かつて、東京下町の日暮里~谷根千経由で不忍池に注いでいた藍染川に就いて、平成26年(2014年)にメモとしてまとめたが、国土交通省国土地理院による「くらしと測量・地図」展にて掲示されていた資料や、新たに北区図書館などから新たな情報を得ることが出来たので、それを資料とした考察を記しておこう。
この古地図は、(株)こちずライブラリが2015年に発行した地図で、江戸時代の古地図に現在の交通網、即ちJRや地下鉄、主要幹線道路を追記した英語版の「新旧織り交ぜ」の「From Edo to Tokyo, Illustrated map of Edo」という地図である。これは現在の位置との関係が直観的に理解出来て大変便利なものだ。
筆者は、2014年のメモで石神井川と藍染川の関係に就いて、次の様に整理した。
以前のメモ:
谷根千、日暮里、上野を流れていた藍染川(その1) -藍染川の生い立ち
谷根千、日暮里、上野を流れていた藍染川(その2) -藍染川の流路
谷根千、日暮里、上野を流れていた藍染川(その3) -藍染川排水路
ここでは、次の様に述べた。
1.かつて藍染川の水源は石神井川だった
2.約6000年前に起きた有楽町海進によって崖端侵食が生じ、河川争奪が起きて石神井川の流路が変更された
3.石神井川流路変更に伴い、藍染川の水源は長池周辺の湧水となった
4.長池周辺の湧水が水源である状況は江戸時代末期まで続いたが、開墾によって水源が枯渇し、長池は埋め立てられた
5.一方、藍染川は現代で言うところの一級河川でもあったため、水源を必要としたので石神井川へ水源を求めた(ここが仮説である)
6.以降、水源は再び石神井川となった
7.その後、藍染川は暗渠化され、今日に至る
「From Edo to Tokyo, Illustrated map of Edo」によると、江戸時代、石神井川と藍染川は一つの川として記載されている。この川をオリジナル原図と筆者が強調して加筆した図を並べて記載する。この図では、明らかに石神井川がそのまま上野の不忍池へと注いでいる様子が描かれている。つまり、上記仮説という部分は事実の様だ。
結果、江戸時代には長池水源と石神井川水源という二つの水源の地図が存在していたことになる。
但し、江戸時代の地図出稿年が不明なのだが。
From Edo to Tokyo, Illustrated map of Edoの原図
原図に筆者が川及び地名を追記
前回、掲載した江戸時代の地図を示す。これは1856年の出稿とある。
この様に、同じ江戸時代に二つの水源が記載されている。
「くらしと測量・地図」展に展示されていた「1:50,000デジタル標高地形図 東京」の説明書きによると、
「1:50,000デジタル標高地形図 東京」
「石神井川は小平市の窪地を水源にして、武蔵野台地を東に流れ台地東端の飛鳥山の北で台地を切って低地に下り、隅田川に合流する川です。現在は、大地を切る部分で飛鳥山の下をトンネルで通過するよう改修され、旧河道の渓谷音無親水公園になっています。
谷田川は飛鳥山の南方を源に台地を蛇行し、上野の不忍池を通って隅田川に合流する河川でした。現在、表流河川はありません。
石神井川と谷田川は谷底の幅(200~300m)や台地面との比高差(5~8m)などがほぼ同じで、かつては一続きでした。谷田川の流路は旧石神井川とも呼びます。石神井川が流れる方向を変えた原因は、河川自信の営力によるものなのか、あるいは人為的な河道の改変なのかは興味深いものです。河川自信の営力によるものであれば、洪水の時に川谷壁を破って低地にくだったのか、或いは、低地の方から台地に向かって小さく力の強い河川が伸びてきて石神井川の上流を奪い取ったのかもしれません。谷壁を人為的に削ったのでしたら、旧石神井川の出口、上野付近の洪水を防ぐためだったのでしょう。あるいは飛鳥山の下の低地に灌漑水路が必要だったのかもしれません。」
とある。
ここで上述した石神井川の流路変遷を再検討してみよう。考察を赤文字で示す。
1.かつて藍染川の水源は石神井川だった
2.約6000年前に起きた有楽町海進によって崖端侵食が生じ、河川争奪が起きて石神井川の流路が変更された
本郷大地の地質は土質なので脆弱であるとはいえ、この浸食は少なくとも数千年というスパンで行われたもので、次に示すデジタル標高地形図で見ると、河川周辺に於ける浸食の痕跡は明らかである。今日の様に建造物や鉄道、道路が縦横無尽に通っていると、ミクロ的な高低差は判り難いが、このような地図では明確に認識することが可能だ。
3.石神井川流路変更に伴い、藍染川の水源は長池周辺の湧水となった
これは、縄文前期BC4000年頃の事と推測される。
4.長池周辺の湧水が水源である状況は江戸時代末期まで続いたが、開墾によって水源が枯渇し、長池は埋め立てられた
縄文前期から江戸時代まで、藍染川の水源は湧水であり、いきおい、水量はかなり少なかったと考えられ、付近が開墾されてからは、ほぼ枯川となっていた。
