神仏の 榊と樒を 供え替え
両手を合わせ こころを清め
神棚や仏壇を清め,榊や樒を新しいものに取り替えると,不思議と自分の心まで清められたように感じられるのは,
神棚や仏壇が「聖なる場」であり,そこを綺麗にすることで,自分の内側まで澄み渡っていくように思えるからなのでしょう。
また,榊や樒を新しくすると,神さまやご先祖さまに,きちんとお仕えできた,という安心感や感謝の気持ちが生まれ,
両手を合わせ,神仏と向き合えば,心に新しい風が通るような清々しさを覚え,魂が清められるように感じられたのです。
神仏の 榊と樒を 供え替え
両手を合わせ こころを清め
神棚や仏壇を清め,榊や樒を新しいものに取り替えると,不思議と自分の心まで清められたように感じられるのは,
神棚や仏壇が「聖なる場」であり,そこを綺麗にすることで,自分の内側まで澄み渡っていくように思えるからなのでしょう。
また,榊や樒を新しくすると,神さまやご先祖さまに,きちんとお仕えできた,という安心感や感謝の気持ちが生まれ,
両手を合わせ,神仏と向き合えば,心に新しい風が通るような清々しさを覚え,魂が清められるように感じられたのです。
静けさに 筆を運べば 風通う
内なる声に 己を映せり
ブログとは 心を耕す 道場か
小さき幸を 灯して歩む
静けさの中で,ひとつ言葉を探していると,それは,心の土を掘り返すような作業でもあり,外との喧騒を離れ,内に耳を澄ませていたら,ふとした瞬間に,閃きがよぎることがありました。
その言葉をすくい取り,文字で表してみると,心に風が通い,澱みがほどけていくこともあって,
書くことは,誰かに見せるためだけのものではなく,むしろ,自らを見つめ,心を整えるための「修行」のようでもあると思われるのです。
また,ブログとは,心を耕す道場のようなものであると感じ入り,
題を掲げて,そこへ言葉を綴るたびに,ブログを書くことが人生の修行をしているようにも感じられ,
自分の内面を見つめ,言葉にして綴ることで心を整え,一文が出来上がることにより,達成感が生まれる事もあったのです。
農道で 園児の列を 見送りて
手を振る姿 胸に残りぬ
幼子の 列を見つけて 徐行せり
守る気持ちは 道に沁みゆく
雨の一日でした。
この雨で,畑仕事は休み,久しぶりに家の中で過ごしていたのですが,午前中に嫁が命の体操に出掛けている間に,居間の炬燵テーブルに布団を掛けて,冬支度を行っておりました。
この作業ですが,炬燵布団を掛けるだけなら,簡単に終わるところ,
炬燵テーブルの上に置いた物を移動させ,炬燵も動かして,下敷きに付着したゴミを掃除機で吸い取り,ついでに散らかった部屋の片付けも行い,
嫁が外出している,1時間の間に終わらせたいと,考えながらの作業でもあり,
サプライズな模様替えでしたが,何とか終わらせることが出来たのです。
ところで,我が家の果樹畑の近くには保育園があり,保育士さんが園児を連れて,ベビーカーを押したり,歩かせたりして,散歩している姿を見かける時があるのですが,
その折には,自分はミニバイクに乗って,田畑を往復しており,園児たちの列とすれ違う際には,必ず徐行して子供たちの安全に気を配っており,
世の中では,車での事故について,歩行者や子供が巻き込まれる事故も多いので,いっそう気をつけたいと思ったのでした。
森の息 熊も我らも 分け合ひて
共に生きゆく ひとつの風に
今年の里山では,熊が出没して,人に危害を加えていることから,対策のために,秋田県では,自衛隊の派遣を防衛省に要請したと,テレビのニュースで報じておりました。
今回は,熊のことで,自分なりに考えた一首を認めてみたのですが,
森の息とは,生命や呼吸など,自然との一体感を象徴する表現のようなところ,
里山に出てきた熊については,人に危害を加えることが多く,今年のクマ被害は過去最多を更新しているようで,何とかならないかと考えたことがあり,
この熊対策として,外出するときには,護身用の棒を持つのも,有効な方法の一つではないかと思ったことがあったのです。
ところで,誰でもが知っている事なのでしょうが,冬眠が始まる頃に,何故に熊が里山に出てくるのかは,
里山の奥にあった森林が,伐採や開発によって減り,熊の本来に住むべき場所が狭くなったことで,人里近くまで行動範囲が広がったのが原因のひとつと考えられ,
他にも,気候変動による冬眠の時期のズレとか,異常気象により木の実が減って,人間が育てる農作物や果樹を食べられるという学習行動であり,
熊が里山に出てくるのは,環境の変化・気候のズレ・学習行動など複合的な要因が重なっているのでしょう。
さて,如何なる理由があろうとも,人に危害を加える熊は,駆除しなければならず,共に生きてゆく必要はないのでしょうが,
熊が出てきそうな箇所へ,捕獲用の檻を設置(千カ所にでも)し,里へ下りたら,捕獲されて山へ帰れないと学習させれば,やがては,人里に熊が出てくることが減るのではなかろうかと考えていたのです。
久々に,百姓の寝言となりました。
思い込み 手放す時に 風となり
軽くなる身に 気運めぐりぬ
人生においては,人それぞれに歩む道があり,何を拠り所とするかは,その人次第なのでしょうが,
自分を縛っていた,固定観念や拘りを手放せば,心の中に風が通うような軽やかさが生まれ,気持ちが軽くなるのではなかろうかと考えておりました。
