さり気なく 力を抜いて 向き合えば

   澄んだ心に 道は開けん

 

 人生においては,さり気なく,力を抜いて,向き合う姿勢は大切であり,

 

 あまりに力んでしまうと,物事の本質や人の気持が霞んで見えず,

 

 自然体でいればこそ,状況を受け入れる柔軟さや,心の余裕が生まれ,

 

 なお,心が澄んでおれば,たとえ苦難があっても,やがて道は開けてくると考えられ,

 

 同じ出来事の中にも「気づき」や「導き」が,見えてくると思われたのです。

 

 また,澄んだ心とは,あるがままを受け止め,焦らず,恨まず,小さな幸せに感謝できる心でもあり,

 

 そうした心で歩んでおれば,苦難さえも「次の道へと導く通過点」となり,結果として道が開けていくのでしょう。

 

 淡々と 書いて残せし ブログかな

   詠んだ短歌に 感想を添えて

 

 ブログを通じて,日々の出来事などを,綴っているのですが,

 

 日記のように,記録を残したいとか,

 

 忘れたくない瞬間を,記しておきたいとの気持ちにて,

 

 感じたことを短歌にし,感想を添えて,自分の気持ちを整理しておるところ,

 

 ブログは,現代の「ひとりごと日記」でもあり,「心の灯」をともす場であるとも考えていたのです。

 

 知らぬ日々 ブログを読んで 教えられ

   思い出すたび 胸あたたかく

 

 自身が知らない過去のことを,思いがけずにブログで知ったことは,小生だけではなかろうかと思われ,

 

 過去を知ることで,胸が温まる情感を抱けて,単なる「懐古」ではなく,一文に心を動かされることもあり,温かな気持ちが,静かに巡る時もあると思われたのです。

 

 このブログは『明治という国家』司馬遼太郎~子規・秋山好古の家柄について,朝ドラ・「ばけばけ」と時代を同じくする世界を書いており,

 

 小生の身近な人が,秋山好古の子孫(女性)と結婚しており,ブログに書かれている内容を思い出しては,胸が温かくなるのでした。

 

 信念は 心の奥に 仕舞い込み

   平常心で 心騒がず

 

 爽やかな秋空が,広がっていた一日でした。

 

 前回のブログでは,畑仕事が一段落したと書いていたのに,ピーナッツと薩摩芋の収穫は終わっておらず,本日においては,午前中に薩摩芋を掘っていたのですが,あまりの暑さで,午後からの仕事は中止して,残り半分は後日に掘ることにしたのです。

 

 ところで,公明党が,自民党との連立を離脱したことは,創設時の理念に基づく政治姿勢に立ち戻ったように思われ,

 

 公明党は,従来から「清潔な政治」「政治資金の透明化」を党の理念の一つとして掲げ,企業・団体献金の制限や政策活動費の廃止などを主張してきた歴史があり,

 

 今回の離脱については,テレビなどで報道されているとおり,自民・公明の間で政治資金をめぐる温度差や,その他の問題が表面化したことが,背景にあったと思われるのです。

 

 何れにせよ,公明党は1964年の結党時には,「清潔な政治」「平和と福祉の政治」「人間主義の政治」を掲げ,権力や金権政治に流されない庶民の声を代弁する政党を目指してきたので,

 

 連立から離れたのなら,右にも左にも偏らず,福祉・教育・地方支援といった生活者重視の政策を軸に,国民政党としての独自性を発揮すべきなのでしょう。

 

 さて,本日の一首については,信念とは,常に掲げて見せる旗ではなく,時に心の奥に灯しておく灯火のようなものと心得て,自らの芯を静かに保ちつつ,表には柔らかく振る舞うという姿勢は,成熟した生き方であるとも思われたのです。

 

 老後には 穏やかな日々 守るため

   健康第一 質素倹約

 

 台風の影響なのか,東から強い風が,吹いていた一日でした。

 

