プロムナード -15ページ目

プロムナード

古いこと、新しいこと
いつでも、どこでも
思いつくまま、気の向くまま

拙宅は上野東京ラインという高崎線沿線にある。このライン、2015年3月に東海道線と高崎線、宇都宮線、常磐線を相互乗り入れさせたもので、拙宅から横浜へ行く場合は従来の湘南新宿ラインとの使い分けが出来る上、更にその先まで行く場合にも便利になった。

 

しかし、問題は色々繋げてしまったために、

 

どこかでトラブりがあるとシステム的に全般として影響が発生することだ。

 

たとえば常磐線で車両故障が発生すれば立ちどころに高崎線の運行にも支障をきたすし、東海道線内でトラブルがあってもその影響は高崎線まで及ぶのである。いきおい、終日定刻で運行される事の方が少ない様な気がしてしまうのだ。

 

写真は神奈川県平塚でのトラブルが埼玉県大宮市まで影響しているところ。この様に東京をまたいで影響しあうことが問題なのである。

 

 

実際は定刻運行日の方が多いのかもしれないが、トラブルの犠牲になると影響が多大であるので記憶には鮮明となる。「また今日もか」となるのだ。心理とはそういうものだろう。

 

ここにシステムの脆弱性が出てくる。なんでもいいから直列に接続すれば一度に処理できるから便利なはずだが、一方、どこかでトラブルが発生するとシステム全体が破綻する。被害を最小限化するために、システムを分断させるなどの対策を講じているようだが、走っている列車の行先や駅のプラットフォームの番線が何度も変わったりするのは、規模は小さいとはいえパニックをもたらすし、利用客の怒りを助長させるだけだ。もう少しシステマティックにならないものかと思う。つい先日も、到着ホームが2度変更になり、その都度階段を上り下りして別のホームへ移動させられたのだが、こういう誘導は如何なものかと思う。かなり原始的と言わざるを得ない。これまでに蓄積されたビッグデータなどを用いてシミュレーションし、的確に利用客を誘導できないものだろうかと、いつも思う。

 

それと、トラブルのうち、かなりの頻度で起きるのが「線路の異音」という理由だ。運転手が線路の異常音を感じたので急停車させ、確認を行うというトラブル。殆どの場合、「異常はなかったので発車します」というアナウンスが場内に流れるが、じゃ、いったい何だったのかという疑問がわく。運転手の空耳だったのか? 

 

また、異常がないという説明があるうちはまだしも、なにもアナウンスがない場合もたくさんある。どんな異音だったのか、原因は何だったのか。それぐらい説明があっても良いはずだ。ひょっとすると保線の不始末だったのか。いずれにせよ、原因と対策が空かされないまま問題は素通りとなっていく。

 

こういう対応の改善も臨みたいところである。

何か目標を立てて戦略戦術を検討したり達成のために努力することは大切なことだが、そもそも努力による成果の判定は意外と難しい。

問題は、ある時期が経過したときに、その目標が達成したかどうかを客観的に示すことが出来るかどうかと言うことだろう。それを正しく評価するためには、目標を閾値として数値で表すことが大切だ。この数値が達成できた暁には、本人から申告によるものではなく客観的事実として広く認定し得る事実となる。

 



努力を継続するために効果的な方法は、努力の「見える化」だ。

 

この見える化という言葉、誰がいつ頃言い出したのかは判らない変な単語なのだが、要は「抽象的なものを可視化する」ということであり、達成度を測定する場合に客観性を持たせるという意味で有効な手段だろう。努力の評価などという、それこそ本人と周囲との間で大きな齟齬があってアタリマエな行動評価に於いては、数値化することによって本人のみならず、周囲も認識できるフェアな評価を可能とする。

つまり、「見える化」によって傾向の分析や現状の客観的把握が可能となるのだ。これは努力の評価にも適用可能である。この努力という行動、なかなかの厄介者で、ふとした瞬間に「今やっている努力は、きちんと評価されるのだろうか」と考えてしまうものである。従って、その努力を例え「でっちあげ」でもいいから数値化しておくことは大変重要なのである。

小生の友人で、ずっと拳法に勤しんでいるヤツがいるのだが、「自分が上達したかどうかが、判り難い」とぼやく。努力が数値化できないからだろう。確かに武術の数値化は難しいかもしれない。しかし、努力の結果として達成する判断基準を数値として閾値を定め、それとの相対比較を行い、超えれていれば客観的判断としても努力が達成したという自信を持つことも可能になるし、それによって更に精進して行こうという気になるというのが人間である。拳法の何をどう数値化するかは門外漢の小生には分からないが、何かしらあるはずだ。この数値なんぞ、ある意味、無理やり正当化させた偽造による数値化でもいいのだ。

