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星野洋品店(仮名)

とある洋品店(廃業済み)を継がなかった三代目のドラマ感想ブログ

見る予定のテレビ番組をご紹介。

 

 

2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』が BS松竹東急(260ch)で 10月31日(木) から再放送されます。戦争がもたらす経済効果にも触れられていたり、桶狭間以降の今川家の奮闘が描かれたり、徳川の天下取りを裏面から見たり、新しい視点で描かれていましたが、視聴率は悪かったようです。〈小さな井伊谷(いいのや)の小さな物語〉と称する通り、合戦少なめ・フィクション多めの構成が大河ドラマ好きのオジサンには敬遠された模様。

 

なにしろ主人公の家が滅びちゃって、なにも力がない状態が半年も続くんですからね。跡取りの万千代(井伊直政)が元服して合戦に出るまでの時間がとにかく長かった。そこまでの小さな物語を、ぼくは面白く見ていましたけど。寿桂尼さまのデスノートで武田信玄がやられたときは笑ったわ~。蹴鞠担当 尾上松也の生き様も好きだった。小野政次役 高橋一生の出世作ともなりましたし。

 

 

 

 

NHK総合で11月2日から3夜連続で『ブラタモリ』が放送されます。11月4日19時30分からの第3夜では、ぼくが幼少期を過ごした守口宿が取り上げられるそうです。当ブログの過去記事も貼っときます。大したこと書いてないですけどね。

 

 

自分の知ってる地域が取り上げられるのは嬉しいんだけど、ちょっと困る。真田丸の回で大阪城付近が扱われたときなんか、

「ああああ、あそこを奥に行くとダイエーがあるやんな!? ほんで、道沿いにネパールカレー屋の1号店と2号店があるねん!」

などと、一緒に見ていた母と盛り上がってしまい、番組の内容はひとつも頭に入ってこなかったんだよね。えーと、たしか、なんか、合戦の話でしたよね? あ、ダイエー京橋店は、その後建物の老朽化等で閉店しています。どうでもいい個人的な思い出話でした。

一条院は崩御する前日に辞世の歌を詠みました。ドラマでは、

「露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事……」

と言ったところで一条院が気を失いました。

 

道長の『御堂関白記』では、結句を「事をこそ思へ」とし、〈中宮 彰子がおそばについていらした時の御歌である〉としています。

 

行成の『権記(行成卿記)』では、結句を「事ぞ悲しき」とし、〈そのお志は皇后 定子に寄せられたものだが、本心ははっきりとはわからない〉としています。

 

〈俗世にあなたを置いたまま浄土へ向かってしまうのは悲しいことだ〉という歌意です。〈君〉という歌語は主君か恋人を指しますが、天皇に主君はいないので恋人のことで確定。息子のことなら目下なので〈汝(なれ)〉とでも言うはずです。

 

普通に考えれば俗世に残される恋人は中宮 彰子なのですがね。当時お産で死んだ女性は成仏できないとされていた上、皇后 定子は本人の希望で土葬にされたので、〈俗世にとどまっている恋人〉とも言えます。

 

どちらの正室を指して言っているのかは1000年前から論争があるものの、本作での一条天皇役 塩野瑛久さんのなかには一応の答えがあるそうです。ぼくがドラマを見た限りでは、中宮 彰子なのかなと思います。彰子が『新楽府』を学び、一条天皇を「臣下の諫言をよく聞き入れた唐 太宗のようだ」と評したとき、一条天皇は心底嬉しそうだったもの。そんな風に褒められたからこそ、行成くんの諫言を聞き入れて、第2皇子 敦成親王を春宮にしちゃったのかもしれません。それに、現妻の前で前妻への愛を歌うのもどうかと思うし。

 

 

ところで、一条天皇の退位後の呼称〈一条院〉は、里内裏(さとだいり。大内裏の外にある一時的な御所)である一条院新内裏に由来します。新内裏は〈いまだいり〉と発音すると平安っぽくてイイ。所在地は大内裏の北東隅に隣接する一条大宮。じつは長徳の変(996年)で隆家が花山法皇を射殺しかけたあの邸第です。事件後に道長が買い取り、東三条女院 詮子に隠居所として提供していたのですが、一条天皇が火事で焼け出された際には里内裏とされました。

