星野洋品店(仮名)

星野洋品店(仮名)

とある洋品店(廃業済み)を継がなかった三代目のドラマ感想ブログ

応仁の乱以降の天皇や公家は、室町幕府が面倒を見てくれなくなったので、とにかくカネがない。摂関家のひとつ 一条家の分家までもが、生活のために土佐に移って戦国大名になって、子孫が長宗我部元親に倒されたりするくらいです。

 

食い詰めた貴族たちが去ってうら寂しくなった京に現れたのが、15代将軍 足利義昭を伴った織田信長でした。信長は荒れ放題だった御所を修築し、朝廷の儀式を再興し、公家たちに伝統を守るという仕事を与えてくれました。朝廷は感謝をこめて信長に正二位 右大臣 兼 右近衛大将という、摂関家並の官位を与えたのに、信長は官職を返上してしまいました。

 

「信長は天皇を倒して新しい朝廷をつくるつもりなのでは?」

とビビった朝廷は、信長に「関白・太政大臣・征夷大将軍のどれか、あるいはすべてになってほしい」と要請しました(三職推任)。信長は嫡男の信忠に官位を授けてくれるように要請していたくらいで、朝廷を滅ぼす気はなかったんだけど。


藤原頼通(藤原道長の嫡男)の子孫である五摂家(近衛・九条・一条・二条・鷹司)が持ち回りで摂政関白をつとめる制度が固まったのが鎌倉時代。それ以前も皇族以外では藤原氏が摂政関白を独占していたのに、平氏を称する織田信長を関白にしようというんだから、朝廷はよっぽど信長を恐れていたんですね。しかし返事をする前に、信長は本能寺の変で斃れました。

 

その後にやってきたのが羽柴秀吉。織田家時代の同輩をすべて配下にするか倒すかして、信長よりも強大な力を持っています。小牧・長久手の合戦中の天正12年(1584年)10月、朝廷は秀吉を従五位下 左近権少将に叙任し、次いで従三位 権大納言、翌天正13年3月には内大臣と昇進させました。内大臣からさらに右大臣に昇進してほしかったのに、秀吉は「信長の極官(ごっかん。生前の最高の官職)と同じなのは縁起が悪い」と難色を示したようです。ナマイキ。

 

ならば、その上の左大臣ならいいのか? 当時の左大臣は五摂家筆頭の近衞信輔(のちに改名して信尹)で、今回から登場した近衞龍山(元関白太政大臣 近衞前久)の息子です。信輔は辞任を迫られたわけでもないのに、「辞任して無官になる前に関白になっておきたい。近衞家では無官の関白の前例がないから」と主張して、当時の関白 二条昭実に関白を譲るように要請しました。無官で摂政関白をやった例はあるんだけどねぇ。藤原道長の父 兼家は一時期無官の摂政だったし、二条昭実もこの当時は無官の関白でした。

 

二条昭実は、「二条家では、就任一年以内の関白が辞任した前例はない」という理由で辞任を拒否しました。また前例かよ。ほんと、伝統を守る以外にやることがないんだな。裁定を求められた正親町天皇も困り果て、争いは羽柴秀吉のもとに持ち込まれました。争いの発端は秀吉なんだが。

 

秀吉がひねり出した答えは、秀吉が近衞龍山の猶子(ゆうし。家督継承権のない養子)になり、内大臣のまま関白に就任するというものでした。なんでやねん。近衞家と二条家の争いが棚上げされること、近衞信輔が左大臣を辞任せずに済むこと、秀吉の機嫌を取ることができるのは良い、かもしれんけどね。

 

 

……という約1200字分の前段階を踏んでの第36回なわけですよ。武家のトップとしては征夷大将軍のほうがふさわしいのではないか、と近衞龍山が問うたのが味わい深かった。2020年『麒麟がくる』では本郷奏多が演じていた若き日の暴れん坊関白 近衞前久は、上杉謙信と組んでみずから関東に下り、鎌倉公方(足利将軍家の分家の当主)になろうとした人です。坂東武者に全力で拒否られて逃げ帰りましたが。

 

秀吉の答えは、武家だけでなく全部のトップに立ちたい、とのことでした。まあ、足利義昭がまだ現職の征夷大将軍のままで、辞職を促すのも面倒だし、あらたに武家の棟梁っぽい官職名を考えてもらおうとしたら、お公家さんに謝礼を渡さなきゃいけないし、関白は征夷大将軍よりずっと上の地位だし。一人之下、万人之上ってやつだね。

 

近衞龍山はブーブー言っていましたが、結局おのれと同年代の猶子を受け入れざるを得ませんでした。だって、日本一のカネと軍隊の持ち主ですよ。京を丸焼けにして、新しい王朝を立てることだってできる。朝廷側にできるのは、せいぜい勿体をつけて賄賂の金額を釣り上げることだけです。近衞家に1000石、そのほかの四摂家に500石ずつを加増することと引き換えに五摂家は沈黙し、摂政関白を藤原北家が独占するという700年の伝統は破られました。秀吉が約束通り近衞信輔に関白を返してくれるといいねぇ……。