 本日においては,畑仕事が一段落したので,稲刈りを終えた田にて,燻炭を作るべく,作業を行っていました。

 

 作り方は様々のようですが,自分は刈り取った稲株(5m×5m)を,草刈り機で取り除いた後にレイキで一箇所に集め,

 

 そこへ,軽トラ1杯分の籾殻を山形に置いて,中央に煙突を立てて,適宜な個所へ丸めた新聞紙に火を着けて籾殻を被せ,燻炭作りを始めたのですが,

 

 昨年は,無風状態だったで,翌朝まで火を消すことなく,過ごしたところ,

 

 今日は,籾殻の中まで強風が届くようでしたので,30分に一回くらい,レイキにて攪拌しては,火を全体に行き渡たらせ,

 

 概ね,燻炭が出来た(4時間)頃に,山形の燻炭を平らに広げ,そこえ如雨露にて水を与えて,火を消し,

 

 更に,熱を取るべく,燻炭を混ぜては,如雨露(10ℓ)で水を散布(計7回)し,何とか燻炭が,出来上がったのでした。

 

 本日の一首については,燻炭作りという作業をしていて,何となく閃いたのですが,老後は,健康第一にて,質素倹約に努めておれば,その淡々とした日々にこそ,幸せがあるのだと,改めて気付いた一日でもありました。

 

 畑で咲く 紅コスモスに 印し付け

   種を残して 命つなげり

 

 松山地方では秋祭りの日を迎え,朝から晴れ渡った空の下,氏子たちは心を弾ませ,神輿音頭(三橋美智也・松山秋祭りのテーマソング)が,あちらこちらから聞こえる中,

 

 神輿の進行役の笛の音と,担ぎ夫の掛け声が響き渡り,賑わいに包まれた一日となりました。

 

 ところで,夕方になり畑へ出掛け,気になっていた紅コスモスの種を残すために,茎の適宜な個所に麻紐を結んで(10箇所)いたのですが,

 

 コスモスは,5×30メートルくらいの所に自生しているところ,多くの花はピンク色であるものの,紅色がひときわ目を引き,この紅コスモスの種を採り,来年は要所で咲かせてみたいと思ったのです。

 

 ひと仕事 終えて眺める 西の空

   夕陽に染まり こころ和らぎ

 

 一日の 疲れを背負い 帰る道

   静けさ満ちて 風もやさしく

 

 畑仕事を終えて,西の空を眺めたら夕陽に染まっており,また家路へと向かっていると,何となくですが,夕方の静けさが感じられ,二首を認めてみたところ,

 

 家に帰れば,神仏に一日の報告を行い,焼酎の水割り(中ジョッキ)を一杯飲んでから入浴し,食事をするという日課となっており,

 

 本日においても,何時もと同じ繰り返しではあったのですが,事故なく病気なく過ごせたことは有り難く,自分なりの一日を終えれたことに満足しているのです。

 

 ちなみに,今夜の飲み物は,焼酎琥珀かのか夏みかん割り3杯(中ジョッキ)・秋田乃地酒(にごり酒)1合・プレミアムモルツ350cc1本であり,これらを飲みながらのブログになりました。

 

 木洩れ日の 中にひらりと 葉が舞えば

   静けさ深く 時は流れて

 

 夕暮れに 脚立を下りて 見渡せば

   静けさ宿し 心も澄みぬ

 

 昨日のこと,1年ぶりに庭木の剪定をしたのですが,剪定を始めて気付いたことは,当たり前のことながら,枝が伸び放題となっておりました。

 

 さて,この枝をどのようにして整えるのか,考えながら作業を進めていたところ,最初は,枝々が茂り合い,緑の塊となっていたのを,周りから刈り込んで,ツリーのような形にしたのですが,

 

 キンモクセイの木は,それで似合っていたものの,樫の木は昨年のとおり,雲が浮かんでいるようなスタイルに変更し,その他の木も幹や枝に応じたスタイルで,剪定を終えたのでした。

