プロムナード -19ページ目

プロムナード

古いこと、新しいこと
いつでも、どこでも
思いつくまま、気の向くまま

 

前回に続き、日暮里・谷中・根津・千駄木の歩き方について紹介する。前回の分はこちらで。

前回: 

日暮里・谷中・根津・千駄木 (1)  - ガイドブックにない歩き方

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-12136095595.html


さて、次は日暮里駅から緩やかな御殿坂を上り、経王寺、延命院を右に見ながら反対側に下ると見えてくる、谷中銀座に続く階段を夕焼けだんだんと呼んでいるが、この名称、平成2年に地元タウン誌「谷根千」の編集者であった森まゆみ氏が命名したと聞く。実際、小生が子供の頃は、単に谷中の階段としか呼んでいなかった。

階段を下りると谷中ぎんざである。昔は谷中銀座と書き、ひらがなではなかったと思う。銀座と言えども距離は僅か200m程度の商店街。だが、休日には大勢の観光客が行き交う。人気の理由は昔ながらの佇まいが郷愁を感じさせるからだと思うが、昔はありふれた商店街で、観光客、特に外国人なんぞ一人もいなかった。ここにある「後藤の飴」とか「武藤書店」、「近藤電気」、「のなかストアー」、古本屋の「淸秋堂」などは、小生が小学校の頃からある商店だ。もちろん、最近になってここに進出した店舗もあるが、大方は古くからある商店がそのまま営業しているか、または品揃えを変えて営業を継続している。

ここでは詳しく述べないが、後藤の飴の近くに、小生が第一日暮里小学校時代だった時のクラスメート、「しーちゃん」と呼んでいた
池波志乃(本名:美濃部志津子)の家があった。当時はクラス替えがなかったために6年間同じクラスだったこともあり、ずいぶん一緒に遊んだものだった。彼女の紹介記事を見ると、「谷中日暮里の下町で育ち、遊んだ」と書いてあるが、小生と全く同じである。

谷中銀座通り沿いには、自転車もすれ違いに苦労する様な路地がたくさんある。ラビリンスなところもあるので迷子にならない程度に入り込んでみよう。この辺りは

 

 

 

山ぎしの鰻

ここで食事を摂ったあとは、今来た道を戻りながら谷中銀座へは戻らず、そのまま歩いた左側にある

 

 

谷中珈琲

この夜店通り、今は暗渠となっているがその下に

 

 

 

 

 

へび道

この蛇行は守谷歯科医院のところで終わり、その後はまっすぐな道となる。この辺りの看板を見ると、「藍染町会」とか、「Village藍染」とか、藍染と言う名前がやたら出てくるのに気付く。

この辺りに、

 

 

大名時計博物館
 

この博物館は岡山県勝山藩の下屋敷跡に設立されたもので、入り口が屋敷の木戸門になっている。大名時計というのは江戸時代お抱えの御時計師達が手造りで製作した時計のことで、工芸品としても貴重な時計であるが、ここにはそうした時計が陳列されている。驚くべきは、そうしたなかで今でも可動する時計があることだ。時計の原理に忠実な歯車など当時の技術に驚嘆するのみならず、そのメインテナンス性についても感銘を受ける。

ここを見学し、宗善寺入り口まで戻ったら左に曲がる。右へいくと先ほどのねんねこ家がある三浦坂だ。左に曲がって突き当たりを右に行くと、三叉路に正面に大きな木が見える。地元でパワースポットといわれ、観光客も写真を撮りに来る

 

 

 

 

 

ヒマラヤ杉

このヒマラヤ杉、なんと最初はこの横にあるみかどパンの前身だった甘味処の主人が所有していた鉢植えが、90年の年月を経て高さ20mの大木に成長したものだそうだ。その佇まい、確かにパワースポットとして遜色はない。

ここを通り過ぎたら、突き当たりを右に進むと
言問(こととい)通りに出る。出たら左折し、通りを緩やかに昇ってカヤバ珈琲に面した上野桜木の交差点を渡ると、左に下谷風俗資料館付属展示場と言う建物が見える。ここは江戸時代から代々酒屋を営んでいた

 

 

 

 

 

 

芋坂


この芋坂は、夏目漱石、正岡子規、田山花袋の作品にも出てくる坂で、今は電車線路の壁で切り崩されているが、明治時代には坂のまま線路の反対側の東日暮里へ降りていた。現在は坂の途中からJR各線の線路の跨線橋を経て日暮里駅東口への道につながっている。この辺りは、「日暮里・谷中・根津・千駄木 (1)」で紹介した下御隠殿陸橋を降りた辺り、即ち谷中から見て日暮里駅の反対側となる。この跨線橋の下に日暮里名物

 

 

羽二重団子


ここで体力を復活させたら、再び芋坂を戻り、先ほどの言問通りにある上野桜木二丁目の交差点を目指す。道程については現地にある案内図を参照して欲しい。桜木二丁目まで着いたら言問通りを渡り、そのまま進むと寛永寺の通用門となる。そこから正面から見る

 

寛永寺

さすが徳川家の寺、規模がでかい。

ここでゆっくりして、上野へ向かおう。
東京藝術大学を経て上野公園。この辺りはガイドブックに紹介があるのでここでは省く。ただし、特記しておきたいのは京成電鉄の廃駅

 

京成電鉄、旧博物館動物園前駅

ここを経て

 

 


この後は、体力があれば不忍池を散策してアメ横へ行ってもよし。そしてそのままアキバへ行ってもよし。

 

 

東京は広い。


巷で東京都台東区及び文京区の谷中・根津・千駄木を散策するツアーが流行っている様だが、ツアーの入り口は荒川区の西日暮里駅と日暮里駅だ。日暮里には寺が多くあって、お彼岸の頃になると大袈裟ではなく、街中で線香の香りがする。

この界隈は小生が生まれ育ったところで、現在も実家があるところだ。そのせいか、「谷中辺りを散策したいので、紹介しろ」という依頼をあちこちから貰う。そこで、日暮里育ちの小生がガイドブックに書かれていないコアなスポットも含め、偏見による「谷根千及び日暮里の一筆書き巡り散歩道」を紹介しよう。