 

 

 

 

さて、黒タヌキ 徳川家康がいつか仕留めてやろうと狙っているサル兄弟の弟のほう、われらが主人公 羽柴美濃守秀長のおはなしです。秀長はまだ体調が万全ではない秀吉に代わり、小牧・長久手の戦いに付随する戦いで反秀吉サイドに加担しやがった勢力を征伐しなくちゃいけません。紀伊国の雑賀衆やなんかはサクッと倒し、秀長は紀伊国の材木で四国への渡海用の船を造らせました。紀伊の語源は木、ですからね。生木で船をつくるのは無茶だし、船頭がいないと意味ないけど。

 

瀬戸内航路

出典:れきちず

 

同盟を結んだ毛利家と合わせて1000隻の船を瀬戸内海に浮かべ、羽柴秀長は四国上陸を果たしました。長宗我部元親はこのとき四国一統をほぼ果たした状態でしたが、四国の海岸線すべてを守りきる兵力はありません。敵の上陸地点を叩くという兵法の常道を守ることができず、後退を余儀なくされます。

 

なおも抵抗を続けようとする長宗我部元親の心を解かしたのは、秀長の熱意でした。第25回、天正9年(1581年)2月に行われたお馬揃えを見物に来ていて秀長と出会った元親は、女物の小袖を着流しにして、膝をきちんとそろえて座っていました。マジレスすると、この時代の小袖はすべて同じ形式で、男女の区別はありません。男性も女性に劣らず派手な柄の小袖を着ていました。身分ある男性が袴を着けずに出歩くことはないけど。

 

秀長は元親の重臣 谷忠澄を通じて元親の小袖を回収して送りました。女物の衣を贈るのは、普通に考えれば大変な侮辱と見なされますがねぇ。しかし元親にとっては、武家の嫡男としては大人しすぎて、姫若子(ひめわこ)と呼ばれていた日々を思い出させる品でした。初陣を果たして鬼若子(おにわこ)と呼び変えられてからも、姫若子でいたかったのでは。

 

いくさは好き嫌いでするものじゃあない。四国一統は長宗我部の悲願だから戦っている。しかし国際情勢は四国一統を許さない。父の代には土佐の2割ほどしか治めていなかったものが、いまや土佐一国の国主となった。好きでもない戦いをこれ以上続けなくてもいいんだ。元親はわずかな時しか共にしなかったのに、元親を理解してくれていた秀長に降りました。士は己を知る者のために死す。これからは羽柴、否、関白 藤原秀吉のもとで力を尽くそう。個人的には、あんまり九州には行かないほうがいいと思うけどさ……。

 

 

 

 

ところで、蜂須賀正勝がフラグを立てちゃってましたね。ヤダー。四国戦線でケガを負って大坂に戻った正勝は、四国に渡ると言い張る秀吉を説得しました。兄を信じる弟を信じてやれ。兄弟が武士になって間もないころを知る正勝ならではの言葉でした。

 

このくだりではやたらエモーショナルな音楽がかかり、正勝と秀吉が涙ぐんでいました。いや、感動的でいいんだけどね。ほかにも遠景でバカでかい風車が無意味に回ったり、雷光とともに般若の面が浮かび上がったり、戦隊ものっぽい演出だなぁと。調べてみたら、第24回「軍師官兵衛!」の演出家 酒井悠氏でした。ぼくは普段あまり演出の意図などを考えずに観るのですが、これは演出家の手癖が強くて、ちょっと観賞の邪魔でした。ゴメン、好かんき。

ごきげんよう、北条氏政が汁かけ飯っぽいものを食べていて嬉しかった者です。放送時には気づかなかったのですが、公式サイトに写真が上がっていました。この氏政殿なら、汁の量を1回で決められそうですよね。きっと小田原評定をサクッと終わらせて、豊臣軍の包囲を解いてしまうに違いありません!

 

 

 

 

 

今回は天正12年(1584年)3月から11月、いわゆる小牧・長久手の戦いです。作図するのがダルくて、画像は3回目の使いまわしです。まあ、放送でもあまり詳しくやらなかったしな。

 

濃尾平野

地理院地図を一部改変

 

織田信雄の本領である伊勢に近い濃尾平野南西方面が戦場になりそうなものですが、羽柴方が犬山城を奪取したので、家康は濃尾平野東端に近い小牧山城に入りました。手薄な三河を突かれちゃ困るから。織田信長が居城にしていた当時より堀を深くし、東の山地のほうへいくつかの砦を設けて三河への侵入を防ぐ構えです。小牧山城の西は五条川が削った崖が南北に続いていて、防御の必要がない。対して羽柴方も小牧山城の北東5kmの楽田城を中心に砦群を築いて防衛ラインを敷きます。

 

4月になって膠着状態を破るために考案されたのが、いわゆる「三河中入り」作戦です。小生意気な三好信吉(のちの豊臣秀次)が2万の大軍を率い、家康の本領である三河を急襲する作戦でしたが、ご覧の通り惨敗しました。普通勝つだろ。2万といったら、家康の全軍より多いくらいなんだぞ?