小生がかつ海外半導体メーカーの代理店に勤務していたころ、メーカーから毎年、年間目標の提出をさせられていたのだが、

 

提出にあたっては「Measurable(測ることが可能)な目標を定めて提出せよ」といわれたものだった。

 

なるほど、「頑張ります」とか、「他の競合に負けないように努力する」とかそう言った目標は単なる精神論的な指標に過ぎず、ビジネスという世界に於いてはその達成度合いが評価が出来ないから、数値で示すのは正しい評価を行うことが可能になるだろう。営業だったら具体的な売上利益金額の提示、技術だったら製品導入決定件数や質疑応答へのレスポンス時間と言った数値の提示。確かにそういう基準を設ければ努力の達成感も得られるし、客観的事実となるわけだから、堂々と達成をアピールすることもできる。

一般生活に於いても、なにか以前と比べて変わったとすれば、その変化は必ず数値で表せるはずである。努力する前後の比較に於いてもしかり。いち早くそのパラメータを見出し、自分なりに判断基準値を設けて達成度を確認すれば努力目標が明確化する。

努力の評価はそんなに難しいことではないのかもしれない。
 

4月20日から22日まで、東京体育館で乃木坂46のアンダーライブが開催された。

 

 

小生が参戦したのは初日。メンバーが見せるパフォーマンスとそれに対する観客の声援が半端なく、久しぶりに感動的なライブであった。

 

当初、アンダーのみというライブ、いったいどの程度の観客率となるのか、あまり空席が目立つ様だとモチベーションも高まらないのではという懸念もあったのだが、そんな憂いは無用、会場へ入ってみれば熱気に満ちた満席であった。

 

開幕直後、その日のMCを務める渡辺みり愛が満員の会場を見て最初から涙が止まらず、「今回のアンダーメンバーは、乃木坂46史上最少人数の12名で、最弱とも言われる中、この日の為にメンバー一丸となって頑張ってきました。今回のアンダーのセンターとしても引っ張っていきたいと思います!」という冒頭MCで観客のボルテージは一気に上昇、その心意気はライブ終了まで見事に持続し、大成功なライブとなってその後の様々なテレビや新聞等でも数多く取り上げられていた。

 

 

このライブに参戦してみて感じたことは、

 

「今やアンダーメンバーは、選抜メンバーに対して何ら負い目を感じる理由がなくなった」

 

ということである。

 

乃木坂46は、他の様々な女性グループと比較すると「顔面偏差値の高い」グループとして知られているが、 アンダーというのは選抜メンバー(以下選抜と略す)ではない、文字通り「アンダーなメンバー」のことで、選抜が各種メディアへの出場をメインとする役割を担っていることに対し、それとは別の活動を行っているメンバーのことであり、いきおい、選抜よりもライブ経験は多くなる。

 

幾つかの乃木坂46冠番組があって、そこではアンダーメンバーも出演しているが、通常の歌番組などでは選抜以外は登場してこないため、 おのずからアンダーメンバーの認知度は選抜よりもはるかに低い。デビュー以来ずっと選抜メンバーとして活動しているメンバーもいれば、選抜とアンダーを往来しているメンバー、さらに一度も選抜に抜擢されたことがないというメンバーもいる。

 

しかし、アンダーには本来の歌やダンスといったアイドル歌手としての能力、あるいはエンターテイメント性といったパフォーマンスで比較すると、決して選抜に引けを取らないメンバーも大勢いるのだ。そういうメンバーの能力が今回のライブで見事に開花、ライブパフォーマンスとして選抜と比較して何ら遜色のない、むしろ選抜を凌駕する様なパワフルなステージを完成させていたのである。これは、これまでアンダーという境遇にあっても決して自暴自棄になることなく努力を積み重ね、実力をつけていった結果と考える。

 

この根底にあるものは「健気さ」だろう、と思う。ファンはそこを見抜いている。

 

SNSのファンサイトを見れば、ライブの直前までこのライブを盛り上げようという声掛けが活発に行われ、満充電状態で参戦に及んでいることからもファンの力の入れようはすさまじいものがあった。この感覚は、野球などの試合に於ける応援団の心得に近いものが感じられる。もしも試合に負けてしまったら、応援団は 「その責任は応援の仕方にある」と自己批判する。それくらいの覚悟で臨戦せよと自らを鼓舞する。これはまさしく体育会系のノリだ。ライブに臨むファンの心構えはそれだ。おのずからファン同士でも連帯感が生まれ、位相が同期し、爆発的なエネルギーとなってステージへ注入される。出演者はそのエネルギーを吸収してより一層輝くのだ。ライブ参戦の大きな楽しみはこのエネルギーを肌で感じることである。

