兵を引き 交渉の席に 着いたなら

   誓いも新たに 和の道ひらけ

 

 インターネットからの情報によれば,ウクライナ国内では戦争を長引かせたくないという思いが強い一方で,領土を割譲するのは許さないという意見が根強く,

 

 ロシア側でも,戦争を正当化してきた立場を保とうとする勢力が,妥協を嫌がる可能性があり,

 

 簡単には,戦争終結へとは向かわないのでしょうが,

 

 戦いを止めて,ロシアとウクライナの大統領が,交渉の席に着いて,

 

 領土問題・安全保障・国際法の遵守などを調整しつつ,

 

 外国の仲介・世論の支持などが揃えば,誓いも新たに,戦争終結への鍵になるのではなかろうかと考えていたのです。

 

 豊作で 残った米は 売渡し

   米が足りぬは 不思議な事か

 

 豊作に 売らねば損と 市に売出し

  足らぬと叫ぶは 世の不思議かな

 

 最初の一首は,我が家の米事情であるところ,

 

 実際のところ,我が家では,18アールの水田から,30kg×29袋の収穫(昨年は24袋)があり,

 

 知人に30kg×6袋を66,000円で売り,その代金を,刈り取り・脱穀・乾燥・籾摺りの費用(30kgが2,300円×29=66,700円)に充て,

 

 残りの米は,自給米と親戚にお裾分けして,1年間は,米を買うことなく過ごせそうなのです。

 

 二首目は,近所の農家から聞いた話をもとに詠んでみたのですが,テレビなどでは,相変わらず米の価格が高騰しており,農家にとっては,有り難い話のようであるところ,

 

 米は,農水省を通じて,流通量が厳密に管理され,保管米の量も毎年公表しており,

 

 誰かが,隠蔽や意図的操作を行って,値上がりしているとは思われず,

 

 米そのものが,本当に国内で足りないというよりも,供給の減少(農家減・天候不順)と価格維持の仕組みが,噛み合わず,値段が高くなっているのが実情であるとも考えていたのです。

 

 イマイチのコメントになりましたが,松山地方では,豊作のようでもあり,今の価格が何時まで続くのか,一農夫にとっては,関心を深めているのです。

 

 参考までに,松山市農協では,毎年に営農計画書を,各農家へ提出の依頼をしており,

 これが,全国的に行われているのなら,米の生産量が,ある程度は把握されると思われるのです。

 

 稲穂垂れ 己も腰を 低くして

   天地の恵み 心に染みて

 

 澄み渡る空気が心地よく,秋空の広がる一日でした。

 

 この天気に誘われて,畑仕事をしていのですが,秋に植えるジャガイモの畝を作ったり,ネギの周囲に生えた雑草を鍬で除いていたのですが,

 

 稲刈りは終わったものの,田畑には,次から次へと仕事があるものだと,感心しながらの作業でもありました。

 

 ところで,松山地方では,90%の水田で稲刈りが終わり,残された水田では,稲穂が垂れて,収穫の日を待っているようでもあって,

 

 その様子を見ていたら,「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を思い起こし,本日の一首になったのですが,

 

 何はともあれ,収穫の秋が終わり,天の恵みに心から感謝しているのです。

 

 塵払う ほうきの音に 誘われて

   清めし庭に 心澄みけれ

 

 秋の収穫(稲刈り)を終え,何となくホットしているのですが,気が付けば,仕事は田畑だけでなく,家の中にも残されており,本日においては,自宅倉庫内の片付けを行っていました。

 

 縁台の上や,トップカーの荷台に置いていた,段ボール箱や雨カッパとか,孫が使っていた簡易プールなどを整理整頓すべく,自分が気に入った箇所へ置いて,気持ちもスッキリしたのでした。

 

 本日においては,掃除・片付けの途中で,何となく閃いた一首になったのですが,

 

 仏教や神道の修行では,掃除は単なる雑事ではなく「行(ぎょう)」とされており,たとえば曹洞宗の道元禅師は,食事の用意や掃除など,日常の営みそのものが修行であり,そこに心を尽くすことが悟りへの道だと説いております。

 