 

ちょっと縁起の悪い邸第なのに、一条天皇は気に入っていたようです。彼の治世中には内裏が3度焼亡して里内裏への避難を余儀なくされたのですが、3度目の焼亡(第32回で一条天皇が彰子の手を取って避難した)以降は内裏が再建されても戻らず、一条院新内裏に住み続けました。じつは紫式部が仕えていたのは内裏ではなく一条院だったんですね。ドラマでは面倒なのでそこまで再現していませんけど。

 

さて、居貞親王(三条天皇)にそんなこだわりはないので、践祚にともなって内裏に入ることになります。皇太子専用の黄丹(おうに)の袍をまとって一条天皇から譲位を告げられた時、喜びを隠しきれていませんでしたねぇ。黄丹はクチナシの黄とベニバナの紅を合わせて昇る朝日を表す若々しい色です。妻の妍子には年寄り呼ばわりされてますけど。

 

一条天皇より4歳年長の居貞親王は〈さかさの儲君(ちょくん/もうけのきみ。後継者)〉と呼ばれ、25年も春宮として過ごしました。「ふつうに考えれば自分のほうが早く死ぬだろう」と思いながら過ごす年月は、さぞ長かったことでしょう。よく頑張ったね。史実では入ったとたんに内裏が焼亡するけど、「天が朕に退位を迫っておる!」なんて思わなくていいんだよ。そんなの、迷信だからね。ちなみに焼亡は〈じょうもう〉と読んだほうが平安っぽくてステキです。

一条天皇が宝算32という若さで崩御されました。回復しかかっていたのに、道長のウッカリで命を縮めたっぽいことが『権記(行成卿記)』に記されています。ドラマではほぼ『権記』寛弘8年(1011)5月27日条の記述通りの進行でした。

 

天皇付きの女官が行成に語ったところによると、一条天皇は夜御殿(よんのおとど。天皇の寝室)におわし、道長は襖一枚を隔てた二間(ふたま。僧侶の詰め所)にいました。大江匡衡(赤染衛門の夫)から届いた不吉な占いの結果を二間にいた僧侶と一緒に見た道長は、僧侶とふたりで涙を流して泣いてしまいました。その様子を几帳の隙間から見た一条天皇は、さほどの重症でもなかったのに、「きっとこの病で死んでしまうのだ」と思いこんで病を悪化させたのだろう、と女官は考えたそうです。

 

史実の道長さんはかなりのウッカリ屋なので、ついつい泣いちゃっただけでしょう。一条天皇が土葬にしたいと希望していたのに、火葬して何日もたってから思い出したりするような人なので。でも本作の道長くんはトドメを刺すために、占いの結果をわざと一条天皇に聞かせるタイプな気がする……。

 

 

覚悟を決めた一条天皇は、行成に譲位と第1皇子 敦康親王立太子の意向を伝えました。四納言+道長の会合では敦康親王を支持したい素振りの行成でしたが、ここでは古例を上げて反論しました。

55代 文徳天皇が、最愛の第1皇子 惟喬親王ではなく第4皇子 惟仁親王(56代 清和天皇)を春宮にしたのは、重臣 藤原良房が第4皇子の外祖父だったから。一条天皇の第2皇子である敦成親王の外祖父である道長も、第1皇子 敦康親王の立太子をすぐには認めないだろう。朝廷に混乱が起きるかもしれない。

ドラマではここまででしたが、『権記』には続きがあります。

今の皇統に直接つながる先祖である58代 光孝天皇は、異母兄である55代 文徳天皇の孫にあたる57代 陽成天皇が不品行ゆえに廃位されるという運命に導かれ、数え55歳という高齢で天皇になった。55代 文徳天皇が皇太子になれたのは、血筋正しい(しかし藤原氏と縁の薄い)恒貞親王が承和の変に巻きこまれて廃位されたからだ。皇位継承という大事は祖霊と神に従うべきで、人の力が及ぶところではない。敦康親王を哀れに思うなら、十分な収入を確保し、勤勉な職員たちを仕えさせるのが上策である。

 