名は土地を表わす。谷中は、読んで字の如く「谷の中」にある。


現在の風景を見る限り、この地に谷というイメージは全く沸かないが、他にある「谷」という字が付く土地、例えば渋谷、雑司が谷、千駄ヶ谷などと同様に、谷中の街は地理的に谷の真ん中にある。いきなりガイドブック的な記述から離れるが、谷中界隈の歴史を理解するために、 それを説明しておこう。

関東平野を巨視的に見ると、東京には大きな河川である荒川と多摩川に挟まれた地域に武蔵野台地という台地が存在する。この台地は、かつてそのすぐ東側に存在していた奥東京湾で海に接していた。今から6000年前の縄文時代後期のことである。海との接点は赤羽から田端、日暮里を経て上野に至る上野台地であり、武蔵野台地の東縁だ。赤羽の赤羽台、日暮里の諏訪台などはこの上野台地の一部につけられた名称で、王子駅付近にある飛鳥山もこの上野台地の一部である。即ち、現在のJR京浜東北線が走っている辺りは縄文時代の海岸線であったことを意味する。赤羽から続くこの海岸線は、そのまま田端、日暮里を経て上野の不忍池まで続いていた。これについては、次のページに詳細を記述してある。

 

 

縄文時代の海岸線を走る京浜東北線  -本郷台地と奥東京湾

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11994060805.html

この上野台地と、その西側に横たわる本郷台地との間には谷が形成されている。周知の如く、水は高いところから低いところに流れる。 たとえ標高が高くても、相対的に周辺よりも低ければ、水はそこに集まり谷が出来る。谷中の地もそうだ。それが名前の由来である。

とはいえ、この地に立ってみても何処にも川なんぞないのだが、実は後で紹介する夜店通りと言う商店街の下に藍染川という川が流れているのだ。藍染川に就いては次のページで詳細を紹介してあるが、現在石神井公園付近を水源としている石神井川は、縄文時代には今の夜店通りを通って上野にある恩賜公園不忍池へと注いでいたのである。

その後、王子付近で海による侵食の結果、
台地が決壊したために河川争奪(海の波による侵食で河川の流路が突然変わること)が生じ、石神井川は上野方面への流路を遮断して台地横にある奥東京湾へ流れるという短絡路を形成した。その結果、川は石神井公園ではなく巣鴨にある池沼に水源を変えた。いきおい、流量は大幅に減り、川は広い河川敷の真ん中を流れる様になったのだが、川の近傍では大雨になると水害が頻繁に発生した。そこで明治時代から大正12年にかけてこの川を暗渠化し、現代に至った。それが藍染川の歴史である。そういう変遷を理解しておくと散策も違った楽しみも出来るので、是非目を通して頂きたい。

 

 

 

 

谷根千、日暮里、上野を流れていた藍染川(その1) -藍染川の生い立ち

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11935005041.html

 

 

 

 

谷根千、日暮里、上野を流れていた藍染川(その2) -藍染川の流路

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11935219750.html

 

 

 

 

谷根千、日暮里、上野を流れていた藍染川(その3) -藍染川排水路

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11935229968.html

予備知識はそれくらいにして、散歩に出かけよう。

まずは山手線、京浜東北線の西日暮里駅で下車。
江戸時代、日暮里は遠くに日光や筑波、富士山を望む、田園風景が広がる景勝地で眺望絶佳な土地だったという。実際、小生の小学校校歌には、富士山も筑波山も出てくる。この地が風光明媚な地で、一日いても飽きないということから「ひぐらしのさと」と呼んでいたのが日暮里という名前の由来だそうだ。

西日暮里駅を降りて改札を出ると、出口はガード下となる。出て左に行くと直ぐに信号がある。ここにある交番を正面にして左折すると上り坂が見える。この坂を間の坂という。小生が高校生の頃まで日暮里駅の隣は田端駅で、西日暮里駅はなかった。今の西日暮里駅付近は子供たちが草野球できる広場だった。記憶が定かではないが、その広場の横が間の坂だった。 一方通行のこの坂はかなりの急勾配で、しかも途中で右に90度曲がる。小生の小学校の同級生がこの坂を自転車で下り、そのまま自動車道(道潅山通り)に飛び出して交通事故に遭ったことがあった。それ以前にも事故は耐えなかったらしい。それゆえかもしれないが、別名、魔の坂とも呼ばれていた。

 

 

 

 

 

 

 


西日暮里公園(旧加賀前田藩墓地)

 

 

 

 

坂を登ると右が西日暮里公園となる。この公園のある所は、明治7年(1874年)にこの一帯が旧加賀藩の前田家に売却されて墓地となり、その後昭和48年(1974年)に西日暮里公園として開設されたところだ。開設以前は草木が好き勝手に生えた雑木林で、蛇やトカゲが棲息しているウィルダネスな地域だった。小生の小学校クラスメートの家族がその管理をしていたため、当然小生等ワルガキどもの遊び場でもあった。 2Bという火薬の玩具を使って、忍者ごっこだのなんだのと、危ない遊びをした。昆虫採集など、この土地だけで十分出来た。 木登りもここで習得したものだった。

この公園を端まで行くと、眼下に道潅山通りが見える高い切通しになっているのが見える。小生の故祖父は、幼少の頃にこの切通が出来たと言っていた。つまり、この切通は明治時代後期に造られたものだ。

この辺りは上野台地のうち、最も幅が狭い台地となっている特異な地点である。公園の端で、その地形がよく観察できる。縄文時代後期の温暖気候の頃、ここから向かって左の低地には藍染川が流れ、右の低地は海だった。次の写真は西日暮里駅から見える上野台地の切通だが、
上野辺りでは台地の幅が数100メートルあるのに対し、ここでは写真の様に数10メートルしかなく、、これほど台地の幅が狭い場所はここだけだ。写真の中で右に見えるのは西日暮里駅のホームである。

 

 

 

 

 

 

 

 

道潅山通りの切通

 


間の坂を登りきると、右が高村光太郎出身の第一日暮里小学校、左が諏方神社。小生等は諏方神社を「オスワサマ」と呼んだ。諏方の綴りは、諏訪ではなく「諏方」だ。ガイドブックなどでも間違っているのを散見する。

 

 

 


諏方神社

 

 

 