5.一方、藍染川は現代で言うところの一級河川でもあったため、水源を必要としたので石神井川へ水源を求めた(ここが仮説である)
江戸時代の農業政策は、文字通り人海戦術を用いて完備するという工事で、江戸の街を保つために多くの土木工事が行われた。その一環として現在の駒込、田端~上野辺りの田畑への配水を目的とし、石神井川の流路を縄文時代前期以前の流路、即ち藍染川へと変更した。
6.以降、水源は再び石神井川となった
7.その後、藍染川は暗渠化され、今日に至る
江戸時代から明治時代頃、現在の根津辺りでは藍染川の氾濫という水害が頻繁に発生した。先に示したデジタルマップの藍染川河川敷を見ても明かな様に、かなりの平たん部があり、水害は広範囲に及んだことが推察される。これを防ぎながら、なおかつ農業用水として一定の水量を保つべく、石神井川は隅田川への流路と分岐されて少量の水流が藍染川となった。これによって水害は減ったが、明治時代以降、水量が少ないが故に水質が悪化、不衛生になったために暗渠化された。
まとめ:
文献、北区史によると、戦前、地形学者の東木龍七は、石神井川が東へと注ぐ理由は、「崖端浸食の小流によって今の王子の所で水流を東へ奪はれたためである」と解釈し、戦後にも、同じ地形学者であった貝塚爽平も「石神井川は、かつては王子付近より谷田川に続いており、ここには谷端川ともう一つ、東南に流れる河川があった」と述べている。
河川が共に東南方向に流れる理由に就いて、豊島台から本郷台への地形の変化と、本郷台が北西から南東へと傾斜していることにあるとしているが、当時の地形図で読み解くのはかなり難しいものの、前述した現代のデジタル標高地形図でみれば、微妙な高低差を極めて明確に認識できる。
これらの仮説を裏付ける様に、東京都土木技術研究所は、現在の王子以東の石神井川の下には埋没谷が存在しないことや、泥炭層が現在の下流部にはなく、谷田川の河谷にみられることを解明、泥炭は流れが淀む箇所で形成されることから、谷田川は河川争奪の結果として流速が緩んだと考えた。この河川争奪の年代に就いてはC14放射性炭素年代測定によって7400年前とした。この値は、地球温暖化に伴う縄文海進(有楽町海進)が6000年前とされることとは、様々な理由に基づく誤差の結果、若干の齟齬があるようだが、いずれにせよ後氷期の海進であったと推測されている。現代では、東京大学総合博物館で公開している様なAMSを用いたC14の直接的な年代測定が可能となっているので、新たに年代を測定することも興味深い。これらを時系列に並べてみる。これが現在の推測である。
BC4000年(6000千年前)以前:
石神井川は王子付近で本郷台地を切り裂く様に東南方向へ流路を変え、谷田川を経て上野の不忍池へ流れ込んでいた。その間の間氷期、温暖化に伴って縄文海進(有楽町海進)が進み、東京湾が関東平野へ切り込んで奥東京湾が形成され、王子付近は海岸線となった。
BC4000年頃:
海岸浸食が進み、台地が削られて河川争奪が発生し、大地を破って石神井川は決壊し、荒川(現在の隅田川)へと流れるようになった。これに伴い、谷田川の水源は現在の巣鴨にある長池辺りの湧水となったが水量が少ないために流速は穏やかであり、谷田川河床には泥炭が形成された。この流路は江戸時代まで続いた。
江戸時代:
江戸幕府の江戸開拓政策として、現在の田端、日暮里、千駄木、根津を経た上野に給水をすべく土木工事を施工、石神井川の流路を谷田川へと付け替えした。つまり江戸時代の「ある時期」を境に、水源が長池から石神井川へと変更された。
江戸時代後期:
水源を石神井川に求めるという作戦は成功したものの、谷田川の河川敷が広域であることから、雨量が多い時には広範囲にわたって水害が発生した。これに対処すべく、石神井川からの給水を絞り込み、荒川(現在の隅田川)への流路と谷田川へ流路と二分岐させた。
明治時代以降:
適度な水量は産業を促進させ、人口も増えたが、それに伴い生活排水も流れ込むようになって河川の汚染が進み、谷田川流域は不衛生状態となった。そのため、大正12年に谷田川は暗渠化され、現在に至った。
今後の課題に就いて
石神井川、とりわけ谷田川(藍染川)は、荒川や利根川、或いは多摩川などの著名な河川と比較して相当にマイナーであるが故か、記述された文献は相当に少ない。いきおいその多くが「詳細は不詳」としている。逆に言えば、様々な仮説が立案可能であるし、それらを科学的に立証して事実を解明していくことは、今後の課題であろう。
現時点での結論は、「藍染川の水源は、江戸時代に土木工事で長池から石神井川へと変更された」というところである。
追記の参考文献
・ From Edo to Tokyo, Illustrated map of Edo、(株)こちずライブラリ
・ デジタル標高図、国土地理院
・ 北区史、北区
・ 中村俊夫: 放射性炭素年代とその高精度化、第四期研究、年代測定総合研究センター、名古屋大学





























