巷で東京都台東区及び文京区の谷中・根津・千駄木を散策するツアーが流行っている様だが、ツアーの入り口は荒川区の西日暮里駅と日暮里駅だ。日暮里には寺が多くあって、お彼岸の頃になると大袈裟ではなく、街中で線香の香りがする。
この界隈は小生が生まれ育ったところで、現在も実家があるところだ。そのせいか、「谷中辺りを散策したいので、紹介しろ」という依頼をあちこちから貰う。そこで、日暮里育ちの小生がガイドブックに書かれていないコアなスポットも含め、偏見による「谷根千及び日暮里の一筆書き巡り散歩道」を紹介しよう。
名は土地を表わす。谷中は、読んで字の如く「谷の中」にある。
現在の風景を見る限り、この地に谷というイメージは全く沸かないが、他にある「谷」という字が付く土地、例えば渋谷、雑司が谷、千駄ヶ谷などと同様に、谷中の街は地理的に谷の真ん中にある。いきなりガイドブック的な記述から離れるが、谷中界隈の歴史を理解するために、 それを説明しておこう。
関東平野を巨視的に見ると、東京には大きな河川である荒川と多摩川に挟まれた地域に武蔵野台地という台地が存在する。この台地は、かつてそのすぐ東側に存在していた奥東京湾で海に接していた。今から6000年前の縄文時代後期のことである。海との接点は赤羽から田端、日暮里を経て上野に至る上野台地であり、武蔵野台地の東縁だ。赤羽の赤羽台、日暮里の諏訪台などはこの上野台地の一部につけられた名称で、王子駅付近にある飛鳥山もこの上野台地の一部である。即ち、現在のJR京浜東北線が走っている辺りは縄文時代の海岸線であったことを意味する。赤羽から続くこの海岸線は、そのまま田端、日暮里を経て上野の不忍池まで続いていた。これについては、次のページに詳細を記述してある。
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11994060805.html
この上野台地と、その西側に横たわる本郷台地との間には谷が形成されている。周知の如く、水は高いところから低いところに流れる。 たとえ標高が高くても、相対的に周辺よりも低ければ、水はそこに集まり谷が出来る。谷中の地もそうだ。それが名前の由来である。
とはいえ、この地に立ってみても何処にも川なんぞないのだが、実は後で紹介する夜店通りと言う商店街の下に藍染川という川が流れているのだ。藍染川に就いては次のページで詳細を紹介してあるが、現在石神井公園付近を水源としている石神井川は、縄文時代には今の夜店通りを通って上野にある恩賜公園不忍池へと注いでいたのである。
その後、王子付近で海による侵食の結果、台地が決壊したために河川争奪(海の波による侵食で河川の流路が突然変わること)が生じ、石神井川は上野方面への流路を遮断して台地横にある奥東京湾へ流れるという短絡路を形成した。その結果、川は石神井公園ではなく巣鴨にある池沼に水源を変えた。いきおい、流量は大幅に減り、川は広い河川敷の真ん中を流れる様になったのだが、川の近傍では大雨になると水害が頻繁に発生した。そこで明治時代から大正12年にかけてこの川を暗渠化し、現代に至った。それが藍染川の歴史である。そういう変遷を理解しておくと散策も違った楽しみも出来るので、是非目を通して頂きたい。
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11935005041.html
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11935219750.html
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11935229968.html
予備知識はそれくらいにして、散歩に出かけよう。
まずは山手線、京浜東北線の西日暮里駅で下車。江戸時代、日暮里は遠くに日光や筑波、富士山を望む、田園風景が広がる景勝地で眺望絶佳な土地だったという。実際、小生の小学校校歌には、富士山も筑波山も出てくる。この地が風光明媚な地で、一日いても飽きないということから「ひぐらしのさと」と呼んでいたのが日暮里という名前の由来だそうだ。
西日暮里駅を降りて改札を出ると、出口はガード下となる。出て左に行くと直ぐに信号がある。ここにある交番を正面にして左折すると上り坂が見える。この坂を間の坂という。小生が高校生の頃まで日暮里駅の隣は田端駅で、西日暮里駅はなかった。今の西日暮里駅付近は子供たちが草野球できる広場だった。記憶が定かではないが、その広場の横が間の坂だった。 一方通行のこの坂はかなりの急勾配で、しかも途中で右に90度曲がる。小生の小学校の同級生がこの坂を自転車で下り、そのまま自動車道(道潅山通り)に飛び出して交通事故に遭ったことがあった。それ以前にも事故は耐えなかったらしい。それゆえかもしれないが、別名、魔の坂とも呼ばれていた。
西日暮里公園(旧加賀前田藩墓地)
坂を登ると右が西日暮里公園となる。この公園のある所は、明治7年(1874年)にこの一帯が旧加賀藩の前田家に売却されて墓地となり、その後昭和48年(1974年)に西日暮里公園として開設されたところだ。開設以前は草木が好き勝手に生えた雑木林で、蛇やトカゲが棲息しているウィルダネスな地域だった。小生の小学校クラスメートの家族がその管理をしていたため、当然小生等ワルガキどもの遊び場でもあった。 2Bという火薬の玩具を使って、忍者ごっこだのなんだのと、危ない遊びをした。昆虫採集など、この土地だけで十分出来た。 木登りもここで習得したものだった。
この公園を端まで行くと、眼下に道潅山通りが見える高い切通しになっているのが見える。小生の故祖父は、幼少の頃にこの切通が出来たと言っていた。つまり、この切通は明治時代後期に造られたものだ。
この辺りは上野台地のうち、最も幅が狭い台地となっている特異な地点である。公園の端で、その地形がよく観察できる。縄文時代後期の温暖気候の頃、ここから向かって左の低地には藍染川が流れ、右の低地は海だった。次の写真は西日暮里駅から見える上野台地の切通だが、上野辺りでは台地の幅が数100メートルあるのに対し、ここでは写真の様に数10メートルしかなく、、これほど台地の幅が狭い場所はここだけだ。写真の中で右に見えるのは西日暮里駅のホームである。