この諏方神社は毎年夏になるとお祭りで賑わう。小生が子供の頃には、祭りの期間中、この境内で見世物小屋がオープンし、蛇女とか蜘蛛少女などが見世物だった。

一方、この諏方神社周辺は、江戸時代の特産物、谷中ショウガの産地だったのだが、今はもう栽培はされていない。

諏方神社を参拝し、諏方台通りを先に進むと右に下り坂が見える。富士見坂だ。都内に富士見坂と言う名称の坂は幾つかあるが、近年まで東京で唯一富士山の見える坂はここだけだったのだ。

下の写真は、富士見坂の上で小生が写した5年前と現在の写真だ。よく見ると、富士山が見えるはずの位置に大きなマンションが立っているのが分かる。

 

 

 

 

 

 

 

 

富士見坂
 

 

 

 

この様にマンションが建った現在では、富士山は見えなくなってしまったのだが、実はすきま富士というのがある。タカハシハウス3と諏訪ヴァンベールビルという建物ののわずか数十センチの隙間から見えるらしい。小生はまだ確認したことがないが、この様に見えるという。

 

 

 

 

 


すきま富士

 


ここを過ぎると、右手に長屋が見える。空襲で焼け残った長屋だ。郷愁漂う佇まいとなっている。

 

 

 

 

 

 

 


長屋

 


その先は信号のない交差点だ。交差点の左に経王寺(きょうおうじ)の入り口がある。経王寺の山門には、幕末の頃に寺が彰義隊をかくまったとして官軍によって打ち込まれたという弾痕が今でも残っている。

 

 

 

 

 


経王寺の山門(銃弾跡)

 

 
それと、電気技術に関わる人であれば気付く様に、この寺の屋根には避雷針がある。

 

 
経王寺
 

 

 

 

 

 

日暮里谷中界隈には80に及ぶ寺があるが、避雷針がある寺は珍しい。小生知る限り、他にはない。ここに避雷針がある理由、それは小生が小学生の頃、この寺に落雷があったことだろう。落雷直後、ここの屋根に大きな穴が開いたことを良く覚えている。その後、穴は修復されたが、長いこと屋根の色が二色になっていた。但し、現在は総ての瓦が新調されているので落雷跡を見ることはできない。

 

 

交差点の右は延命院だ。この境内には東京都の天然記念物として指定されている樹齢600年という椎の木がある。高さは16m、幹の太さは5mだったというが、平成14年に幹の内部が朽ち、枝が崩れてしまったために、今では当時の原型は保っていないのだが、力強く行き続けている姿は必見だ。

 

 


延命院の椎の木
 

 

 

 

さて、陸と海の堺目と云ったこの付近の地形を理解するために、とりあえずここで日暮里駅まで行ってみよう。
この辺りを地形的にいうと、経王寺及び延命院が立っている辺りが諏訪台の尾根の上となっており、延命院を出て右に曲がると谷中銀座に下る夕焼けだんだん、左が御殿坂を下る日暮里駅への道となる。因みに御殿坂の別名は乞食坂と呼ぶ。江戸時代、坂の上には寺が並び、富士山を望む盛り場で墓参りの人や観光客がたくさん来たが、それを目当てとする乞食が坂の下にいたためにそういう俗称があったそうだ。この乞食坂の中間地点が今の日暮里駅付近となる。

経王寺の前の御殿坂を下ると日暮里駅となるが、駅には入らず下御影殿坂橋を渡る途中で左を見てみよう。眼下にはおびただしい数の線路が見える。橋の中ほどにトレインミュージアムがある。ミュージアムと言う名前が付いているが建物はなく、バルコニーになっていて、トレインウォッチングが出来る場所のことだ。左から京浜東北線、山手線、宇都宮線、高崎線、東北、上越、北陸、(北海道)新幹線、常磐線、京成電鉄、そして舎人ライナーの各線路が見える。車両基地ではないにも拘わらずこれだけの線路が見えるところはここしかないので、休日ともなれば親子連れや鉄ちゃん、鉄子さん等がカメラを構えてお目当ての列車が通るのを待っている。朝夕の時間帯には、どれかの線路上を電車が走っているのを見ることが出来る。

 

 

 


下御隠殿陸橋トレインミュージアムから

 

 

 


この橋から左に見える線路脇に横たわる切通りを見る。これが上野台地の東縁だ。線路の反対側には台地は存在せず、もしも建物が何もなかったとすれば、隅田川を経てそのはるか先に東京湾が見えるはずだ。縄文時代後期の温暖気候の頃には海水面は今より高かったために、現在線路がある辺りは東京湾(奥東京湾という)の海岸線だった。橋の上で佇むと、今は行き交う列車の音しか聴こえないが、いにしえの時代の海の波の音を聞いてみよう。

ここから御殿坂を上って戻る途中に、小生が子供の頃から営業している谷中せんべいがある。手焼きで美味いので土産に良い。なにしろ軽いので、その後の散歩でも負担にならない。

 

 


谷中せんべい

 

 

 


日暮里駅から先の経王寺まで戻る。 経王寺と延命院は坂の頂点、 即ち諏訪台地の尾根上にあることになる。この延命院の直ぐ下ある夕焼けだんだん近くで、明治21年 に約3500年前の縄文時代後期延命院貝塚という貝塚が発見された。尾根の東側、即ち日暮里駅付近は上野台地の東縁でその先は奥東京湾の海岸線であったため、海産物は豊富に取れたことだろう。その後の昭和62年の調査では、ハマグリなどの貝や猪、鹿などの骨や石器がおよそ1mも積み重なった層が発見されたという。ただし、その遺は、残念ながら現在は保存されていないようだ。

夕焼だんだんは後で通るとして、ここでは先に通った諏訪神社や長屋からの道をそのまま進むとしよう。日暮里駅から行くのであれば、交差点を左折する。すると直ぐの左側に初音小路という場末感満載な呑み屋街が見える。

 

 


初音小路
 

 

 

 

 

 

そこを過ぎると、左に朝倉彫塑館がある。この建物の上を見ると壁の上に人が見える。彫像だ。月明かりある時にこの彫像を見上げると、建物の上から身を乗り出す人物に見えるため、かつては何度も「投身自殺しようとしている人がいる」と通報があったそうだ。

 

 


麻倉彫塑館

 