 

 

今回のステージは3日間で4回のステージ。これまでで最低の12名で敢行したものであり、当初から最低最弱な構成といわれていたので、ある意味背水の陣の様な覚悟で臨んだステージだったのだろう。しかし、ライブに参戦して痛切に感じたことは、選抜が階層的にも役割的にも悪く言えばマンネリ化しつつあることに対し、アンダーメンバーは、これまでの立場で培った忍耐力や精神力を「実力」と言う武器に昇華させて携え、誰がどのポジションでもこなせると言うエンターテイナー性を発揮させることが出来るまでに成長したな、ということだった。

 

忍耐力、精神力と健気さが見事に共鳴している。これがアンダーメンバーの武器だ。

 

 

パフォーマンスやエンターテイメント性が伴わず、単にカワイイだけのアイドルはいずれ飽きられていく運命にある例は枚挙に暇がない。運営はこのモメンタムを十分に享受し、選抜に匹敵する様な集客を可能とする戦略を直ちに立案すべきだ。メディアに殆ど出なくても集客力の高いタレントの例はたくさんある。

 

と同時に、今回のライブでアンダーは選抜にはないパフォーマンスを持つことが如実に判明したのだから、

 

運営はアンダーというネガティブな名称を「パフォーマンスメンバー」、あるいは「ライブメンバー」等に改めるべきだろう。

 

また、選抜も選抜という意味を差別的ニュアンスをあらためるべく、「メディアメンバー」等へと変更した方が良いだろう。

 

今後の乃木坂46の発展を目論むのであれば、差別によって競争心を煽るという手法を講じる時期は終わったことを認識すべきだ。ファンの心理を反映させてフレキシブルに対応していかないと、いずれ失敗する。

昨年買い替えた小生の相棒バイク、色々なことがあってあまり乗れないまま月日が過ぎてしまったのだが、少し暖かい候となり、買った当初にミラーを可倒式へ取り換えて以来、その後何も手を加えていなかったこのバイクに、今回気が向いてナックルガードを取り付けることにした。

 

ナックルガードというのはハンドルの左右にあるクラッチレバーとブレーキレバーを覆う形状となっているもので、冬の走行では冷たい風から手を守るとか、高速走行中に前を走る車やバイクが跳ね上げる小石から手を守るツールなのだが、小生の様なチンタラ・ライダーにはあまり意味のないツールであり、いきおい、もっぱらドレスアップ商品の様なものではある。

 

とはいえ万が一ということもあるし、オフロード車にはナックルガードがデフォで装備されている機種も多く、実際小生がこれまで乗っていたXLR-BAJAには標準装備だったので、なんとなくあった方が落ち着く。

 

ということでバイクショップに行き、くだんのナックルガードを調達に行ったのだが、昔と違って最近はバイクショックの販売品目からオフロード用品が減ってきている。一番近場にあるバイクショップなど、大型店であるにも拘らずオフロード用品の扱いは止めたという。従って、オフロード用品も揃っているという店まで足を伸ばして買いに行った。そこにはナックルガードが「吊るし」で売られていた。

 

しかし、これ単体でハンドルに装着出来るとは思えないのだ。XLR-BAJAの時はクラッチホルダーやブレーキホルダーを挟む様に装着するから別の部品は必要なかったのだが、このハンドルガードはそんな具合に挟み込むものではなく、何かステーの様なものが別途必要な様に見える。つまり、それがなければ装着できないっぽいのだ。つまりナックルガードを買ったはいいが、それを付ける方法がないと無駄になるということになる。

 

案の定、買ってきてからネット検索してみたら、やはりナックルガード用のステーというものがあることが分かった。そんなのバイクショップは売って無かった気がしたので、仕方なくネット販売でポチってみた。

 

待つこと数日、到着したのでそれを装備しようと試みたのだが、問題が発生した。

 

どうもクラッチホルダーやブレーキホルダーと見事にぶつかって全く装着できないのだ。これは諦めるしかないとしてお蔵入りさせ、ガードとステーと合わせた購入代金およそ8000円は捨てたものとして記憶から抹殺することにした。

 

