪の勅命が出たものの、伊周・隆家は病を理由に出頭せず、中宮 定子と同室にいるので強制執行もできないまま数日が過ぎます。

 

5月1日に新たな勅命が出て、中宮を車に退避させての捜索が行われます。隆家は発見されましたが伊周の姿はなく、しばらくしてニセ坊主姿で二条邸に戻ったものの、まだグズグズ。さらに翌日にようやく母 高階貴子も付き添って出発しました。この混乱の中で、定子が落飾します。

 

山城国と摂津国の境 山崎まで来たところで高階貴子は引き返し、病を理由に流刑先が伊周は播磨国、隆家は但馬国という近いところに変更されました。これだけの温情を受けたのに、有難いと思わないのが伊周なんだよなぁ。

 

 

定子さんが激情のあまり髪を切ってしまいました。定子さんは「出家いたします」と言っていたけど、これは何重もの意味でアカンやつです。まず、日本国では出家するのに官許が必要です。出家者は人間じゃない扱いになるので、税金を払わないから。税金逃れのための出家者が続出するのを防ぐために、朝廷から資格を受けた僧侶による出家でないと、正式の出家と認められないのです。

 

定子さんは平民じゃないので、違法行為で罰せられることはないでしょうけど、あまり良いことではない。そして、裏を返せば、「法的には出家してませ~ん」と言い張ることもできるんです。たぶん、この点があとで効いてくるはず。

 

ただし、髪を切ることは社会的には出家を意味しますし、妻側からの離婚の申し出でもある。『源氏物語』では、紫の上が出家を望みますが、光源氏はかたくなに拒みます。生前に出家しないとお浄土へ行けないとされるのに、死期が近い紫の上を出家させないのはひどい話です。しかし、光源氏は、妻に捨てられる自分に耐えられないんですね。

 

作中で一条天皇が「定子は朕に腹を立てておる」と言っていましたが、重病でもないのに髪を切ることは、妻側から離婚することで夫に大恥をかかせてやろうという意図だと受け取られます。定子にしろ伊周にしろ、天皇の立場というものを考えない愚行ばかりしています。やれやれ。

 

 

失意に沈む定子のために、清少納言は『枕草子』を書きはじめました。書くことが書き手にも読み手にも慰めになると知っているまひろから勧められたというのは、本作らしいアレンジだったと思います。

 

伊周から献上された上等な紙に、帝が漢文の歴史書『史記』を書かせるなら、こちらはやまと言葉で。歌詠みの家系に生まれながら歌が苦手な清少納言は、歌のタネになりそうな四季の美をつづっては、定子の御簾の内に差し入れました。定子の〈枕〉になるように。

 

『枕草子』の名の由来については、その跋文(ばつぶん。あとがき)で語られています。

「この紙になにを書けばいいかしら。帝は『史記』をお書かせになるそうだけど」

と定子に問われた清少納言は、

「枕にするしかございますまい」

と答え、定子はその答えを気に入って、紙を清少納言に下げ渡したとのことです。いや、マクラって何やねん……。

 

清少納言の言う〈枕〉については、おそらく定子サロンの人にはピンと来たのでしょうが、関係者以外には謎なんですね。『史記』→〈敷妙(しきたへ。寝床の敷物)〉→〈しきたへの(枕、黒髪などにかかる枕詞)〉と連想して「枕」と言ったことまではわかるんですが。

 

『光る君へ』では、和歌の修辞に用いる〈枕詞〉説。単純に〈敷布団→枕〉を連想しただけ説。〈拠りどころにするもの〉という意味の〈枕〉説。枕元に置いておく〈備忘録〉説。みんな大好き白楽天の詩(白頭の老監 書を枕にして眠る)からの引用説。白楽天はお気に入りの書物や琴を寝床に持ちこみ、ときにそれらを枕にして寝ることがあったようです。

 

諸説あるものの、「華やかなサロンを率いて輝いていたころの定子に戻ってほしい」という清少納言の思いがこもった〈枕〉であることは間違いないところです。そして、『枕草子』が書かれたからこそ、中関白家が千年のちでも好意的に見られているのだと思います。『枕草子』がなかったら、一条天皇に迷惑をかけまくったアホ一家としか思われてないよね。

第20回ラストでは清少納言とまひろが下女に変装して、中関白一家が立てこもる二条北宮に潜入していました。木の枝を手に持ち、鉢巻きにも葉っぱを挟んでいましたが、かえってガサガサと音が立って目立つんじゃないかと心配。

 

「検非違使が二条北宮を取りかこんでいるはずなのに、簡単に入れるの?」と疑問にお思いになりましたか? いくらでも入れますよ。

 