ここを過ぎて右へ行くと観音寺築地塀が見える。土と瓦を交互に積み重ねて作った土塀に屋根瓦をふいたもので、江戸時代に造られたものだという。人通りがなければタイムスリップ出来そうな背景だ。

 

 


観音寺築地塀

 

 

 


そのまま先へ進むと、右に折れる蛍坂がある。今は何の変哲もない坂だが、小生が高校の頃までは雑草が生い茂る坂だった。名前の由来は、この下にある宗林寺が江戸時代の頃には蛍の名所だったことによるという。

坂を下りて右に進むと、トイレ休憩が可能な岡倉天心記念公園がある。そこで少し休み、再び道なりに進むと賑やかな交差点に出る。

その手前にある坂を右に登ると左に「おぢさん」と言う名前の質屋の看板が見える。おじさんじゃなく、「おぢさん」だ。

 

 


質屋「おぢさん」
 

 

 

 

小生が子供の頃には、「ちょっとおぢさんのところに行ってくるよ、と言えばなんでもないじゃないですか」と言うキャッチーなコピーが売り物だった質屋だった。現代の様に堂々と借金することが出来ない時代、行き先を誤魔化しながらそうっと借りに行く姿を想像し、子供心ながら質屋へ行くということは勇気がいることなんだと思った。それに、「ぢ」と言う文字が印象的だっだ。

質流れの品がガラス越しに見える。昨今リサイクルショップはたくさんあるが、質屋というのはあまり見かけなくなった気がする。 「このガラスは割れません」みたいなことが書いてあるのが、この商売の大変さを物語る。

そこを過ぎ左にUターンすると、ドラマなどでロケ地として出て来る「夕焼けだんだん」だ。

------ 続く 
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古くからの友人が子供の頃、肥溜めに落ちたことがあるという話を聞いて、そう云えば最近は肥溜めという施設を見ることがないことに気付いた。

現在の拙宅の近くに、他の埼玉県南部を流れる川の例に漏れず緩く流れる幅数メートルの川がある。


鯉がゆったりと泳ぐその川は、沼にちかい。近年知ったことなのだが、この川は江戸時代、船を使って 「江戸の人民が製造した下肥」を運び上げ、「下肥によって生産された野菜」を江戸に運ぶという重要な水路だったそうだ。近年、有機栽培とかオーガニック食材の話題になることが多いが、下肥によって生産される野菜作りは、それらの原点だろう。

江戸時代に確立されたリサイクルのスキームには、驚くばかりである。

足立区にある足立郷土博物館にはこの下肥による堆肥製造システムがきちんと説明されていることを知り、早速行ってみた。 説明によると、都内に於ける下肥によるリサイクルは江戸時代から昭和30年ごろまであったという。 平坦な耕地に集落が点在する東京の農村では、堆肥を作るための草をとる山林がないのでもっぱら江戸東京から排出されれる人糞尿を下肥として使用した。江戸東京近郊は土地が平坦なために運搬が容易であったことや船による輸送が可能だったことから、下肥を豊富に使えたことによって農業は栄えたそうだ。拙宅近くの川もその一つだろう。

肥溜めに就いて、こういう詳細な説明がある博物館は他に例を見ない。素晴らしいことだと思う。

写真は足立郷土博物館で展示されている肥溜模型である。小生の記憶はもっと単純に溜まっていてこんなきれいなものではなかったが、これが正当な肥溜めなのだろう。


この様な下肥をプールする設備が肥溜めで、東京近辺では絶滅して久しいが、当時の子供たちにとっては近寄るなと言われれば言われるほど行きたくなるミステリースポットでもあった。小生は東京生まれ育ちだったので、身近に肥溜めはなかったが、それがあるところに行くと、わざわざ見に行ったりしたものだった。防空壕の様な洞穴や、下水道、などと同様に子供たちの格好の遊び場でもあったのだが、秘密めいた場所、それが子供が肥溜めに落ちる理由の一つだったのだろうと思う。

それはともかく、下肥は正しく堆肥化させれば 究極のオーガニック栽培の肥料だ。プロセスとしては、肥溜めで高温発酵させることによって寄生虫、その卵や病原菌を死滅させ、堆肥化させるというものだが、このプロセスによって悪臭も消えるという。

現在の生産工程を見るに、自然界に存在しない様な化学肥料を用いたり、他の生物が死滅する様な劇毒薬を用いて生産された食材なんぞ、人類にとって如何なものかと思う。それより、素性のはっきりした下肥の方がよっぽどましだ。もちろん、当初は抵抗もあるだろう。なにせ、人糞なのだから。しかしいずれは高価値な肥料として認められる様になり、ブランドものとなるかもしれない。そこで今からネーミングを考えてみた。

オーガニック野菜「人糞育ち」
オーガニック米で醸造した「人糞誉」
オーガニックで育ったフルーツ「人糞娘」

アイデアは尽きない。
物品の製造に当たり、品質問題はその殆どが人的ミスであり、人が介在するがために品質劣化が生じるのは古今東西、同様だ。それまでの失敗や失策から生まれた画期的なプロセスが確立されても、必ず不良品が出る。もちろん、それは確率の世界として世の中100%という状況はありえないから当然なのだが、少なくとも100%を阻んでいる原因の一つは、我々人間が介在していることなのだ。

そこでロボットである。

ロボットの導入はこうした品質問題の改善はもとより、コストダウンも可能とさせる。職人技という人間ならではの手法、これをロボットにやらせるのは無理、というのは感覚的なもので、逆に出来ないという理由はない。さすがに向こう数年でハイヒールを履いたまま階段を駆け下りる二足歩行のロボットとか、新体操を演じるロボットは現れないとは思うものの、永遠に出来ないという理由はないからいずれ出来るはずだ。

さて、このロボット、産業用として製造現場では以前から導入されており今日に至っているが、ロボットの定義がはっきりしていないため、或る意味アームが自動で動けばロボットだといっても過言でない。一方、昨今話題となっているGoogle Carの様な自動運転車両、これが事態に応じて人間の形に変身すれば子供でも分かるロボットなのだが、自動運転車も実はロボットである。