道潅山通りの切通
間の坂を登りきると、右が高村光太郎出身の第一日暮里小学校、左が諏方神社。小生等は諏方神社を「オスワサマ」と呼んだ。諏方の綴りは、諏訪ではなく「諏方」だ。ガイドブックなどでも間違っているのを散見する。

諏方神社
この諏方神社は毎年夏になるとお祭りで賑わう。小生が子供の頃には、祭りの期間中、この境内で見世物小屋がオープンし、蛇女とか蜘蛛少女などが見世物だった。
一方、この諏方神社周辺は、江戸時代の特産物、谷中ショウガの産地だったのだが、今はもう栽培はされていない。
諏方神社を参拝し、諏方台通りを先に進むと右に下り坂が見える。富士見坂だ。都内に富士見坂と言う名称の坂は幾つかあるが、近年まで東京で唯一富士山の見える坂はここだけだったのだ。
下の写真は、富士見坂の上で小生が写した5年前と現在の写真だ。よく見ると、富士山が見えるはずの位置に大きなマンションが立っているのが分かる。

富士見坂
この様にマンションが建った現在では、富士山は見えなくなってしまったのだが、実はすきま富士というのがある。タカハシハウス3と諏訪ヴァンベールビルという建物ののわずか数十センチの隙間から見えるらしい。小生はまだ確認したことがないが、この様に見えるという。

すきま富士
ここを過ぎると、右手に長屋が見える。空襲で焼け残った長屋だ。郷愁漂う佇まいとなっている。

長屋
その先は信号のない交差点だ。交差点の左に経王寺(きょうおうじ)の入り口がある。経王寺の山門には、幕末の頃に寺が彰義隊をかくまったとして官軍によって打ち込まれたという弾痕が今でも残っている。

経王寺の山門(銃弾跡)
それと、電気技術に関わる人であれば気付く様に、この寺の屋根には避雷針がある。

経王寺
日暮里谷中界隈には80に及ぶ寺があるが、避雷針がある寺は珍しい。小生知る限り、他にはない。ここに避雷針がある理由、それは小生が小学生の頃、この寺に落雷があったことだろう。落雷直後、ここの屋根に大きな穴が開いたことを良く覚えている。その後、穴は修復されたが、長いこと屋根の色が二色になっていた。但し、現在は総ての瓦が新調されているので落雷跡を見ることはできない。
交差点の右は延命院だ。この境内には東京都の天然記念物として指定されている樹齢600年という椎の木がある。高さは16m、幹の太さは5mだったというが、平成14年に幹の内部が朽ち、枝が崩れてしまったために、今では当時の原型は保っていないのだが、力強く行き続けている姿は必見だ。