平安京では40丈(約120メートル)四方を一町(ひとまち)といい、上級貴族の邸の基本単位になります。中・下級貴族は一町を半分や4分の1に分割し、大金持ちは隣の町を買い取って2倍や4倍にします。東三条殿や土御門殿は二町あり、光源氏の六条院は四町でした。

 

中・下級貴族の邸は板塀で囲みますが、上級貴族の邸は築地(ついじ)。作るのが大変なので高級品ではあるけど、しょせん土を突き固めただけなので大雨が降ると崩れます。
 

『伊勢物語』第5段では、在原業平が子どもたちの踏みあけた築地の崩れから女性のもとに通う場面があります。女性は藤原高子。のちに56代 清和天皇に入内し、57代 陽成天皇を生むことになります。業平なんぞと忍び逢ってる場合じゃない女性なので、門から入ることができなかったのです。

 

大臣の令嬢が住むような邸でも、築地が崩れているのが当たり前だったんですね。『光る君へ』は『伊勢物語』より200年ほど後の時代になりますが、築地のメンテナンスが行き届かない点では大差なかったようです。築地の崩れから物乞いや野良犬が入りこんだりしてね。大内裏のなかですら物乞いがいたことが『枕草子』に記されています。

 

遣水(やりみず。水路)を引きこむための水門もありますし、二条北宮に入ろうと思えばいくらでも入れますよ。検非違使が見張っていたのは、東西の門だけだったろうし。

 

検非違使は常に人手不足です。ありとあらゆる法律違反を取り締まるお役目で、現代の警視庁・東京地検特捜部・東京地裁を兼ねた上、街に転がる死体の処理まで保健所代わりにやってるんですから。二条北宮だけに構ってられないの。

 

それに、伊周くんは内大臣。右大臣 道長に次ぐ高貴な地位にいるんですよ。野良犬が出入りするような穴から逃げるなんてこと、あるわけないじゃないですか~。

日本史上最大のバカ事件、長徳の変は2週で終わりませんでした。発生は長徳2年(996年)1月15日深夜(16日未明)、処分が完全に終了したのは10月に入ってからになります。第20回ラストは5月1日。

 

出家直後は熱心に仏道修行に励んでいた花山院ですが、じきに飽きたらしく、都に戻って暴走族のリーダーみたいなことをしていました。花山院のもとなら思う存分ケンカができるというので、都の不良少年たちが花山院のもとに集まっていたのです。

 

隆家もそういう武者団を抱えていて、花山院派と争っていました。本来、院御所の門前を通るときは馬や牛車から降りて敬意を表すべきです。しかし、隆家は武者団を引き連れて牛車に乗ったまま通過し、怒った花山院派が出てくる前に逃げるという、ピンポンダッシュみたいなイタズラをしました。アホや。

 
この時に何も罰を受けなかったことが成功体験になってしまったようで、史実の隆家は相手が花山院だとわかった上で、従者に矢を放たせました。花山院が通報するわけがないと思っていたんでしょう。上皇で坊さんな人が夜歩き中に遭遇した事件ですからねぇ。
 
しかし、互いに武者団を連れていたことで乱闘になって死者が出てしまい、情報が漏れることになりました。発生当日 1月16日の日中には道長が知り、検非違使別当である実資に情報を伝えています。捜査がんばれ~。
 
ドラマでは花山院が10年ぶりに突然登場したほうが面白いので、隆家本人が相手を知らずに矢を放ったという演出になりました。変なクスリでも飲んでいるかのような笑顔が、すっと曇るお芝居が秀逸。隆家役 竜星涼は、あのシーンがクランクインだったそうです。
 
高階貴子が彼らの母であったのが不幸だったのかと思いますねぇ。しょせん中級貴族の出で、天皇の立場というものを理解できなかったんでしょう。中宮 定子に縋っても、大逆罪をチャラにはできません。出頭を引き延ばすうちに、詮子女院・道長に対する呪詛と、大元帥法(たいげんのほう。帥の字は読まない)を修した罪まで追加されました。
 
大元帥法は国家鎮護のための祈祷で、外敵や反逆者を調伏する目的で行われることがあります。道長を反逆者と見て呪殺しようとしたってことですね。内大臣が勝手にやることじゃないし、院に矢を放った隆家くんのほうがよっぽど反逆者だよ。まあ、呪詛の件も含めてでっち上げなのですが。
 
 
さて、中関白家が没落し、斉信と道綱が火事場泥棒的に昇進する一方で、為時パパは淡路守に任ぜられ、さらには大国 越前に国替えとなりました。おめでとー!
 