それと、最近は本当に人間の形に類似した、いわゆるロボット人の開発も進んできている。このロボットには以前ここでも紹介したアンドロイド系のフレンドリーなロボットもあるが、それとは異なり、災害現場などで活躍させるロボットの開発が急ピッチで進んでいるという。聞くところによると、二足歩行型が出来れば人間と同様に瓦礫の上をバランスを取りながら歩いたり登ったりすることが可能になるので、階段の乗降、ドアの開け閉め、そういった人間であれば普通にできる行動がロボットにも可能になるというわけだ。
これらを司るためには各種センサーが必要となるが、とりわけ「見て判断し、行動を決める」ためのリモートセンサーが重要となる。

これを担うのがカメラ、ミリ波レーダー、そしてLiDARという三種の神器だ。

LiDAR(ライダー)という言葉、聴きなれていない人も多いと思うが、簡単に言えばレーザーを用いたレーダーのことで、レーザー測距に用いられる技術をレーダーに展開したものだ。これは通常のマイクロ波レーダーが用いる周波数帯域よりもずっと高い光線の帯域を用いるので、測距精度は桁違いに高くなり、人類が目で見るのと同じ程度の精度で識別させることが可能になる。自動運転車両の場合、人通りのある混雑した街をすり抜ける場合や車庫入れなど数センチオーダーの読みが必須となるが、これを読み出すことはマイクロ波やミリ波領域ではなく、レーザー領域でないと不可能だ。

しかし、レーザーは飽くまでも光なので、例えば薄い布切れなどで遮蔽されると反射されてしまい、その先は読めない。また災害時などに、炎が上がるとその後ろに人がいるかどうかなどは識別が出来ない。そういうことが可能なのはミリ波のレーダーだ。ミリ波は電波帯域でも周波数帯域が高いので、高精度なレーダーが構築でき、くだんの炎の裏まで読み出すことが出来る。但しミリ波は大気中の酸素分子に吸収減衰してしまうという特性があるため、長距離の測距が困難。よって、このミリ波レーダーとLiDARを組み合わせれば鬼に金棒となるのだ。そして最後はカメラ。レーダーやLiDARが捉えたものは一体何なのか。それをカメラで捉えて認識させ、次の行動を決定する。この様なロボットに与えられた使命を全うするためにはこれらのセンシング技術が相乗して補完し合い、更に安全性を鑑みて冗長性を持たせることが必要だ。

人間が余計なことをするから品質劣化が起きる。だから省人化させよう。省人、英語ではSaving Peopleというらしい。その考えは、それはそれで正しいとは思うものの、なんとなく後ろめたい気もする。しかし、災害救助活動などは省人化を進めるべきだろうと思う。ミリ波やカメラは既に商品化が進んでいて様々な製品が出ている。今後、LiDARが色々な場面で活躍していくだろう。


LiDARの最大の課題は精度だ。それをあげるには単位時間当たりのレーザーパルスの発射数をあげることだ。そのためには高速スイッチング技術が必要となる。その分野の革新的な技術開発が期待されている。

もうすぐ東日本大震災から5年となる。あの時、自分は何処で何をしていたか。そんなことはどうでもいい。そのあと「何をしたか」。それが重要だ。

「アイドルとして何かできることがあるだろうか?

AKB48による被災地訪問はそういう問いかけから始まり、震災2ヶ月後の5月22日、指原莉乃、篠田麻里子、大島優子、柏木由紀、松井玲奈(SKE48)、山本彩(NMB48)が訪れた岩手県大槌町での被災地訪問を皮切りとし、今年1月の福島県南相馬市での藤田奈那、向井地美音、茂木忍、川本紗矢、込山榛香、高橋朱里による57回目の訪問まで、月一度の訪問プロジェクト「誰かのために」としてずっと継続している。実は被災地訪問に先立つ同年3月26日、27日のコンサートを急遽チャリティイベントに変えて実施したのが、その後5年続く訪問活動の最初であったという。

芸能人による被災地救援チャリティ活動はあちこちで開催されたが、5年後の今もなお定期的に継続しているという例は他にはない。

当初は試行錯誤でのミニコンサートだったそうだが、今では現地に到着して5分でセッティングが完了し、コンサートが開始できるほどになったという。

写真は、岩波ジュニア新書「AKB48、被災地へ行く」という本。被災地を目の当たりにして言葉を失い、しかし、きちんと向き合うことを心に決めて苦労や挫折感を克服していく姿勢は、読み手の涙を誘う。「元気をあげようとして訪問するんですけど、訪問先々でいつも逆に励まされてしまうんです」と語る彼女たちの言葉には大変な重みがある。


立派なことだ。 世にはそれを偽善と言う輩もいると聞くが、実際の活動内容を見聞すればそういうことを言う人は少なくなる。被災地の子供たちへのプレゼントを運ぶ車が故障した時に、地元のパトカーがプレゼントを代行で運んでくれた話など、エピソードはつきない。そう、総てはメンバーやスタッフたちが多忙なスケジュールを切り裂いて睡眠時間を削ってずっと継続させているのだ。

初回のメンバーは、前述の様なすさまじい牽引力のあるキャストだったが、そのスピリッツはその後も若手にしっかりと伝達されている。

とにかく行動をおこす。そして継続させる。

口先だけの、どこぞの政治家にも見習って欲しいと本気で思う。もちろん、その行動を支援する大人たちがいるからこそ、活動が出来るのは事実ではあるが、大人たちを奮い立たせたのは彼女たちなのだ。「最悪なのは、行動を起こし失敗することよりも失敗を恐れて行動しないことだ」と秋元康氏は語る。、売名行為といわれようがなんだろうが、健気に活動し続ける彼女たちをこれからも応援したい。

あの後、自分は何をしたか。ほんの二回だけ、AKB48の日赤義捐金にラウンドBまで募金を行なっただけだ。それ以上はしていない。

今年こそ何かしようと考えている。

2月も中旬になると、巷では毎年恒例の「バレンタインチョコ売らんかな決戦」が展開される。この慣習、菓子メーカーが仕掛けたものだとか諸説あるが、一般的にチョコレートの製造については「カカオから作られている」という程度しか知られていないと思う。この時期、手作りチョコレートがさかんに宣伝されているが、それはそれ、ここではもっと硬派に「植物としてのカカオからのチョコレート製造」についてまとめておく。

