応仁の乱以降の天皇や公家は、室町幕府が面倒を見てくれなくなったので、とにかくカネがない。摂関家のひとつ 一条家の分家までもが、生活のために土佐に移って戦国大名になって、子孫が長宗我部元親に倒されたりするくらいです。
食い詰めた貴族たちが去ってうら寂しくなった京に現れたのが、15代将軍 足利義昭を伴った織田信長でした。信長は荒れ放題だった御所を修築し、朝廷の儀式を再興し、公家たちに伝統を守るという仕事を与えてくれました。朝廷は感謝をこめて信長に正二位 右大臣 兼 右近衛大将という、摂関家並の官位を与えたのに、信長は官職を返上してしまいました。
「信長は天皇を倒して新しい朝廷をつくるつもりなのでは?」
とビビった朝廷は、信長に「関白・太政大臣・征夷大将軍のどれか、あるいはすべてになってほしい」と要請しました(三職推任)。信長は嫡男の信忠に官位を授けてくれるように要請していたくらいで、朝廷を滅ぼす気はなかったんだけど。
藤原頼通(藤原道長の嫡男)の子孫である五摂家(近衛・九条・一条・二条・鷹司)が持ち回りで摂政関白をつとめる制度が固まったのが鎌倉時代。それ以前も皇族以外では藤原氏が摂政関白を独占していたのに、平氏を称する織田信長を関白にしようというんだから、朝廷はよっぽど信長を恐れていたんですね。しかし返事をする前に、信長は本能寺の変で斃れました。
その後にやってきたのが羽柴秀吉。織田家時代の同輩をすべて配下にするか倒すかして、信長よりも強大な力を持っています。小牧・長久手の合戦中の天正12年(1584年)10月、朝廷は秀吉を従五位下 左近権少将に叙任し、次いで従三位 権大納言、翌天正13年3月には内大臣と昇進させました。内大臣からさらに右大臣に昇進してほしかったのに、秀吉は「信長の極官(ごっかん。生前の最高の官職)と同じなのは縁起が悪い」と難色を示したようです。ナマイキ。
ならば、その上の左大臣ならいいのか? 当時の左大臣は五摂家筆頭の近衞信輔(のちに改名して信尹)で、今回から登場した近衞龍山(元関白太政大臣 近衞前久)の息子です。信輔は辞任を迫られたわけでもないのに、「辞任して無官になる前に関白になっておきたい。近衞家では無官の関白の前例がないから」と主張して、当時の関白 二条昭実に関白を譲るように要請しました。無官で摂政関白をやった例はあるんだけどねぇ。藤原道長の父 兼家は一時期無官の摂政だったし、二条昭実もこの当時は無官の関白でした。
二条昭実は、「二条家では、就任一年以内の関白が辞任した前例はない」という理由で辞任を拒否しました。また前例かよ。ほんと、伝統を守る以外にやることがないんだな。裁定を求められた正親町天皇も困り果て、争いは羽柴秀吉のもとに持ち込まれました。争いの発端は秀吉なんだが。
秀吉がひねり出した答えは、秀吉が近衞龍山の猶子(ゆうし。家督継承権のない養子)になり、内大臣のまま関白に就任するというものでした。なんでやねん。近衞家と二条家の争いが棚上げされること、近衞信輔が左大臣を辞任せずに済むこと、秀吉の機嫌を取ることができるのは良い、かもしれんけどね。
……という約1200字分の前段階を踏んでの第36回なわけですよ。武家のトップとしては征夷大将軍のほうがふさわしいのではないか、と近衞龍山が問うたのが味わい深かった。2020年『麒麟がくる』では本郷奏多が演じていた若き日の暴れん坊関白 近衞前久は、上杉謙信と組んでみずから関東に下り、鎌倉公方(足利将軍家の分家の当主)になろうとした人です。坂東武者に全力で拒否られて逃げ帰りましたが。
秀吉の答えは、武家だけでなく全部のトップに立ちたい、とのことでした。まあ、足利義昭がまだ現職の征夷大将軍のままで、辞職を促すのも面倒だし、あらたに武家の棟梁っぽい官職名を考えてもらおうとしたら、お公家さんに謝礼を渡さなきゃいけないし、関白は征夷大将軍よりずっと上の地位だし。一人之下、万人之上ってやつだね。