無官の六位だった為時パパが大国の国守になったことは歴史上の謎で、平安末の説話集でも取り上げられたほどです。いったん淡路守になった為時が、それを不服として一条天皇に漢詩を提出し、感じ入った一条天皇は食事ものどを通らないほどだった……なんて話が作られています。
 
時代考証 倉本一宏先生の考えでは、漢詩に優れた為時を宋人との交渉役として越前守に任じるのが道長の望みだった。しかし、為時は10年も無官の六位だったので、まずは従五位下に叙し、格の低い淡路守にいったん任じてから越前守に引き上げるという小細工が必要だったということだそうです。例の〈漢詩〉は漢詩ではなく、淡路守任官のための申し文(自己推薦書)に書かれた散文の対句であろうと。漢詩なら5文字 or 7文字だけど、あれは4文字×4句だったし、韻も踏めていない。中国の詩の形式を外れています。
 
となると、史実の道長がなぜ為時の才を知っていたのか、という疑問が生じるのですが、『光る君へ』では〈元カノのパパだから〉という立派な理由がありますよ! すごい、歴史の謎が解けてる!
 
宋国への密航に失敗したという意外な暴れん坊だった為時パパは、神仏のご加護……ではなく、娘のコネとおのれの文才によって越前に赴任することとなりました。予告編で、「粛静(スージン。静かにせよ)!」と中国語で叫んでましたね。
 
平安時代の日本でもたくさん漢詩が作られたのですが、語順が日本語のままだったりして、中国人には通じないことが多かったようです。こういうのを和臭(わしゅう)漢文というのですが、大学寮を優秀な成績で卒業した為時パパなら正しい中国語で書けるはずです。がんば~。あと、娘に変な虫がつかないように気をつけて。その宋人の医師見習いは、現代日本で多くの女性を沼堕ちさせた男だぞ~。

 

『光る君へ』第19回は、ふたつの〈これって史実なの???〉案件以外にもいろいろありました。〈一条朝の四納言〉がついに始動! まだ誰も納言になってないけど。まずは源俊賢兄ちゃんが、陣定でコロンとひっくり返されてスネてしまった伊周&隆家を説得しに行きました。

 

源俊賢は道隆政権下で蔵人頭に補せられたので、中関白家に恩義を感じているはず。「伊周のほうが先の見込みがある」という説得は、なかば本心だったかもしれません。定子が皇子を生めば、流れは一気に変わるわけだし。伊周&隆家本人がその見込みをブチ壊しにするんだが。

 

蔵人頭を卒業した俊賢の後任が、F4 最年少の藤原行成。彼は物心つく前に祖父と父を亡くし、従兄弟である花山天皇退位のあおりを食らったこともあって無官のまま放置されていたのですが、やっと日の目を見ることができました。行成は後任に推挙してくれた俊賢に感謝し、俊賢の上座に座るのを遠慮していたそうです。

 

スパイというよりゴシップ記者のような行成くんの勧めで、道長は日記を書き始めました。倫子さんがのぞき込んでいたのは、

「直廬(高官が内裏に設ける執務室)に御料牧場から分配された馬が届いた。使者への心づけとして2反分の絹を与えた」

という部分。倫子さん、浮気の証拠が見つかるとでも思ってました? 子孫の頼長と違って、デート記録は書かないよ!

 

 

道長の日記には、のちに子孫が『御堂関白記』という名称をつけますが、道長は関白になったことがないんです。

「天皇の補佐役である関白にならず、あくまで公卿の筆頭として政治を行いたい」

と一条天皇にも申し上げましたし。関白は陣定に出られない慣例なので、陣定を伊周に引っかきまわされたくなかったんだろうねぇ。ちなみに〈御堂〉は道長の通称。土御門殿の東に九体の阿弥陀仏を祀るお堂を建てたことからの名です。

 

四納言の残り二人、公任は文化人として頑張れ。そして斉信は……来週、重要な役割がありそうですね。

 

 

そして、ダメ時……もとい、為時パパ、叙爵(従五位下に昇進すること)おめでとう! 正六位上と従五位下は一階級差ですが、天と地ほどの差があります。言ってみれば、アルバイトと正社員の差です。

 

70弱ある国は、生産力によって大国・上国・中国・下国の4等級に分類されます。下国である淡路国ならバイトでも国守になれるんですが、越前国は大国なので従五位上が必要なはず。でも、まひろが言うとおり、大胆不敵な望みでも口に出していってみれば、誰かが叶えてくれるかもしれません。まひろも「宮中に行ってみたい」という望みを清少納言に聞きいれてもらい、大殿籠り待ちという貴重な経験をしたわけですから。

 