カカオの実

チョコレートの主要原料であるカカオは高温高湿の熱帯雨林にのみ棲息するアオイ科の常緑樹で、乾燥や強い日差しに弱く、幼木の時にはバナナなどの木の下の日陰で育つ植物だ。育つ地域は具体的にいうと北緯・南緯20度以内の海抜30-300m、年間平均気温が27℃以上で気温差がなく年間降雨量が1000m以上という、相当に特殊な環境の地域である。北緯・南緯20度以内といえば赤道直下付近なので日差しは極めて強い地域であるが、そこの日陰というところがミソだ。

カカオの花は幹生花(幹に直接花をつける植物)で、地面に近い低位置に咲く。低位置に咲くという理由は、サルやネズミなどの地上で活動する哺乳動物が食べやすいところに実がなることによって種子がばら撒かれるという、いわゆる「淘汰の結果」と考えられている。

カカオのルーツとしては、DNAデータ分析の結果、中央アメリカ熱帯雨林説が有力となっているが、飲み物として飲まれれるようになったのは紀元前2000年ぐらいのマヤ文明時代。チョコレートという形になったのは19世紀にオランダでココアパウダーが作られてからだ。現在の様な固形チョコレートの形となったのは、1847年にイギリスで作られたのが最初と言われている。

1本のカカオの木には年間一万個の花が咲くものもあるが、果実になるのはそのうちの5%程度で、平均すると20~50個程度である。カカオの果実は写真の様に幹や枝に直接ぶら下がるように付く。重さは250gから大きいものは1kgぐらいになり、実の構成は硬い外皮と粘液質の果実、それに包まれた20粒から50粒のカカオ豆からなる。

カカオと同様に熱帯で育つ植物としてコーヒーがあるが、カカオの評価はコーヒーと同様に「香り」「苦味」「酸味」そして「渋味」だ。これらは育つ環境の違い、即ち地域によって異なる。それもコーヒーと同様である。

エクアドル産:  ジャスミン系の香りと苦渋みがある
ブラジル産:   ドライでウッディー、スパイスの様な香りがあり、苦渋みがある
ガーナ産:    苦渋みと香ばしさのバランスのよいスタンダードテイストである
ベネズエラ産: 程よい渋味とナッツの様な香ばしさがある
ドミニカ産:   ローストナッツの様な焙煎香と濃厚なコク、バランスの良い苦渋味と酸味がある
ペルー産:   華やかな花の様な香り、酸味のコクの或る味わいがある


生産地はコートジボアール、ガーナ、ナイジェリア等の西アフリカ、東南アジア及び中南米が中心だが、西アフリカが世界のカカオ生産量の3分の2を占める。生産量の上位として知られている三国はコートジボアール、ガーナ、そしてインドネシアだが、上記にあるxx産というカテゴリ名称の中では産地別の国名がガーナのみという事には、或る種の事情が見え隠れする様だ。

チョコレートの主要物質はカカオからできるカカオバター、カカオマス、砂糖、脱脂粉乳、及び香料で、チョコレートの製造はカカオの実の中から白い果実に包まれた種を取り出し後、バナナの葉などで包み込んで一週間程度かけて発酵させ、次いで更に一週間ぐらい天日干して出来上がった生豆を発酵させることから始める。

発酵は良質な菌によって糖分が分解することからだ。因みに腐敗とは「たんぱく質が菌で分解されること」で、発酵は「糖分が分解されること」である。

カカオの発酵プロセスはカカオ豆が種子の果肉が外気に晒されることでフィトフトラ菌によって発酵が進み、アルコールへと変化した後に好気性酢酸菌の作用で酢酸へと変化、その間に温度が上昇することによる変化過程でチョコレートの味や香りの元となる物質が生成され、酸化によって苦味や渋みを除去される。相当に複雑なプロセスだ。

発酵したカカオ豆

この過程によって発酵させたカカオ豆を、低温で30分から40分程度焙煎する。焙煎後のカカオには50-55%の油脂(カカオバター)が含まれる。これを微粉末に磨砕し粒子を分散させて湯せんなどで加熱すると、カカオ豆に含まれる油脂によってしっとりと混ざってくる。これを冷やすと固形化し、濃厚で苦味のあるカカオマスとなる。このカカオマスを暖めて液状化し、圧搾した油脂がカカオバターで、絞り残ったものがココアパウダーだ。

これらに混合する脱脂粉乳は牛乳から水分を蒸発させたものであるが、小生等が小学生だった給食の定番の飲み物だ。
その後、温度調整を行ないながらカカオバターの結晶を安定化させて成型させる。成型後は温度及び湿度を調整しながら数週間程度保存し、熟成させて完成となる。

この美味さを知ったのは人類が極く僅かな香りの相違や花の色を認識できることにあると思う。チョコレートに至る生成過程はある意味、偶然の賜物でもあるのだが、しかし、長い時間をかけて現在に至ったというところも興味深い。

折りしも2月12日付け読売新聞朝刊に「小笠原村の母島で栽培されたカカオを使ったチョコレートが完成した」という記事があった。


母島は北緯26度。上に書いた様にカカオの原産地は北緯・南緯20度までだが、ほぼ近いということで挑戦したというが、10年かけて成功したそうだ。記事によると、今年は500本のカカオの木から500kgのカカオ豆が収穫できる見通しだという。日本、しかも東京産のチョコレート、楽しみだ。


てなことを知った上で、さてバレンタインデーとなる。


コストダウンが品質ダウンへとエスカレートするのは、或る意味アタリマエであり、「価格破壊が品質破壊となる」と警鐘が鳴らされたのはずいぶん前の事だったのだが、なしのつぶてのまま品質破壊は小物製品だけでなく建造物の様な大きなものに至るまで起きている。最近でも手抜き工事のマンションやトンネル事故などが問題となったが、手抜き理由はコスト削減であることは自明だ。この問題、資本主義のもつ膿の様なものだが避けて通ることは出来ず、いきおい、各メーカーには如何にして品質ダウンを軽微とさせるかという手腕が問われている。