それからしばらく経ったある日、本件とは全く別に、いつもの様にアキバの裏道で電子部品ジャンクを探索中、ふと近場に停車してあったセローに全く同じナックルガードが装着されているのを見つけた。

 

「お、付けられるんだ」

 

早速見に行くと、その装着方法は、クラッチやブレーキホルダーの位置をずらしてステーを挟む方法だったのだ。やはりそうか。結局無理やりつけるしかないわけか。これは大変参考になった。

 

早速家に帰り、レバーホルダーのネジを緩めて位置をずらし、ステーを割り込ませて装着完了。

クラッチ側

 

ブレーキ側

 

要するに地味に作業すればよかったということになるが、

 

やはり参考例があるのとないのでは、作業に多大なる影響があることを再認識した次第であった。

  

装着ビフォーアフター

ACアダプタ、一般的にはパソコンの電源装置とかスマホの充電器として知られている装置であるが、これが何をしているものなのかは意外と知られていないかもしれない。というか、知る必要もないのだろうが、なまじっかの知識があると却って使い方を誤って接続先の機器を破壊することがあるので、使用する上では十分な注意が必要だ。

 

例えばパソコンなどを接続させる場合、コネクタの形状が合うからと言って別の機種のACアダプタをそのまま流用した場合、供給電圧が異なると過電圧がパソコン本体に加わり、重大な故障をもたらす。或いは電源電圧が共通であってもアダプタからの供給可能電流値が異なればACアダプタが過負荷となって発熱し、

 

場合によっては発火することもあるので、大変危険である。

 

また、正負の極性についても注意が必要だ。現在国内で販売されている国産品は殆どがセンタープラスのプラグになっているが、中華製のものや国産でもソニー製の古いラジオなどではセンターマイナスが採用されているものもあるため、そのままつなぐと電池を逆につなぐようなものだから、保護回路がない場合には機器の破損をもたらすこともあるので十分に注意しなくてはならない。

 

 

写真はアダプタ本体に貼られたシールに書かれたACアダプタのプラグ極性で、この場合はセンタープラスを示す。この「+」の記号が「ー」だったらセンターマイナスのプラグで、極性は逆だ。

 

これのことは、少しでも電気の知識があれば事前にACアダプタに貼られたラベルなどに記載されている仕様、即ち電圧と電流の値を確認することによって事故は未然に防げるが、理解していない人は純正品か、それに準じて販売されている製品以外は接続させない方がよいだろう。また電気に関する知識のある人のアドバイスを得るべきだ。

 

ところで、ここまでのところはラベルに明記してあるので、若干でも電気を知っている人であれば注意出来るのであるが、これ以外にも接続機器に重大な故障をもたらす別の要素がある。しかもラベルには書かれていないのだ。それをまとめておこう。

 

写真はあるメーカー製品の付属品である3V出力ACアダプタだ。

 

 

定格として3V、500mAと書かれている。電気の知識がある人が見れば、「これは直流3Vが出力されるAVアダプタで、最大電流として500mA以上は取り出せない」ということは分かる。ところが、電圧計が示す様に7Vとなっている。

 

実はこのACアダプタ、安定化電源ではなく非安定化電源であり、3V出力は500mAが流れたときに得られるACアダプタでなのだ。

 

実測値を次に示す。

 

 

このグラフの様に、負荷が解放状態、つまり接続機器がつながっていない場合には、なんと7Vが供給されるのだ。この電圧は3Vを上限とする機器にとっては致命的である。もちろん安全設計として過電圧印加への対応はされていることは基本だが、それでも2倍以上の電圧印加までの耐圧設計はしていない場合が普通だろう。

 

このアダプタに電圧変動があるということは、ラベルのどこにも記載がない。

 

飽くまでもこのアダプタはある機器の付属品なのでその機器と共に使う上では問題ないからお咎めはないということだろう。このアダプタを別用途で使うとすれば、それは自己責任で、ということになるわけだ。 従って使用者は使用する前に十分な注意を払わなくてはならない。もしもこれを別の3V対応の機器につなげようとした場合、その機器に過電圧保護回路がなければ、重大な故障をもたらすかもしれない。

 

この様な非安定化電源タイプのACアダプタはトランス型の電源に多い様だが、いずれにせよ使用に当たっては、テスターなどを用いて出力電圧を確認することは必須だろう。十分にご注意を。

先日、「次の巨大地震に備える ~海域地震津波・地殻変動観測の成果と展望~」というシンポジウムに参加した。主催は国立研究開発法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)。

 

 