じっさい、平安朝初期までは皇太子の座を巡って死人が出るような争いが起きるのは珍しくなかったし、直近でも969年に安和の変が起きています。源高明(俊賢・明子の父)が、〈皇太弟 守平親王(64代 円融天皇)を廃して娘婿 為平親王を天皇にするために、東国で兵を集めている〉という濡れ衣で失脚した事件です。命を全うしたいなら、皇太子になんかならないほうがいい。

 

一条天皇は行成の言に理があると認め、左大臣 道長のもとに行成を遣わしました。このとき行成が小走りをしていたことを小学館の雑誌『サライ』の記事で、〈行成は道長の忠臣だから、一条天皇の説得に成功して「やったー」という気持ちで走った〉としているんですが、ぼくは違うと思う。

 

 

〈倫理的に正しい第1皇子 敦康親王でも、政治的に有力な第2皇子 敦成親王でも、どっちでもいい。どっちかに確定させてくれれば、全力でそれに従うから!〉という気持ちだったと思うんです。

 

行成は第1皇子 敦康親王家の別当、つまり私邸の長官職にあります。敦康親王が立太子されれば、おそらく行成が春宮権大夫(春宮を世話する役所の長官代行)になり、敦康親王践祚のあかつきには内大臣くらいにはしてもらえたかもしれません。彼の個人的な利益を考えたらそっちの方が得だし、正室腹の第1皇子を立太子するのが道理だから、四納言たちは行成に「おまえは無理をするな(第2皇子派を増やすための説得工作に加わらなくていい)」と言っていたんです。

 

しかし、政治力(=武力)の前に倫理は無力なので、行成は第2皇子 敦成親王を支持する側に転じました。道長を倒して第1皇子 敦康親王を立てるなら、それこそ東国に下って挙兵するぐらいのことはしないと無理だけど、そこまでするだけの動機があるのは亡くなった伊周くらいなものです。

 

四納言たちはそれぞれ天皇の外戚になることに失敗して没落した家の人たちです(俊賢さんの家は外戚になろうとしたという容疑をかけられただけ)。一度衰えた家を復興させることは難しく、現在の権力者である道長に従って家名を遺すのが最善手と考えているようです。敦康親王の後見である隆家もおそらくそう思っているから、〈正室腹の第1皇子が立太子されない〉という前代未聞の事態になっても騒ぎ立てなかったのでしょう。

 

さて、一帝二后の時に続いて、行成くんの説得が功を奏したわけですが、道長は行成の肩に手を置いて、「行成あっての俺だ」とささやくだけで済ませました。行成の気持ちを利用してるのか? 「やらずぶったくり」とはこのことだよ! 大事なことなのでもう一回言うぞ。行成をせめて大納言にしてやろうぜ!

第39回では、まひろが『源氏物語』第35帖「若菜 下」の構想メモを書いていました。

 

摩訶毘盧遮那(まかびるしゃな。大日如来)、命のほど、昔の契り、宿世……。

 

「宿世(すくせ)」という言葉は『源氏物語』に頻出します。前世や前世の因縁を表す語です。たとえば、女三宮と密通した柏木は、

「こうなってしまったのは宿世のせいなので、ボクは悪くない」

などと言いやがります。ハァ!?

 

現代人からするとアホみたいですが、平安朝の当時はわりと納得しちゃう言葉だったようです。犯罪被害に遭っても、警察が科学的に捜査して公正な裁判で罰してくれる時代でもないから、「これも前世が悪かったのね」と受け流すのが習慣になっているのです。ひとの力でどうにもならない出来事は次々に起こるし、いちいち悩んでいられません。

 

犯罪者側もいちおう罪の意識はあるんですが、前世の因縁から自力で逃れるのは凡人には無理です。かといって、欲望に負ける弱い自分のままでいいかというと、来世で人間じゃないものに生まれ変わっちゃうかもしれないから、出家して罪はつぐなっておきたい。

 

 

「『源氏物語』とはどんなお話ですか」と問われれば、「光源氏が5分に1回のペースで『出家したい』と言い、次のページで女に逢う話」としか言えません。罪障を軽くするために出家はしたい。でもなぜ出家しないかというと、心残りの多い状態で出家するとまともな修行ができず、かえって仏罰を受けるからです。どっかの花山院さんは出家姿で女のもとに通ってましたもんねぇ。

 