そうしたなか、品質ダウンが災いとなる起きてはならない事件、人命を預かる旅行バスで事故が実際に発生している。

貸し切りバス、聞くところによると免許制から許可制へと変わったことで新規参入が急激に増加し、1999年に2336社だった業種数が、15年後には4500社を超えるまで増えたという。規制緩和というのは両刃の刃で、自由競争となることによって選択肢が増え、一般消費者が各社を比較検討して自分の意思で選べるようになった反面、プライスリーダーとして君臨するには何かしらを犠牲にせざるを得ず、バス事故の場合、その矛先がこともあろうにバス運転手の品質管理の手抜きということに至ったということなのだろう。これは由々しき事態だ。

最近、日本へは海外からの旅行者が増えてきている。買い物が目的だろうが観光が目的だろうが、とにかく日本へ旅行に来ている。狭い土地ではあれど、日本にはそういう旅行者に楽しんでもらえるところがたくさんある。東京秋葉原辺りを見ると買い物に来る外国人を乗せたバスがいつも鈴なりになっている様に、日本経済を支える一つが、今やそうした外国からの旅行客であることは間違いないのだ。

秋葉原電気街に乗り付ける買い物ツアーのバス

彼らをもてなす受け入れ側の対応についてはここで紹介した。国からの指導など全くあてにせず、企業が自ら受け入れ体制を整えている。

日本は観光資源大国
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11990260261.html

それに比べ、旅行におけるインフラの一つである「足」の整備、あれこれとハードウェアばかりで、運用という意味でのソフトウェアはまるで次元が低い。もしも外国人観光客を乗せた観光バスが転落死亡事故でも起こしたらいったいどのようなことになってしまうのか、想像するだけでも恐ろしい。

小生、昔から駅などで外国人観光客を見かけるたびに彼らの旅行中の好天と、楽しい思い出だけが残る楽しい旅行となって無事に帰国することを祈るのだが、その時の足であるバスの安全性や信頼性については十分に安定なものにしてほしいと切に願う。
政府は規制緩和をした以上は責任を持って品質規制を管理し、旅行会社は低コストには理由があることを十分に訴求し、安いという事よりも安全で快適ということを「売り」とすべく、商品説明を行うべきだと考える。
CO2を生成しない再生可能エネルギーとしてよく知られている太陽電池、厳密に言うと太陽電池パネルを製造する上で多くのCO2を排出しているのでペイバック的に問題はあるものの、完成してからエネルギーを生成する上ではCO2や有害な公害物質は排出しないし、なんといってもメカニカルパーツが少ないので経年に伴うメインテナンスコストは大幅に少なく、静かにエネルギーを生み出す優等生として知られている。小生も、一時期このシステムに使われるインバータ(国内ではパワーコンディショナーと呼んでいる)の技術に携わっていたことがあるので、太陽電池に対する思い入れもひとしおだ。

太陽電池発電所

しかし、このシステム、人里離れた草木も育たぬ、例えば砂漠の様なところに設置されるのであればいざしらず、我国の様な土地での運用では、施工時のみならず運用時に於いてもずいぶんと問題が発生しているのだという。その最たるものが、緑地を乱獲して太陽電池を敷き詰めるという「人災」だそうだ。

この太陽電池、計算上で云うとゴビ砂漠に太陽電池を敷き詰めれば地上におけるすべてのエネルギーが賄えるという。そういう計算に基づき、予てより研究が行われているジェネシス計画、即ち世界中の砂漠の一部にメガソーラーを設置し、それらを超電導ケーブルで連系することで世界各国に対してエネルギーを安定的に供給しようという大構想であるが、こういう遠大な計画の遂行には幾多の難題がつきものとは言え、人類のみならず地球救済として大変興味深い。

ただし、これらの設置は、飽くまでも利権問題が起きない、自然破壊を伴わないという大前提が必要だ。

我国におけるメガソーラーを見ると、特に近年設置されたメガソーラーは、エネルギーを生成するというより金を生成する機械として稼働しているというイメージが強い気がする。もちろん、そもそも太陽電池産業というのは環境に優しいとかそんなキレイごとを言う前に金融ビジネスなのだから投資モノではあるのだが、自然を破壊してまでというのは如何なものか。

写真はある地域に建設中メガソーラーのGoogel Earthによる写真。施工に先立つ説明会では原野への設置とのことだったそうだが、この写真を見る限り、原野とはいえ施工時には近隣の森林を伐採して設置したと見て差し支えないだろう。実はここ、国内でも有数の高原観光地の一部でもあり、森林散策などを求めてやってくる観光客にとって、森林の中に忽然と現れる無機質な金属光沢を放つ、まるで宇宙基地の様な景観は、太陽電池システムに携わる人やそれに興味を持つ人以外には、さぞかし異様に感じられることだろうと思う。

メガソーラー建設に伴う自然破壊

一方、この様な自然環境問題のほか、民家に近いところに設置された場合にはパネルの反射光が住宅の窓に差し込んで難儀しているケースもあるという。報道では、設置業者がそのようなことを鑑みて設置角度を変えるなりパネルの向きを変えれば良い、というコメントをしていたが、それはナンセンスだ。なぜなら、太陽電池パネルの向きと傾斜角は、エネルギー生成効率と極めて密接に関係があり、計算された値から僅かでもずれると、たちどころに生成される電力が減ってしまうのだ。

図の様に、太陽電池は太陽に真向いに設置させる必要がある。もちろん太陽への仰角は刻々と変わるからその中でも太陽光を最大限に受光できる様に設置しなくてはならない。そのために太陽光パネルが太陽に対して物理的に動いて追尾するシステムもある。それだけ角度は重要なのだ。したがってパネル設置角度は全く譲れない値なのである。


これは太陽電池設置の大原則であるため、パネルからの反射光の方向にある民家は、それこそ泣き寝入りするしかないのが現状らしく、あとから発電所が建設された場合など、住む側にとっては迷惑な問題だろう。

こういう問題の解決には法整備が必要だろう。逆に言えば法規制がはっきりとしないうちにどんどんと設置が進んでしまった結果だだといえる。要は、やってみて初めて分かったというところかもしれない。

裁判を行なうにしても、法としての規則もなければ前例もないとなれば、裁判官の匙加減に委ねられるということになる。裁判官が自然に対してあまり興味なければそれなりの判断となるだろうし、窓から差し込む反射光にしても気にならないタイプの裁判官であれば、これまたそれなりの判断となるだろう。小生は法曹界とは無縁なのでこういう場合の対処方法は全く理解していないのだが、被裁判側が裁判官の嗜好や性癖を考慮した上で裁判官を選べるといった様な権利がないと、当たり外れがでそうだ。

日照権などは昔からある問題なので多くの判例があると思うが、この様な新しい技術の導入時には様々な問題が併発することは想像に難くないし、判例もがないゆえに判断に画一性が出ないだろうことも想像できる。起こりうる総てを事前にシミュレートすることは不可能ではあるが、判断を裁判だけに委ねてはいけないという気はする。

 


以前、埼玉県で出土する縄文時代の石器から神津島の黒曜石を用いた矢じりが発掘されていることを知り、はたして本州から神津島が見えるのかどうか、神津島に近いと思われる伊豆半島の山と神津島の山、それに地球の曲率半径及び空気による屈折率を合わせて計算してみた結果として「本州から神津島は見える」と結論した。

 

 

黒曜石を求めて海を渡った旧石器人 - 本州から神津島が見えたか?