近衞龍山はブーブー言っていましたが、結局おのれと同年代の猶子を受け入れざるを得ませんでした。だって、日本一のカネと軍隊の持ち主ですよ。京を丸焼けにして、新しい王朝を立てることだってできる。朝廷側にできるのは、せいぜい勿体をつけて賄賂の金額を釣り上げることだけです。近衞家に1000石、そのほかの四摂家に500石ずつを加増することと引き換えに五摂家は沈黙し、摂政関白を藤原北家が独占するという700年の伝統は破られました。秀吉が約束通り近衞信輔に関白を返してくれるといいねぇ……。
さて、黒タヌキ 徳川家康がいつか仕留めてやろうと狙っているサル兄弟の弟のほう、われらが主人公 羽柴美濃守秀長のおはなしです。秀長はまだ体調が万全ではない秀吉に代わり、小牧・長久手の戦いに付随する戦いで反秀吉サイドに加担しやがった勢力を征伐しなくちゃいけません。紀伊国の雑賀衆やなんかはサクッと倒し、秀長は紀伊国の材木で四国への渡海用の船を造らせました。紀伊の語源は木、ですからね。生木で船をつくるのは無茶だし、船頭がいないと意味ないけど。
出典:れきちず
同盟を結んだ毛利家と合わせて1000隻の船を瀬戸内海に浮かべ、羽柴秀長は四国上陸を果たしました。長宗我部元親はこのとき四国一統をほぼ果たした状態でしたが、四国の海岸線すべてを守りきる兵力はありません。敵の上陸地点を叩くという兵法の常道を守ることができず、後退を余儀なくされます。
なおも抵抗を続けようとする長宗我部元親の心を解かしたのは、秀長の熱意でした。第25回、天正9年(1581年)2月に行われたお馬揃えを見物に来ていて秀長と出会った元親は、女物の小袖を着流しにして、膝をきちんとそろえて座っていました。マジレスすると、この時代の小袖はすべて同じ形式で、男女の区別はありません。男性も女性に劣らず派手な柄の小袖を着ていました。身分ある男性が袴を着けずに出歩くことはないけど。
秀長は元親の重臣 谷忠澄を通じて元親の小袖を回収して送りました。女物の衣を贈るのは、普通に考えれば大変な侮辱と見なされますがねぇ。しかし元親にとっては、武家の嫡男としては大人しすぎて、姫若子(ひめわこ)と呼ばれていた日々を思い出させる品でした。初陣を果たして鬼若子(おにわこ)と呼び変えられてからも、姫若子でいたかったのでは。
いくさは好き嫌いでするものじゃあない。四国一統は長宗我部の悲願だから戦っている。しかし国際情勢は四国一統を許さない。父の代には土佐の2割ほどしか治めていなかったものが、いまや土佐一国の国主となった。好きでもない戦いをこれ以上続けなくてもいいんだ。元親はわずかな時しか共にしなかったのに、元親を理解してくれていた秀長に降りました。士は己を知る者のために死す。これからは羽柴、否、関白 藤原秀吉のもとで力を尽くそう。個人的には、あんまり九州には行かないほうがいいと思うけどさ……。
ところで、蜂須賀正勝がフラグを立てちゃってましたね。ヤダー。四国戦線でケガを負って大坂に戻った正勝は、四国に渡ると言い張る秀吉を説得しました。兄を信じる弟を信じてやれ。兄弟が武士になって間もないころを知る正勝ならではの言葉でした。
このくだりではやたらエモーショナルな音楽がかかり、正勝と秀吉が涙ぐんでいました。いや、感動的でいいんだけどね。ほかにも遠景でバカでかい風車が無意味に回ったり、雷光とともに般若の面が浮かび上がったり、戦隊ものっぽい演出だなぁと。調べてみたら、第24回「軍師官兵衛!」の演出家 酒井悠氏でした。ぼくは普段あまり演出の意図などを考えずに観るのですが、これは演出家の手癖が強くて、ちょっと観賞の邪魔でした。ゴメン、好かんき。