また,物事は,しなやかに受け流すことも大切であり,
無理に手放すのではなく,何気なく「もういいか」と思える瞬間を静かに受入れてみると,
そこに吹いた風が,気運をめぐらせ,自ずと運が開けていくものと思われたのです。
ところで,本日においては,8月20日に受けた特定健康診査の結果であった尿潜血(+3)について,遅くなったのですが,南高井病院の泌尿器科へ通院し,診察を受けたところ,
腎臓コーの結果は,小さな腎嚢胞や,膀胱に結石と,前立腺肥大症(中等度)が見られるも,今のところ治療の必要はなく,
尿検査も,潜血は確認されず,経過観察となったのでした。
この尿潜血については,8月10に高熱で通院した後の,8月20日に特定健康診査を受けた際,確認されたのですが,
自分の判断で,高熱の後だから,尿潜血は,ウイルス感染による一過性の尿路感染症であると思い,様子を見ていたのでした。
こんな経過について,院長に話したら「そんなことも考えられます」と,患者に寄り添うように説明していただき,気持ちが楽になったのでした。
柿の実が 色づく庭に 佇めば
静けさ満ちて こころ癒され
我が家の裏庭では,富有柿の木が3本,しっかりと根づいているのですが,
秋も深まり,薄橙色となった実が,日に日に熟れていく様子を眺めていると,
静けさの漂う庭では,時が止まったかのような静寂があり,
その穏やかな空気に身をゆだねていると,心が癒されるようでもあるのでした。
秋半ば 簾を外し 光入れ
移ろう季節に こころ和らぎ
本日においても,東から強い風が吹いていた一日であり,
午前中は,食料品を購入のためスーパーへ出掛けた後に,畑の様子を見に行き,
午後からは,家の各所に吊るしていた簾を,取り除いておりました。
簾を外し,やわらかな光を部屋に招き入れてみると,
移ろう季節のぬくもりに,心が和み,早速に一首を詠んでみたのですが,
秋の深まりとともに訪れる静けさは,時の流れをゆるやかに感じさせ,
大自然の変化を受け入れることで,心がほどけてゆくようでもありました。
嫁や子を 思いやりつつ 腹立てず
笑顔で暮らす 日々こそ尊し
日々の暮らしの中においては,仕事の重圧や人間関係の摩擦など,心を乱される出来事は少なくないようであり,
家の中でも些細なことから意見が食い違い,思わず言葉を荒げてしまいそうになる時もあります。
しかし,そうした場面で相手を責め立てたり,自分の正しさを貫こうとすれば,心の平穏は遠ざかってしまうような気がするので,
そんな時には,互いの違いを受けとめて,寛容な気持ちで,笑顔を絶やさずに過ごす日々こそ,何よりも大切ではないかと,思われたのです。
ところで,農作業の途中に,政治家が「国民のために汗をかいて働く」との言葉について考えていたのですが,
この汗とは,政策を立て,法案を通すために奔走し,関係各所と調整・交渉して,難題に粘り強く取り組んだり,票を失うような痛みを伴う改革をも引き受けて,権力闘争や批判をも恐れずに信念を貫く姿のようであるところ,
多くの国民は「政治家の汗は見えない」と感じているかも知れず「本当に汗をかいているのか」という不信感を抱いているのかも知れません。
しかしながら,政治家が本当に「汗をかく」と言うなら,それは 「本人の損得を超えて,国民の幸せのために行動する」という意味になるので,言葉だけでなく,その「汗」が見える政治家が増えることを,多くの人が望んでいるのだと思われたのです。
さて,国会では女性総理が誕生し,今後は国会議員の定数削減や,ガソリンの暫定税率の廃止,さらには食料品を2年間に限って消費税の対象から外すといった政策が実現すれば,これまでに成し得なかった大きな改革となるので,その実行力と手腕に,大きな期待が寄せられているのでしょう。
湧き上がる 思ひもよらぬ 言の葉に
時を忘れて 筆は進みぬ
東から吹いてくる強風が,台風の時のように感じられた一日でした。
この強風で,野菜畑の小さなテントを留めていた洗濯ばさみが,何カ所か外れていたので,
強度を増すために,一箇所に洗濯ばさみを2個使い,強風対策をしたり,
畑の畝に生えた,雑草を谷取り鍬で削ったりしていたのですが,
昨日までの暑さが,何処へ消えたのかと思わせるような,凌ぎやすい一日でもありました。
本日の一首は,畑仕事の途中で,20年くらい前に「そよ風のように」との恋愛小説もどきを書いたのを思い出して,あの頃が懐かしくもあり,一文を認めるとは,こんな気持ちなのかと,詠んでみました。
さり気なく 力を抜いて 向き合えば
澄んだ心に 道は開けん
人生においては,さり気なく,力を抜いて,向き合う姿勢は大切であり,
あまりに力んでしまうと,物事の本質や人の気持が霞んで見えず,
自然体でいればこそ,状況を受け入れる柔軟さや,心の余裕が生まれ,
なお,心が澄んでおれば,たとえ苦難があっても,やがて道は開けてくると考えられ,
同じ出来事の中にも「気づき」や「導き」が,見えてくると思われたのです。
また,澄んだ心とは,あるがままを受け止め,焦らず,恨まず,小さな幸せに感謝できる心でもあり,
そうした心で歩んでおれば,苦難さえも「次の道へと導く通過点」となり,結果として道が開けていくのでしょう。