延命院の椎の木
さて、陸と海の堺目と云ったこの付近の地形を理解するために、とりあえずここで日暮里駅まで行ってみよう。
この辺りを地形的にいうと、経王寺及び延命院が立っている辺りが諏訪台の尾根の上となっており、延命院を出て右に曲がると谷中銀座に下る夕焼けだんだん、左が御殿坂を下る日暮里駅への道となる。因みに御殿坂の別名は乞食坂と呼ぶ。江戸時代、坂の上には寺が並び、富士山を望む盛り場で墓参りの人や観光客がたくさん来たが、それを目当てとする乞食が坂の下にいたためにそういう俗称があったそうだ。この乞食坂の中間地点が今の日暮里駅付近となる。
経王寺の前の御殿坂を下ると日暮里駅となるが、駅には入らず下御影殿坂橋を渡る途中で左を見てみよう。眼下にはおびただしい数の線路が見える。橋の中ほどにトレインミュージアムがある。ミュージアムと言う名前が付いているが建物はなく、バルコニーになっていて、トレインウォッチングが出来る場所のことだ。左から京浜東北線、山手線、宇都宮線、高崎線、東北、上越、北陸、(北海道)新幹線、常磐線、京成電鉄、そして舎人ライナーの各線路が見える。車両基地ではないにも拘わらずこれだけの線路が見えるところはここしかないので、休日ともなれば親子連れや鉄ちゃん、鉄子さん等がカメラを構えてお目当ての列車が通るのを待っている。朝夕の時間帯には、どれかの線路上を電車が走っているのを見ることが出来る。

下御隠殿陸橋トレインミュージアムから
この橋から左に見える線路脇に横たわる切通りを見る。これが上野台地の東縁だ。線路の反対側には台地は存在せず、もしも建物が何もなかったとすれば、隅田川を経てそのはるか先に東京湾が見えるはずだ。縄文時代後期の温暖気候の頃には海水面は今より高かったために、現在線路がある辺りは東京湾(奥東京湾という)の海岸線だった。橋の上で佇むと、今は行き交う列車の音しか聴こえないが、いにしえの時代の海の波の音を聞いてみよう。
ここから御殿坂を上って戻る途中に、小生が子供の頃から営業している谷中せんべいがある。手焼きで美味いので土産に良い。なにしろ軽いので、その後の散歩でも負担にならない。

谷中せんべい
日暮里駅から先の経王寺まで戻る。 経王寺と延命院は坂の頂点、 即ち諏訪台地の尾根上にあることになる。この延命院の直ぐ下ある夕焼けだんだん近くで、明治21年 に約3500年前の縄文時代後期延命院貝塚という貝塚が発見された。尾根の東側、即ち日暮里駅付近は上野台地の東縁でその先は奥東京湾の海岸線であったため、海産物は豊富に取れたことだろう。その後の昭和62年の調査では、ハマグリなどの貝や猪、鹿などの骨や石器がおよそ1mも積み重なった層が発見されたという。ただし、その遺は、残念ながら現在は保存されていないようだ。
夕焼だんだんは後で通るとして、ここでは先に通った諏訪神社や長屋からの道をそのまま進むとしよう。日暮里駅から行くのであれば、交差点を左折する。すると直ぐの左側に初音小路という場末感満載な呑み屋街が見える。

初音小路
そこを過ぎると、左に朝倉彫塑館がある。この建物の上を見ると壁の上に人が見える。彫像だ。月明かりある時にこの彫像を見上げると、建物の上から身を乗り出す人物に見えるため、かつては何度も「投身自殺しようとしている人がいる」と通報があったそうだ。

麻倉彫塑館
ここを過ぎて右へ行くと観音寺築地塀が見える。土と瓦を交互に積み重ねて作った土塀に屋根瓦をふいたもので、江戸時代に造られたものだという。人通りがなければタイムスリップ出来そうな背景だ。

観音寺築地塀
そのまま先へ進むと、右に折れる蛍坂がある。今は何の変哲もない坂だが、小生が高校の頃までは雑草が生い茂る坂だった。名前の由来は、この下にある宗林寺が江戸時代の頃には蛍の名所だったことによるという。
坂を下りて右に進むと、トイレ休憩が可能な岡倉天心記念公園がある。そこで少し休み、再び道なりに進むと賑やかな交差点に出る。
その手前にある坂を右に登ると左に「おぢさん」と言う名前の質屋の看板が見える。おじさんじゃなく、「おぢさん」だ。

質屋「おぢさん」
小生が子供の頃には、「ちょっとおぢさんのところに行ってくるよ、と言えばなんでもないじゃないですか」と言うキャッチーなコピーが売り物だった質屋だった。現代の様に堂々と借金することが出来ない時代、行き先を誤魔化しながらそうっと借りに行く姿を想像し、子供心ながら質屋へ行くということは勇気がいることなんだと思った。それに、「ぢ」と言う文字が印象的だっだ。
質流れの品がガラス越しに見える。昨今リサイクルショップはたくさんあるが、質屋というのはあまり見かけなくなった気がする。 「このガラスは割れません」みたいなことが書いてあるのが、この商売の大変さを物語る。
そこを過ぎ左にUターンすると、ドラマなどでロケ地として出て来る「夕焼けだんだん」だ。
------ 続く ------