 確かに掃除をすると,目に見える埃や汚れを払うと同時に,心の曇りも拭い去るように感じられ,雑念を忘れ,ひとつの動作に集中する「無心」の境地に近づき,

 

 その空間が整うことで,祝詞や般若心経を唱える時に得られる「心の澄みきり」に通じる感覚が訪れるものと思われたのです。

 

 約束を 守りて人の 信を得る

   小さき事も 積もりて絆

 

 絆とは 目に見えざる 糸なれど

   切れずに続く 心のつながり

 

 他人との約束を守ることは,相手に安心感を与え,信頼を築くための基本となるところ,

 

 一度の約束を守っただけで絶対的な「信」を得られるわけではなく,日々の積み重ねが大切であり,小さな約束や言葉を誠実に守り続けることで,長い目で見た「信頼」が築かれていくのでしょう。

 

 また,絆については,人と人との信頼や思いやりによって結ばれ,多少の困難や距離があっても切れずに続く,目に見えぬ糸のようでもあり,

 

 時に見えにくくとも,心と心を結び続ける,不思議な力であると思われるのです。

 

 ところで,静岡県伊東市長の,学歴詐称を端に発した,議会の解散については,約束や絆はおろか,信頼や人情のかけらも感じられず,一農夫がテレビなどで見聞きしていても,違和感があったのですが,

 

 不信任とは議会が市長の判断や政策に対して責任を求める手段であるところ,今回は学歴の虚偽という個人の信用に関わる問題が発端となり,私的な情報に振り回されて,議会と市長の正常な関係が崩れての解散でもあったと言えるのでしょう。

 

 さて,厳しく追及する姿勢は「職責の一部」として正当化できても,やり方や,議論の在り方が市民に「異常」と映った場合は,政治的に不利益を被ることもあり,

 

 議会解散で失職した議員は,選挙で落選すれば,あれほどまで叩かなくても,他に方法があったと,反省するかも知れず,その時には,強い悔悟を迫られるのでしょう。

 

 お台場に 噴水計画 描けども

   後の管理に 重き財布を

 

 テレビのニュースによれば,東京都は,お台場海浜公園に,世界最大級の噴水を設置すべく着工したと報じておりましたが,

 

 整備費用の総額は26億4000万円で,維持管理費は年間1億5000万円から2億円となる見込みであるらしく,

 

 都民の税金から賄われることなく,臨海地域の埋め立て地の売却や,貸し付けによる収入を財源として整備するとも補足していたところ

 

 財源を,大盤振る舞いしよったら「だいば」が出らい。

 

 さて,お台場と「だいば」を掛け合わせて駄洒落にしてみたのですが,「だいば」とはなんじゃろかと振り返ってみれば,

 

 70年くらいの前の話になるのですが,祖母が,めそめそしている小生(孫)に向かって,何時までも泣きよったら,「だいば」が出らい,もう泣かれんぜと言ったのを,思い出していたのですが,

 

 「だいば」とは「鬼」を意味する伊予(愛媛・松山)地方の方言で,子どもを戒めるときに用いられた妖怪や鬼の総称であり,

 

 「泣く子をあやすときの脅し言葉」としても使われていたようです。

 

 さてさて,噴水の霧が,「だいば」に見える事はなかろうが,その霧が風に吹かれて,健康に害が及ばないことを,祈るばかりなのです。

 

 久々に,百姓の寝言になってしまったのですが,実際のところ,都が整備主体であることから,安全装置や水質管理・緊急対応の設計がしっかりと行われ,衛生面・安全面でのリスクは心配ないのでしょう。

 

 お台場に 巨大な噴水 そびえ立ち

   波間に映えて 虹が舞い立ち

 

 この短歌 千回詠めど 物足りぬ

   なお届かざる 思ひありけれ

 

 稲刈りが終わり,ホットしているのですが,今年の稲刈りは,数年前から毎年に依頼している,専業農家のコンバインの調子が悪く,

 

 刈り取った稲穂が,何とか脱穀機の入り口を通ったものの,脱穀したのかスルーして,コンバインカッターで稲穂が切り刻まれたのか不明であるところ,

 

 全体の三分の一の,刈り取りが過ぎて一休みした際に,小生において家に帰り,愛媛井関城南営業所へ電話して,不具合について聞いてみたら,

 