 

中入り勢は部隊ごとにバラバラに行動しており、ひそかに小牧山城を出た徳川勢に各個撃破されたのです。信吉隊はチンタラ行軍して徳川勢に追いつかれ、中入りを提案した池田恒興・元助隊は岩崎城の挑発に乗って時間を空費しました。池田親子と森長可(キャスティングされず)は岩崎城を守る丹羽氏重を討ち取ったものの、駆けつけた家康に長久手で討たれました。

 

しかし戦国のZ世代(by 公式)こと三好信吉は、敗戦に責任を感じていませんでした。家康が小牧山を出たという知らせが来なかったのが敗因で、自分はなにも悪くない。おいおい、敵地にいるんだから、自前の偵察隊くらい出しておきなさいよ。戦場では自分以外の誰も信じちゃいけない。

 

 

 

家康にとっては大きな戦術的な勝利でしたが、小牧山戦線は膠着したままです。崖と湿地に囲まれて難攻不落の小牧山城は放っておき、主戦場は濃尾平野 南西部に移ります。信雄の本拠 伊勢長島城と家康の連携を切るために、蟹江城を攻略したのが滝川一益でした。戦略上の要地なので、家康・信雄はすぐに奪還しましたが。

 

……このドラマの欠点のひとつだけど、ナレーターをふたりも起用しておきながら、なぜナレーションを入れないんだろうね? 柴田勝家と織田信雄をそそのかして羽柴秀吉と戦わせた一益は賤ケ岳の合戦後に秀吉に降伏し、いまや羽柴方の将として参陣していたのです。こういう重要な変化を知る人ぞ知る情報として扱うのは、連ドラとしてどうなのよ。

 

ボロボロになって大坂城に帰還した一益は、秀吉にいらん情報をもたらしました。徳川家臣の榊原康政が書いたと伝わる檄文です。「卑しい出身のくせに主家である織田家を蔑ろにする秀吉を討てば、黄金100枚を与える」そうですよ。ざっくり計算すると小判で5000両かな。よく知られる檄文では10万石となってますね。小判1両=米1石と換算すると、10万石のほうがいいな。どちらにしても後世の創作だし、ほんとうだとしても空手形だけど。

 

秀吉は怒りのあまり霍乱(かくらん)で倒れました。熱中症や下痢で脱水症状を起こすことです。滝川一益は帰る前にせめて小一郎にだけは挨拶しようと待っていました。報復の連鎖が止まない戦国の世に疲れてしまい、秀吉の勧め通りに隠居したいのだそうです。あんたの策謀に乗っかったせいで、柴田勝家と織田信孝が死んだんじゃなかったっけ? 疲れたとか言うなよ。

 

そこへ秀吉の見舞いに来た丹羽長秀が通りかかりました。丹羽長秀は史実通り一益を自領の越前に誘いました。柴田勝家の死後、越前は丹羽長秀に与えられていたのです。賤ケ岳で大きな戦功があったからね。本作では全カットされたけど。

 

 

丹羽長秀は秀吉を見舞い、織田信雄から調略されそうになったと明かしました。いまや数少なくなった織田家の老臣である丹羽長秀を頼りたいと信雄が言っているということは、家康との関係が悪いのでは? 信雄を追いこめば、家康の援軍を待たずに降伏するかもしれない。

 

小一郎は伊勢長島城に総攻撃をかけ、織田信雄は和平交渉の場に引っぱり出されました。徳川家康は挙兵のために織田家の看板が欲しかっただけで、信雄をあからさまに見下してきた。織田家なんかに生まれなければよかった。いや、みじめな死に方をした父 信長よりはマシか。平時に横死するとは、武士として情けない死に方だ。

 

小一郎は和睦の起請文を奪い取ってくしゃくしゃに丸めました。戦場で命を懸ける覚悟もない信雄が、信長さまを馬鹿にできるのか? 誰がおまえなんぞと和睦などするものか。家康のもとで一生見下されているがいい。

 

秀吉は弟の礼儀知らずを詫びると、和睦の起請文をていねいに伸ばして互いの署名と血判を加え、にっこりと笑いました。

「末永く、わしのために働いてちょ、信雄さま」

そう、信長を敬愛することでは小一郎に劣るはずもない秀吉が、信雄の言い草に腹を立てなかったわけがない。信雄は秀吉の敬意を受ける資格をみずから捨てたのだ。秀吉の臣下として扱われるなら、家康のもとで見下されていた方がマシだったろうに。

 