この「若菜 下」は本当におもしろいんです。光源氏の嫡妻 女三宮が父である朱雀院の五十の賀を祝うために琴の稽古に取り組むところから、六条御息所リターンズ、紫の上の重病、柏木衛門督の密通事件まで、張りめぐらされた糸が一気に引き絞られて、息もつかせぬ展開です。前世で徳を積んで皇太子の祖母となった明石の君と、現世で犯した罪の報いを受けて苦しむ光源氏の対比が残酷で、思わず「ざまぁ見ろ!」と声が出ますわ。紫式部先生はつくづく性格が悪い。イケメンをイケメンのまま終わらせないんだから。

 

あー、ブログを書く気力も失せますね。みんなの弟 惟規くん、史実通りに死去。史実を曲げて生きのびさせてもいいじゃないか。『鎌倉殿の13人』だって、北条泰時が離婚しなかったんだぞ~。

 

 

第39回は惟規デーでした。まずは賢子の出生の秘密をコントみたいにバラす。秘密を知ってしまった為時じぃじは、子の日の宴で道長を凝視したものの、何も言えずに帰ってきてしまいました。『紫式部日記』にあるエピソードと絡めてきましたか。宴に招かれた為時が挨拶もせずに退出したので、道長はわざわざ紫式部を探し出して、「お前の父はひねくれてるな」と文句を言ったんだとか。ひねくれてるんじゃなくて、どう切り出していいかわからなかったんだよ。

 

しかし、道長は賢子が自分の子だと気づいてなさそうなのに、高価な二陪(ふたえ)織物を裳着の祝いとして与えたんですね。二陪織物は地紋の上にさらに丸紋を浮き織にした手の込んだ織物です。国産の弱い絹糸じゃなくて輸入物の丈夫な糸で織る最高級品ですよ。まひろへの愛が深すぎる。

 

賢子の裳着ではまひろの裳着が再現されました。惟規はまひろのときの宣孝おじちゃんのように腰結い役を務めて、

「これでお前も一人前だ。婿も取れるし、子も産める」

と言い、賢子もまひろのように、

「(女房装束が)重うございます」

と応じました。

 

為時じぃじと宣孝おじちゃんがしたように、簀の子縁で語り合うまひろと惟規。惟規は「こじれた親子関係でも、まひろと父のようにいつか修復できる」とまひろを励ましました。自分の死を嘆くまひろを賢子が慰める未来を知っているかのように。

 

惟規は漢詩ができなかったので男社会では出世しませんでしたが、和歌は勅撰和歌集に入集するほど上手だったので、女性にはモテたようです。惟規の辞世の歌は、

「都にも 恋しき人の 多かれば なほこのたびは いかむとぞ思ふ」

というものでした。父上のほかに、都にも恋しい人がたくさんいるからこそ、都への旅に行きたい、生きて帰らなきゃいけない。そうだよ。自分の夫と子を亡くし、惟規の成長を楽しみに生きてきた乳母 いとのところに帰ってあげなくちゃ……。

 

 

伊周も「俺が何をした?(←呪詛&呪詛&呪詛だよね?)」と嘆きながら亡くなりました。息子 道雅に励ましではなく呪いの言葉を残して。「道長には従うな。低い官位に甘んじるくらいなら、出家せよ」と。歴史物語によれば、娘ふたりにも「宮仕えをするな」と言い残したそうですが、長女は道長と明子の息子 頼宗と結婚して摂関家に伊周の血を遺し、次女は中宮 彰子の女房となっています。

 

敦康親王の元服もようやく決まりました。史実の道長は敦康親王の後見をするのがめんどくさくなって8か月もほったらかしていたようです。『光る君へ』の道長は「光源氏みたいなことになったら困る」と焦っていましたが、娘の妍子(きよこ)のほうがなんかヤバいことになってるっぽいよ? 

 

妍子は尚侍(ないしのかみ。女官長だが、実質的には天皇・皇太子の妃)として春宮 居貞親王の後宮に入りましたが、18歳年上の夫よりも同い年の敦明親王のほうを気に入ったようです。おいおい。義理の息子に会いたくて頻繁に宴を開いているという話なのかい?

 

居貞親王の最初の妃は道長の異母妹 綏子だったのですが、妍子と同じく尚侍として嫁ぎ、密通事件を起こして実家に下がっています。妍子も同じようになっちゃうってこと? ワァオ。