 修正方法を教えてもらい,その通りに(専業農家の人も,コンバインの取り扱い説明書を再確認)したら,コンバインの調子が良くなり,無事に稲刈りを終えたのでした。

 

 ところで,本日の一首についてですが,創作は,続けるほど感性が磨かれ,過去の自分の表現に満足できなくなり,常に「もっと良く出来るのではないか」という思いがつきまとうらしく,

 

 物足りなさは,創作の欠点ではなく,むしろ創作を続ける力の源とも言え,短歌のように,限られた音数で詠むものは,どうしても言い切れぬ余白を残し,全ての気持は届かないところ,

 

 その余白こそ,読み手の心を揺さぶり,共鳴や想像を呼び起こすのだと考えていたのです。

 

 そんなことで,今の気持ちを大切にして,何時まで続けられるか分かりませんが,これまで通りに,続けてみたいと思っているのです。

 

 2025/9/8 AM11:45 追記

 米の収穫量が,気になっていたのですが,18アールの水田から,昨年は30kg×26袋でしたが,今年は30kg×29袋の玄米が穫れて,3袋も多かったので,何はともあれ,安心しているのです。

 

 諺の 岩をも通す 一念は

   夢を叶ふる 力となりぬ

 

 台風が過ぎ去って,秋風が心地よく,空気の澄み渡った一日でした。

 

 水田では,稲刈りを始める頃となったのですが,我が家の田畑は,台風の影響を免れたものの,

 

 稲が倒れている水田を目にすると,自分も同じような稲を刈り取ったときの大変さを思い出しておりました。

 

 我は雑鳥が千回目となり,何を投稿すべきか迷っていたところ,最近は理屈っぽい内容が続いていたので,今回はスッキリとしたものを考えていたのですが,千回まで続けられたので,これらと似た一首を詠んでみました。

 

 「一念岩をも通す」という諺には,強い意志や集中力があれば,大きな障害をも乗り越えられるという意味が込められておるところ,

 

 実際には「念じる」だけで夢が叶うわけではなく,そこから生まれる「持続する力」「行動へ向かう原動力」があってこそ,夢に近づくと考えられているようです。

 

 つまり一念そのものが,夢を叶えるのではなく,一念が,努力を続ける力や工夫する心を生み出すからこそ,結果として夢を叶える力になり,人生訓として今も大切にされているのでしょう。

 

 さて,「夢を叶える 力となりぬ」の箇所は「夢へと続く 道を拓かん」ともしていたのですが,一念があれば,道は必ず拓けてゆくと思われたのです。

 

 念ずれば やがて花咲く 時もある

   願いを込めて 時を過ごすや

 

 以前には,こんな一首を,残しておりました。

 

 正しさを 胸に抱きて 歩む道

   たとえ嵐も 真理を求め

 

 苦しみも 生きてこそ知る 重みなり

   命あればこそ 味わえるもの

 

 正しさを胸に抱くということは,自分なりの信念や倫理観を失わずに生きることであり,他人の評価や世の中の流れに左右されず,心の中心に軸を据える姿勢であると考えられ,

 

 たとえ嵐の中でも,揺るぐことなく,真理を求めるべく,探求を続けて歩む姿勢こそが,生きる力になると思えたのです。

 

 また,苦しみというものは「生きている証」とも言えそうで,重荷のように思える時もあるのでしょうが,

 

 その重み自体が「存在の確かさ」を示しており,命があればこそ,痛みも喜びも味わえるものであると感じられたのです。

 

 秋風が 吹きたる朝も 昼間には

   光まばゆく 青空ひろし

 

 今日から9月となり,早朝は,涼しい風が吹いて,秋が近づきつつあると感じていたところ,

 

 日中は,夏を思わせるような強い日差しが降り注ぎ,陽光が眩しくて,青空が広がる一日でした。

 

 大自然の移ろいは,夏から秋へと,変わりつつあり,松山地方では,黄金色の稲を刈り取る季節となり,

 

 我が家でも,9月7日に,稲刈りを予定しており,明日には落水し,水田の周囲の草を取り除き,当日は,無事に収穫が終わることを,今から願っているのです。