信雄はひとりになると、津川雄光が見せてくれた舞を真似ました。ひょっとこ顔の、ひょうげた舞。主君 信雄を守るためなら道化にもなれた津川雄光は、尾張守護 斯波氏の子孫であり、信雄の織田弾正忠家は斯波氏の家来の家来でした。実家の没落を受け入れて家格が下の織田家に精いっぱい仕えた津川雄光を誅殺した信雄が得たものは、武家の生まれですらない羽柴秀吉への臣従でした。

 

 

小牧・長久手の戦いがおおむね終結すると、丹羽長秀は羽柴小一郎長秀に改名を勧めました。いまさらかよ。同僚に同名の人がいると判った場合、たいていは年少者のほうが改名します。小一郎の場合は信長から授かった名なので、そのままになっていたのでしょう。

 

信長さまの長は残すとして、長政、長康はほかにもいる。いっそ長長は? そういえば、『どうする家康』でも、松平元康からの改名の際に康康という候補があったな。

 

小一郎は長秀を引っくりかえして、秀長と名乗ることにしました。丹羽長秀の言葉によるものです。秀吉は信長さまを超えるかもしれない。なぜなら、小一郎という信頼できる弟がいるから。

 

……通説では、秀長という名は羽柴家が織田家を蔑ろにしている証とされます。信長から頂戴した長の字を下に置くのは、戦国時代の感覚では大変な無礼なので。鎌倉時代だと、偏諱(へんき。実名の一文字を与えること)を下にしても良かったんですが。本作ではうまいことキレイな理由を考えましたね。農民出身だから武家の習慣に疎い、という万能の言い訳もあることだし。

今週の『シン・どうする家康』、面白うございました。江戸時代に形成された通説準拠でしたが、歌舞伎と思えば腹も立たないよ。いじめっ子 今川氏真の本役と子役(龍王丸)がキャスティングされ、龍王丸の学友役の子役さんたちも達者なお芝居でした。……どこに力を入れて撮ってんだよ。Who is 主人公? 徳川家康を綺麗ごとでイラつかせて、小牧・長久手の合戦を引き起こすためだけに生まれてきたのかい?

 

 

 

天下人とは何かと問われれば、「朝廷から京の治安維持を任された者」ということになろうかと思います。室町幕府の将軍はもちろん天下人でしたし、幕府が衰えて以降は京周辺を押さえる者がその役を担っていました。

 

間違いなく天下人だった織田信長が横死し、あれこれあった末に織田宗家の家督相続者となった織田信雄ですが、天下人の座をも継ごうとしても、五畿内の大半を押さえる者は羽柴秀吉なんですよね。京周辺の武士や寺社は、信雄ではなく秀吉の庇護を求めている。この現実を覆すには、合戦で秀吉を破るしかない。

 

信雄はおなじく秀吉を快く思っていないであろう徳川家康を誘いましたが、家康は挙兵を断りました。他力本願な信雄は頼れる同盟相手ではない。信雄の重臣 津川雄光は断られたことを喜びました。現実を見てほしいよね。

 

 

信雄の居城 長島城を出ようとして、家康は1羽の小鳥に目を止めました。36年前、今川家の人質としていじめられていた頃、今川義元がくれた小鳥。8年もの間、鳴き声で何を言いたいかわかるほどかわいがっていた小鳥を、今川義元は殺せと命じました。逆らわないという誓いの証として。

 

家康は手が滑ったふりをして小鳥を逃がしましたが、室外で待ち構えていた今川氏真が鉄砲で撃ち落としました。……えーと、現代の散弾銃でもあのサイズの小鳥を撃つのは難しいぞ? 蹴鞠よりも鉄砲が得意な氏真とは、斬新なキャラ設定だな。

 

心の支えだった小鳥が死んだこと、味方だと思っていた今川義元に裏切られたことに涙する家康を石川数正は諭しました。奪われるのが嫌なら、奪う側になるしかない。しかし、いまはまだその時ではない。爪を噛んで指を傷つける癖もやめて、いつか武家の頂に立つ日を期すのだ。

 

 

 

そう、まだその時ではない。実質的には臣従だったとしても、家康は織田信長の対等の同盟者という建前だった。朝廷から認められた公式の官位を持つ者が、信長の家臣に過ぎない無位無官の秀吉ごときに膝を折る謂れはない。それでも、本能寺の変後の混乱に乗じて掠め取った甲斐・信濃を完全に掌握するまでは、その時ではない。

 

家康は本能寺から流出した初花肩衝の茶入れを秀吉に贈って機嫌を取りました。茶の湯をカネを食うだけの馬鹿げた趣味と思っているから、大名物茶器だろうと別に惜しくはない。

 

受けとった羽柴家側では、あまりに高価すぎる贈り物だからこそ、家康の不快を感じたようです。使者の石川数正に大坂城を見せつけ、さらに家康を茶会に誘いました。初花肩衝の礼と言われては、断りにくい。家康は史実に反して大坂へ向かいました。まあ、北条氏政にも織田信雄にも会ったし、秀吉にも会えばいいよ。