 

 剪定に使った道具は,電動バリカン・剪定鋏・刈り込み鋏・ノコであり,電動バリカンは,5mm前後の枝なら楽に切れるものの,1cmくらいになると,刃に負荷がかかり,動きが鈍くなったので,刈り込み鋏を使って,枝を整えたのです。

 

 今回は,昨日の剪定作業を思い出しての二首となったのですが,松山地方では10月7日が地方祭なので,家の前を,神輿が通っても,恥ずかしくない程度には,剪定を終えたのでした。

 

 ついでながら,昨日の剪定作業の疲れが出たのか,右首筋から肩にかけて,痛みが出たので,厚手の湿布薬を貼ったのですが,なかなか上手く貼れず,両手で湿布薬の端をつまんで,右肩から背中にかけて何気なく被せたら,偶然にも思った箇所に貼れたのでした。

 

 この動作が,くるりんぱ!と似ていると思い出し,追記したのですが,特に意味は有りません。

 

 朝ドラの 話の中身 大河かな

   記憶の中で 再び息づき

 

 以前に投稿した短歌に,大河ドラマについて詠んでおり,今回は何となくですが,朝ドラが気にかかり,一首としてみたところ,

 

 朝ドラの,げばげばが,どうのこうのと言うのではなく,テレビ画面から伝わってくる時代感みたいなものが,大河ドラマみたいであると思ったのです。

 

 大河では 町人文化 華やかも

   光る君へロス 今も引きずり

 

 華やぎの 大河を観ても なお胸に

   光る君への 余韻離れず

 

 こんな二首でしたが,他にも別の大河ドラマで,一首を詠んでおりました。

 

 いだてんの 主役を食った 講釈師

   ドラマの途中 出ては隠れて

 

 それにしても,今朝の朝ドラの,連れ去りシーンは,ドラマとは言え,何となく違和感があり,時代錯誤も甚だしく,デレクターはデレット見ていたのかも知れぬところ,おしんが子守り奉公に行くときに家族と別れるのとは違い,午後に再放送を見た際には,そのシーンが始まったら,チャンネルを変えたのでした。

 

 さてさて,百姓が寝言を言われんぜと,NHKからお叱りを受けるかも知れぬところ,あのシーンを見て,抗議の電話とか,受信料は払わんぞ,とかの電話があったかは不明ですが,韓国や中国の高齢者が見たら,どんな気持ちになるのかなと,妄想していたのです。

 

 戦争の 大義名分 虚しけれ

  共に歩めば 光満ちたり

 

 青き空 子らの笑顔を 護るため

   争うことより 和を結ぶべし

 

 2023年10月7日にハマスがイスラエル南部を奇襲したことで始まった,イスラエル対ハマスの戦争については,テレビで等で現状が映し出され,

 

 ガザ地区では筆舌に尽くしがたい惨状であり,一日でも早く,この戦争が終結して欲しいと,誰でもが願っておるところ,

 

 ハマスがイスラエルを攻撃したとの大義名分はあるのでしょうが,今となっては何とかならないものかと,一農夫なりに考えていたのでした。

 

 さて,歴史を振り返れば,戦争は「大義名分」を掲げて行われてきたようであり,たとえば「国を守る」「平和のため」「解放のため」といった旗印の下に戦ってきたところ,

 

 その「大義」は,権力者や国家の側が,自らの行動を正当化するための理屈であり,実際には人々の命を奪い,生活を破壊するものであったと思えるのです。

 

 また倫理的・人道的な視点から見ても,戦争は常に「人間の命を奪う行為」であり,そこに本当の意味での「正義」や「大義名分」があるのかどうかは,極めて疑わしく,

 

 国際法や平和思想の観点でも,戦争は違法とされており,イスラエルの「自衛」と拡大解釈しての戦争は,到底認められる行為ではないのでしょう。

 

 人生は 一度きりぞと 生き抜かん

   花咲く未来を 子らに託して