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-12033634353.html

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 


 

 

 

その後、いずれ伊豆半島の山に行って、それが本当かどうか確かめてみたいものだと思っていたのだが、昨年末に伊東にある大室山に行く機会があり、登ってみたら、

計算どおり本当に神津島が見えた。これは感動的だった。

それがこの写真だ。

 

 

 

大室山山頂からの伊豆諸島の眺望


計算では、半島にある最高峰、標高1405mである万三郎岳の山頂から神津島が見えるかどうかを計算したものだが、大室山はそれよりもずっと低い山であるにも拘わらず、そこからでも神津島は見えたのだ。

大室山というのは、伊豆東部火山群 にある約4000年前に噴火したスコリア丘(火口から噴き上がったマグマのスコリアが円錐を呈する丘) を形成する標高580mの単成 火山である。かつて一度だけ噴火したことがある火山であり、大変綺麗な円錐形を呈した観光地で、山頂までふもとからリフトで簡単に登頂できる。

 

 


大室山全景

 

 

 

 

 

大室山風景


この山では毎年山焼きが行なわれるので、植生としては一年生の植物で覆われたものとなっており、見通しは抜群に良い。それゆえ山頂、いや山頂に限らずどこからの景色も大変眺望が良いので、富士山や南アルプスなどの山々はもとろん、天候に恵まれればこの様に伊豆七島の神津島も見えるのだ。

遠い昔、縄文人、更にその昔の旧石器人たちは遠く離れた神津島の黒曜石を求めて船を出したという。もちろん、当時はこの大室山はまだ噴火していなかったかもしれないので、大室山から見通したということではないだろうけれども、とにかく伊豆半島にあるどこからか、こうやって神津島を見て、そこに何があるのか探りに行ったというわけだ。そのバイタリティ、凄すぎて今更ながら驚くのみである。

山に佇み、遥か彼方に見える島を眺めながら、旧石器人や縄文人たちの探検心とシンクロしてみるのも、大変楽しい。

 

 

 

 

 

 

 

毎年年末になると、一年を総括する重大ニュース的な番組がテレビの特別番組として放映される。昨年2015年の年末にも放映があった。

たいていの場合、これらの番組は録画するものの、リアルタイムには見ない。というか、年末の忙しい時に放映されるから見れないといった方が正しいのだが、とにかく録画だけは行い、ライブラリとして保管している。実際、手元にはVHSレコーダを購入した1982年以来、昨年までのおよそ35年分のニュース映像がある。

もちろんこの手のニュースビデオは様々な出版社から歴史シリーズなどとして販売されている様だが、発売する時代背景によって報道内容が取捨選択されていたり、或いはビデオ編集時に趣旨が恣意的に歪められている可能性などがあり、必ずしも当時の放映をそのまま収録して商品化されているわけではなさそうだ。

その点、手元にあるビデオは放映のまま。これは本当に貴重なデータである。また、民放番組の録画であれば、コマーシャルもそのまま収録されている。これもある意味貴重な資料でもある。出版社からオフィシャルに販売されているニュースビデオにはコマーシャルは入っていない。

さて、今年、年も明けて少し落ち着いたので、久しぶりに古いニュースを見ることにした。たまたま手に取ったのは2006年、つまり今からちょうど10年前のニュースだ。

見始めてみると、報道内容が情けなくなるほど今と変わりがないことに気付く。2006年ニュースの冒頭は、北朝鮮による核実験報道とそれに対する各国の対応策。そしてその次のニュースは子供同士のいじめによる自殺問題。


一方、今年、2016年冒頭のニュースは北朝鮮の水爆実験と、それに対する近隣諸国や欧米からの非難声明や今後の対処方法。そしていじめ起因による子供たちの自殺報道。

10年経っても、結局そんなものなのか。何の変わりもないのだ。2006年のニュースを見ていても、まるで2016年の今日のニュースの様にさえ見える。

その勢いで今度は今から30年前、1986年のビデオを見てみた。この年はチェルノブイリ事故があった年だ。

その中では、チェルノブイリ事故報道に関連して、それに先立つこと7年前のスリーマイル事故の話も出てくる。そしてビデオにはスリーマイル事故以降ずっと植物の変化を観察している女性学者が登場する。彼女が紹介するもの、それは葉の大きさが70cmもあるタンポポなど、いわゆる奇形植物なのだ。この現象について、あえて放射能の影響だとは断定してないものの、流れはそれである。


実はこの植物の奇形については、福島原発事故のあと、ツイッターの様なSNSでは話題になることもある様だが、公共放送では報道されていない。一方、スリーマイル近郊で発見された奇形植物問題については、1986年に公共放送で放映されていた。つまりこの問題は、当時の日本にとってはある意味対岸の火事的であったし、今日の日本の様に放射能に対して神経質ではなかったためにそのまま放映したのではないか。

しかし、福島原発事故が起きてしまった今日の日本では、例えば今年、ある番組で1986年のニュースを放映することになったとした場合、1986年に全国放送されたスリーマイル近郊で発見された奇形植物問題のビデオについて、その因果関係は未だ科学的に立証されていないとしてその記録のまま放映することはないだろうと思うのだ。

そう考えると、こうやってニュースを録画しておくことはその時代背景を研究する上でも役に立ちそうだ。

しかも、民放を録画した場合には当時のCMも録画されており、それを見るのも興味深い。