 

茶席で養子という名の人質を要求された家康は、茶に酔う体質だったのか、不快をあらわにしました。出会った頃の木下兄弟は、長い人質生活で養った眼力をもってしても何を考えているかわからず、恐ろしかった。いまはわかりやすくなった。武士らしくなった。家康は顔を伏せて激情を抑え込み、子を差し出すと約束しました。

 

帰ろうとする家康を小一郎は呼びとめました。我らが天下一統を望むのは、いつか人質などいらぬ世を作るため。乱世の苦しみはもう我らの代で終わらせたい。子どもらが笑って生きられる世を作りたい……。

 

家康は背を向けたまま、小一郎の言葉を遮りました。

「そなたらの熱意、しかと受け止めた」

 

熱意。第5回で、秀吉に「松平さまみたいに偉くなるにはどうすればいいんですか?」と問われて、家康はこう答えていました。

「信長殿を信じることじゃ。そして誰にもできぬことをやってのける。恐れず、己を信じて突き進むのじゃ。大事なのはここ(真心)じゃ。熱意が人を動かし、勝敗を決する」

 

でも、本心は正反対でした。熱意なんかで人が動くものか。家康が秀吉の呼び出しに応じたのは羽柴家の勢力を恐れたから。羽柴の綺麗ごとに心を打たれたわけじゃない。子どもたちのために天下一統を成しとげるのはいいけど、現役世代の苦痛は無視するのか? そして苦しむのは羽柴ではなく徳川ではないか。羽柴にとっては絆を深めるための養子でも、家康にしてみれば人質でしかない。

 

 

鬱屈を抱えて浜松城に戻った家康のために、家康の三男 長丸(のちの秀忠)は手袋をはめて父から教わった草を摘み集めました。触れれば皮膚がかぶれ、飲めば体がしびれるという毒草。父を泣かせた敵をやっつけるために。足りないならもっと摘もう。徳川の血を引く天皇をつくるためには、側室が生んだ皇子を暗殺することもいとわなかったという二代将軍 秀忠の片鱗を感じさせます。

 

家康は長丸を抱きしめました。この利発で親思いの子を人質として大坂へ送っては、羽柴の腹ひとつで謀反の罪を着せられ、誅殺されることもありうる。すでに信長の命令で長男 信康を失っている。これ以上は、もう……。

 

家康はいったんは断った織田信雄との同盟を受け入れました。馬鹿と鋏は使いよう、だね。「羽柴秀吉は主家を蔑ろにする謀反人」ということにすれば、大義はこちらにある。信雄は羽柴への宣戦布告として、羽柴派だった重臣 津川雄光を血祭りに上げました。信雄の安全を守ろうとした忠臣だったと思うけどねぇ。

 

勇み立つ石川数正に比べて、奪う側に立った高揚はないまま、家康は浜松城に家臣団を集めました。メガネがないとキャイ~ンとは気づかれない酒井忠次。デカい声を出すのはもうこりごりな本多忠勝。首をコキコキと不気味に鳴らす榊原康政。目がバーサーカーな井伊直政。徳川四天王がそろい踏みしました。勝てる。今年の徳川家は勝てるぞ! 大坂の陣を待たずに羽柴家を滅ぼしてしまえ!

ネタにマジレスするのも佳くないけど、菓子が先、茶が後ね。空きっ腹に濃茶を飲むと胃が荒れるので、あらかじめ菓子を食っておくんですよ。あと、漆はアロンアルファじゃないので、金継ぎした茶碗を即日使うのは無理です。せめて一日は置かないと、漆の臭いがくさいと思う。

 

 

 

賤ケ岳の合戦が終結したのが天正11年(1583年)4月21日。わずか3日後の4月24日に、柴田勝家の居城 北庄城は落ちています。賤ケ岳から福井までは66km。通常の行軍速度が時速3km×8時間=24kmであり、峠越えもあることを考えれば、敗走する柴田勢を全速で追撃し、到着翌日の早朝にさっそく攻めかかったと思われます。

 

北国路が足羽川(あすわがわ)を渡り、大野街道が分岐する地点に北庄城はあり、当時の本丸は現在の福井城から500m南の柴田公園にあったと見られます。足羽川北岸の微高地で、街道を監視するにはいいけど、防御はどうなんだ。安土城にも劣らぬという九層の天主も、しょせん虚仮脅しだしな。

 

陥落必至と悟ったお市は娘たちを羽柴方に引き渡し、自害しようとしますが、柴田勝家が止めました。ふたりは手に手を取って天主最上階を目指します。目的がよくわからん。お市が敵兵に捕まって辱めを受けたらどうする。それを防ぐための自害だろ? 「柴田勝家がお市と妾を天主最上階で殺害してから切腹した」とされる伝承に合わせたかったことと、侍タイムスリッパーの殺陣を見せたいってことだけは理解した。

 

 

一方、足羽川南岸の足羽山に本陣を構えていた秀吉は、小一郎に「そばを離れるな」と命じました。ダチョウ倶楽部的なヤツですね? 小一郎は川を渡って1km先の北庄城に向かいました。あれだけ「一滴の血も流したくないんじゃー!」と言ってたのに、太刀を振るって敵兵をなぎ倒しながら進みます。けっきょく自分の都合かよ。

 

小一郎がたどりついた天主最上階では、お市と勝家が羽柴勢に囲まれていました。賤ケ岳の七本槍-3+藤堂高虎+石田三成。浅野長吉もいたっけな。寝返った者の慣例で先鋒を務めた前田利家隊からはひとりもいないの?