今週のまひろが書き写していたのは新楽府(しんがふ)。もともと前漢の時代に楽府という役所があり、各地の民謡を採集していました。中国では〈民の声は天の声〉と考えられています。民が、

「旦那がサビ残で帰ってこないんですけど!」

「となりの姉ちゃん、ええケツしとるのぉ」

などといった、日常的なネタで歌っているぶんには問題ない。しかし、〈死〉だの〈滅〉だのという不吉な言葉を折りこんだ意味不明な歌を歌っている場合は、天が君主に警告を与えていると考えるのです。

 

楽府で採集された民謡を元に替え歌を作ることが流行し、それらの替え歌もまた楽府と呼ばれました。唐代の新楽府は漢代の楽府の様式を復興したもので、すでに歌うことはなかったそうです。

 

中国では、詩によって世を正すのが詩人の役割と考えられており、新楽府は民の声を反映して政治批判を含むことがあります。でも、調子こいて批判しすぎると、どっかの白楽天さんみたいに左遷され、

「香炉峰サイコー。都なんかクソだ」

と強がったり、

「詩文の才も琵琶の腕前も、都以外で披露したって無意味だわ」

とボヤいたりする羽目になるよ!

フゥ……まさか一条天皇の〈おほとのごもり〉を実写で観る日が来るとは思わなかったぜ! むしろ、これを実写化したいがための脚本家 大石静の起用だったのか? さすがNHK、民放にできないことをやってのける!

 

〈大殿籠る〉とは、「寝る」「寝室に入る」の尊敬語です。作中でまひろがビックリしていましたが、あれ、ほぼほぼ史実なんですよね。『枕草子』に記録があります。

関白 道隆が亡くなる2カ月ほど前の995年2月。前月に春宮妃となった淑景舎女御(中宮 定子の同母妹)が、登華殿 東廂(定子のプライベートな客間)を訪ねました。中関白一家も同席し、団欒を楽しんでいたところ、午後2時ごろに一条天皇がお越しになりました。

 

一条天皇は定子を従え、登華殿の身舎(もや。建物の本体部分)で大殿籠らせ給いました。その後、日の入りごろに一条天皇がお出ましになるまで、お供の殿上人たちは登華殿 南の簀の子縁(外廊下)で酒食のもてなしを受けました。

 

一条天皇が還御遊ばすと、中宮は家族の元に戻って歓談を続けました。しかし夜になるとまた一条天皇のお召しがあり、清涼殿にお渡り遊ばしました。

……お供を待たせて何をしてるんだ、なんて思っちゃダメだよ。相手は天皇なんだから。儀式や物忌みで精進潔斎しないといけない夜も多いので、寝られる時に寝ておかないとね。一般的な〈寝られる時に寝ておく〉とは意味が違うけど。ちなみに、袴だけを脱いで致すので、すぐ人前に出られるそうですよ。

 

 

そして、もうひとつの〈これって史実なの???〉案件、長徳の変が勃発しました。きっかけのアホ臭さとのちの歴史に与えた影響の重大さの落差が、おそらく日本史上一番のバカ事件です。これで道長の長期政権が確定しちゃうんです。主役は10年ぶりに登場の花山院。ぼくの期待を上回る見事な飛びのきっぷりを拝見できました。眼福。

 

なにが起きたか、正確にはわからないんです。ただ、事実として認められることは、大内裏の北東隅に隣接する一条殿(故 藤原為光邸)の付近で、中関白家の従者と花山院の従者が争い、弓矢が用いられたということだけ。花山院方の童子ふたりの首が切られて持ち去られたとか、院の袖を矢が貫いたとかいった尾ひれのついた噂は、本作では採用しなかったようです。

 

坊さんを傷つけることは一般人を傷つけるより法的罪が重いし、宗教的な罪でもある。これだけでも出仕差し止めに値する罪なのに、その坊さんは上皇さまです。この時代、貴族に対する死刑は行わない慣例ですが、大逆罪は死刑の復活を検討すべき案件でしょう。

 

しかし、花山院側にも落ち度はある。上皇が夜歩きをするだけでも不適切なのに、花山院は最愛の弘徽殿女御を弔うために出家してますからね。お相手が弘徽殿女御の妹 四の君だからセーフなのか? いや、それならちゃんと結婚を申し込んで、上皇御所に女官として迎えればよかったんだよ。この当時の出家者は出家前と変わらない生活を送るのが普通だったので、結婚してはいけないってこともないし。

 

いずれにせよ、花山院は被害を訴えることもできず、泣き寝入りするつもりだったようです。しかし、どこからか情報が洩れます。いったい誰がなんの目的で情報を流したんでしょうね? ここでブラック道長爆誕ってことになるんでしょうか。期待して待ちたいと思います。