「頼もしいのう」

とお市は若武者たちに目を細め、勝家と手をつないで天主から飛び降りました。

 

 

……このくだり、好きじゃないです。まず、武士は死にざまを気にするので、あおむけにひっくり返った状態で発見される可能性のある飛び降りはしないと思う。武士は死ぬ時ですら前に倒れなきゃいけない。お市も着物がはだけないように両足首をひもで縛ってから落ちないとね。

 

それに、若者たちに後を託して老害が去るという表現も、なんだかな~。後世の人が勝手につくった美しい物語って感じがして、嫌。老害が老害なりに一生懸命生きて死んでゆくからこそ、それを倒した若者たちの輝かしい未来が来るのだと思う。老害が去った後に来る豊臣政権が、そんなに佳いものだったとも思わないけど。

 

ちなみに城郭考古学者 千田嘉博先生のXによると、

「天主最上階から飛び降りると、すぐ下の階の大屋根に落ちます。ふたりは屋根伝いに城を脱出して、幸せに暮らしたに違いありません。たぶん。」

とのことです。あはははは。城郭考古学者が言うんだから間違いない。

 

 

 

柴田勝家とお市のプシュケー(霊魂)は蝶となって飛び去り、取り残された小一郎は織田信長の葬儀が執り行われた洛北 大徳寺に籠りました。ぼくは小一郎を「覚悟を決めた決めた詐欺師」だと思ってる。何回フラつけば気が済むんだ。

 

そういえば、クレジットが「羽柴小一郎長秀」から「羽柴美濃守長秀」に変わっていますね。この「美濃守」は朝廷から正式に受けた官職ではなく、「受領名(ずりょうめい)」といって、先祖の官職名を子孫が名乗り続けたり、主君から新たに授かったりするものです。秀吉の「筑前守」も信長から受けた名乗りです。主君がかなり有力でないと授けないものなので、秀吉から小一郎に与えたということは、秀吉が織田家の許可なしに自由に振舞えるようになったということを意味します。

 

 

今の兄を、お市を殺してでも天下人になろうとする兄を、まことに支えられるのか。おのれに問いながら雑巾がけをする小一郎は、うっかり人にぶつかって茶碗を割ってしまいました。一国にも匹敵する大名物だそうですよ。うひー。

 

茶碗の持ち主は千宗易(のちの千利休)。第31回で信長の葬儀の際に大徳寺とゆかりの深い堺商人として、すでに名前だけ登場していました。宗易は怒らず、「おもろいなあ」と呟き、茶碗に金継ぎを施しました。不完全を愛でる精神が日本的だというので、欧米では金継ぎが流行っているそうですね。継がれた茶碗には何だかよくわからんものがこもって、前より佳くなる。

 

茶道具というものは、宗匠が佳いと言えば佳い。そんなものです。宗易は秀吉と組み、二束三文のルソンの壺に高値を付けて即売会を行うことになります。あんなもん、液体を輸出するための容器で、現代で言うとポリタンクみたいなものですよ。それでも、「これは景色が佳い(釉薬のムラが美しい)」などと宗易が言えば、300貫文でも安い気がしてくるのです。芸術家というより詐欺師の才だよな。

 

 

宗易は継いだばかりの茶碗で小一郎に茶を振舞いました。続いて自分も茶を喫した宗易は顔をしかめました。苦いのが嫌いなのだそうです。いや、だからまず菓子を食うんだってば。菓子で甘くなった口を苦い抹茶でさっぱりさせるのが佳いのであってだな……。

 

まあいいや。とにかく、甘い菓子を味わうために苦い茶を飲んでいるという宗易に感銘を受けて、小一郎は兄のもとに戻ることにしました。心配して迎えに来た妻 お慶はなんか怒ってたけど。

 

 

 

そのころ、秀吉は戦後処理をしていました。北庄城から引き取った浅井三姉妹を寧々に会わせようと案内したのは、わざと背中を向けて隙を作ったのか。ここで死ぬならそれも天命です。茶々は母から渡された守り刀を抜こうとしましたが、秀吉の肩に蝶が、プシュケーが止まるのを見て思いとどまりました。妹たちの守り刀になることが、母から託された使命だから。

 

そして、賤ケ岳の戦いで裏切ったはずの中川清秀の嫡男 秀政を秀吉は呼び出しました。清秀は佐久間盛政隊と戦って名誉の戦死を遂げたことにしてやるから、頑張って働けよ。

 

えー、そんなのアリなの? 中川秀政が朝鮮出兵で馬鹿な死に方をしたけど改易を免れたという史実とつじつまを合わせたんだろうけど、『豊臣兄弟!』の物語が終わった後のことまで整合させなくていいと思うよ? それより、現場にいた全員が知っている裏切りをなかったことにするほうが無理筋。ボタンひとつで記憶を消せるとでも思ってる?

 

 

 

秀吉の元に戻った小一郎は、大徳寺籠りのあいだに伸びた無精ひげをそのまま伸ばすことにしたようです。ようやく腹をくくって、子ども時代をおわらせたんだね。苦い戦いの日々は、楽しい世を味わうためにある。小一郎は秀吉とともに月代(さかやき)を剃って家臣たちの宴に加わりました。

 

月代は兜をかぶる頭がのぼせるのを防ぐために剃るものです。天下人になる。そのために倒すべき敵はまだ多い。戦いの日々を前に、月代を剃って覚悟を示したのでしょう。

 

史実では織田信長が上洛したころ(1568年)から剃刀で剃るようになったけど、それ以前は髪を抜いていました。ものすごく痛いらしい。うひー。だから、合戦の時だけ抜いていたそうです。

 

本作では天然月代の河内大和さんが演じる氏家直元以外は全員ずっと総髪でした。これは予算の都合と思われます。カツラの月代と皮膚をなじませるのに1時間半かかるそうで。高品質の映像を求めすぎるのも考えものですな。

長浜、アバン陥落!(注:アバンタイトル=タイトルが出る前の映像)

 

もうね、お市も柴田勝家も政治力ゼロですよ。せっかく冬場でも自由に行動できる長浜を手に入れたのに、勝家の養嗣子 柴田勝豊に与えて放置するとか、ほんま、なんなん? 脳みそ、煮えてるん? 勝家が常駐するのは無理にしても、お市を勝豊の後見として置いておけば、こんなにあっさり陥落しないものを。

 

柴田勝豊は柴田勝家の姉の子で、養嗣子としてお披露目されていました。ところが、柴田勝敏という人物が「権六」という通称を勝家から継いでいます。どうやら勝敏は勝家の実子だったようで(養子説もあり)、勝豊は自分の地位が脅かされると感じていたようです。

 

しかも、勝家がいちばん信頼して大軍を預けていたのは甥の佐久間盛政(追放された佐久間信盛の甥でもある)で、戦功は盛政がいちばん多い。仮に柴田勝家がぽっくり逝ったとすると、「柴田勢の棟梁は自分だ」と主張できる人物が3人もいたことになります。秀吉と戦う前に、家中を治めておけってんですよ。マジ、政治力ゼロ。

 

 

天正10年12月、羽柴勢が長浜を囲むと、柴田勝豊は幾日も持たずに降伏しました。まあ、長浜城を建てた人が攻めてきたんだから、抵抗しても無駄だわな。勝豊はその時すでに体調が悪かったらしく、しばらく京で療養したのちに死去しています。家臣たちは羽柴勢に加勢しました。柴田家では生きる道がないと、主従ともに感じていたんでしょうねぇ。

 

秀吉は返す刀で岐阜城に織田信孝を攻め、三法師を取り返しました。三法師は安土に入り、織田宗家の家督を一時的に預かることになった織田信雄の後見を受けました。信雄が三法師を拉致したという史実はないからね。

 

賤ケ岳の合戦

出典:れきちず

 

まだ北国では雪の残る天正11年(1583年)3月、柴田勝家は上杉家への押さえに越中の佐々成政を残し、2万の軍を率いて北近江 柳ヶ瀬の内中尾山城(玄蕃尾城)に入りました。この城は長浜を得た時点で築城していたようです。柴田勢は北国街道沿いにさらに砦を増やしました。

 

対して羽柴秀吉は1月に挙兵していた滝川一益が籠城する伊勢 長島城を織田信雄に任せ、長浜から北北西14kmの木之本に本陣を置きました。余呉湖北岸の尾根伝いに第一防衛ライン、南岸に第二防衛ラインを敷き、北国街道を土塁でふさぎました。本作で見たようなショボい柵ではなく、現代でも痕跡が確認できる本格的な土塁です。

 

4月に入ると織田信孝が再度挙兵し、対応のために岐阜へ向かう秀吉は紀行で紹介された書きつけを小一郎に残しました。「防衛ラインを守り、こちらから挑発しないように」と強調する内容です。史実の小一郎はこれを遵守し、大功を立てる機会を逃すんですが、そこは本作ではやりませんでしたね。「天下の補佐役」らしい名シーンになると思ってたのに、いったい誰が主人公なのやら。

 

 

 

少なくとも本作の賤ケ岳は柴田勝家と前田利家が主人公です。織田信長お気に入りの同朋衆を斬ったときに庇ってくれた勝家に恩義を感じ、「親父殿」と呼んで慕っていた利家。なにがどうなったら合戦中に離脱することになるのか。

 

案の定、冬の間に羽柴秀吉が能登に前田利家を訪ねて説得を試みていました。柴田勝家には今あるものを守れても、新しい世を作ることができない。豪姫を養女にもらった縁もあるし、仲良くケンカできる寧々とまつが敵味方に分かれるのも哀れなこと。こちらに寝返ってほしい。心が動かないでもなかったのだろうけど、「天下人になる」という秀吉の言葉は看過できなかったようです。サルごときが、なにを。

 

 

秀吉が戦線を離れる時を柴田勝家は待っていました。信頼する甥 佐久間盛政に大兵を与え、羽柴勢の第二防衛ラインを攻撃させました。土塁で羽柴兵が待ちかまえる北国街道を避け、余呉湖を西から迂回して、第一防衛ラインを躱したのです。

 

驚いたことに、第二防衛ラインの大岩山砦を守っていた中川清秀が柴田方に寝返りました。第一防衛ラインならともかく、この地点で裏切るのはリスクが高すぎだろ。史実では普通に佐久間隊と交戦して戦死してるけど、本作では裏切りキャラにされています。 大岩山砦陥落に気をよくした佐久間盛政は、さらにほかの砦にも攻めかかり、裏切りキャラ2号 高山右近も敗退します。こっちは裏切りじゃないよ。

 

佐久間隊は余呉湖南岸に居座りました。柴田勢最強の佐久間隊を第二防衛ラインが引きつけているあいだに、小一郎が北国街道を北進して柴田本陣に攻めかかれば、佐久間隊は退路を断たれ、あるいは柴田勝家を敗走させる大功を立てることになったかもしれません。しかし小一郎は秀吉の言いつけを守って耐え忍ぶことを選びました。兄者はきっと帰ってくる。

 

 

岐阜へ向かった秀吉でしたが、揖斐川・長良川の増水に阻まれ、大垣城で待機していました。そこへ羽柴勢苦戦の知らせがもたらされました。秀吉は大垣から木之本まで52kmを5時間で走り抜くという「美濃大返し」を決行します。ちょうど川が増水しているから、信孝に追撃される心配もない。

 

NHK『歴史探偵』の検証によると、時速10km余は一般人の全力疾走並みだけど、当時の人の脚力なら可能だったという結論でした。途中で握り飯を食べさせて低血糖を防げばなんとかなるとか。岐阜城を落としてから帰還することを想定し、食料や松明を用意してあっただろうし。その用意を小一郎がやっていました、ぐらいのことは描かないとさ。

 

いるはずのないところに出現して敵を動揺させる。『孫子の兵法』にもある作戦です。へとへとになっていても、軍勢はそこにいるだけで価値がある。後続の兵が追いつくまで少し休んだ秀吉隊は佐久間隊に攻めかかり、激戦の末に退却させました。ここで活躍したのが「賤ケ岳の七本槍」ってやつですが、これも江戸時代になってから言われ始めたようです。

 

 

このとき、佐久間隊を援護するはずだった前田利家は戦線を離脱していました。向かった先は柴田勝家の本陣。勝家は利家の裏切りを予想していたのでしょう。天下人になれと利家に言われ、一言のもとに断った勝家。織田の天下が続くわけがないという現実を理解していても、いまさら生き方を変えられない。

 

仏門に入るよう勧める利家に、勝家は斬りかかりました。決闘するふたりに降りかかる雪は幻想なのでしょうか。北近江がいくら豪雪地帯でも、新暦5月に雪が降るほどじゃない。

 

太刀を得意の槍に持ち替えて闘う利家でしたが、勝家の気迫に及ばず、太刀を首に突き付けられてしまいました。あるいは、腕相撲で勝ってしまった時に「殿に譲れ」と言われたことを思い出して手加減をしたのか。

「新しき世は、ほかの者と作れ」

そう言い残して柴田勝家は去りました。賤ケ岳で敗れても、まだ帰るところがある。北庄城のお市さまのもとへ。織田信長の夢を引き継ぐ妹のもとへ。

 

 

そこへノコノコと現れた裏切り者 中川清秀の首を手土産に、前田利家は羽柴方に寝返りました。条件はひとつ。

「天下人になるなら、この日の本じゅうにずっと雪を降らせろ」

利家の妻 まつの言葉を知らない者には意味不明です。

 

まつは言いました。雪が降っているあいだは合戦が起こらない。夫がそばにいてくれる。日の本じゅうに雪が降り続ければいいのに。

 

秀吉はわからないなりに肯きました。利家ほどの男がおかしなことを要求するはずがない。たとえおかしな要求を受け入れてでも、利家が欲しい。豊臣家を支える五大老のひとり、前田利家はこうして秀吉の味方になりました。