要は、今後起こりうると推測される(というか、確実に起きる)南海トラフ地震に関する研究紹介やその成果、さらに昨年就航した海底広域研究船「かいめい」による調査成果などの紹介を主目的とするもので、紹介の後はパネルディスカッションによって地震に備えるべき点検事項確認のまとめを行うということが今回の趣旨だった。

 

 

以前よりマスコミを通じて報道されている南海トラフ地震は、過去の地震記録を総合すると複数の地震が連動する地震であるということが判明しており、一旦発生すれば甚大な被害が予想されている地震だ。この地震に就いてはこれまで様々な調査研究が行われており、多くの文献が発表されているが、今回のシンポジウムは、地震発生メカニズムに関するディスカッションというより、地震は発生するという大前提で地震がもたらす災害のディスカッションが主なテーマであった。

 

そう、南海トラフ地震は、いつ起きるかが分からないということだけであって、必ず起きる自然現象だ。

 

いきおい、100%の確率で必ず起きるのだから、対抗として人間の英知たる理学、工学、そして社会科学を統括して被害を最小化していくことが、我が国の様な地震国に課せられた命題というわけである。

 

一方、地震予知に就いては東京電気通信大学の早川名誉教授による「電離層攪乱観測」という予知方法が小生には大変興味深く、かつて本ブログでも紹介したことがあった。

 

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-12051098844.html

 

また、JESEA(地震科学探査機構)が研究を行っている、GPSによって微細な地殻変動を計測して地震を予測する地震予知方法なども研究が進んでいるという。

 

今日まで、これらの地震予知を含めて十把一絡げに云われる地震学だが、地殻変動を探求する地球科学と地震予知を探求する技術が大きく異なる様に、今回のシンポジウムテーマである防災技術の開発も、地震学の中の極めて重要な学問であると今回のシンポジウムに参加してみて痛感した。

 

しかし、防災の確立は理学知識や工学的技術アプローチだけでは解決せず、社会科学といった分野での知識経験の集約が必要だ。

 

考えてみれば、地震発生に先立つ予知情報についても、その発表の方法によっては直接災害としての災害、つまり一次二次災害以前のゼロ次災害とも云うべき「地震発生以前のパニック災害」を引き起こす可能性があるのだから、具体的な地震予報の方法に就いても十分に議論される必要があろう。つまり、地震発生メカニズムやその予知といった自然現象の解明とは異なって、人間や人間が構成する社会を管理するといったアプローチも必要なのだ。

 

地震を鑑みる場合、とりわけ防災分野での重要なキーワードの一つは、確実に被災者となる日本国民の地震に対するリテラシーを高めることだろう。

 

もちろん地震による被害の最小限化を図ることは極めて大切なことであるが、それに先んじて被害の甚大さをきちんと理解することも大変重要であり、国籍を問わず日本在住の人が地震事前検証である「被害のシミュレーション結果を体験」することは、ある意味義務なのだ。

 

そのためには地震がもたらす惨状に就いて、二次災害まで含めて包み隠さずはっきりと伝えることが必要である。テレビ等で、シミュレーションの映像として津波に家やビルなどの建物が飲み込まれるシーンはよく見るが、もっと現実的な現象、即ち人間が飲み込まれていく様なども、見る人に対してしっかり目に焼き付かせる必要がある。恐怖心を煽れということではない。現実は想像以上に恐怖な世界なのだ。

 

建物が倒壊する映像であればSF映画のワンシーンだが、人間が倒壊する建物の下敷きになる映像はホラー映画のワンシーンだ。どちらも起こりうることであり、目を背けず、回避するにはどうすればいいのかをきちんと理解させなくてはならない。

 

一方、その場合に問題となるのは、子供たちへの影響だろう。大人たちはシミュレーション映像で今後確実に起きる事態をしっかりと認識すべきであるが、子供たちの場合となると、そのシミュレーション映像の与える衝撃が、その後の心理に対して計り知れない悪影響を及ぼす可能性があることを考慮しなくてはならないだろう。とはいえ、教えなくてはならないのだ。

 

すなわち児童心理学も含めて、もっと深く防災心理学を研究していく必要があるのではないだろうか。

 

今後地震予知方法が確立されれば、現在の天気予報の様な地震予報が可能となるだろう。しかし天気災害と地震災害を比較すれば、地震災害はじわりと押し寄せる天気災害とは異なって瞬時に災害を及ぼすものだ。災害規模も桁違いに大きい。それをどの様にして予報を一斉同報するか。

 

地震は確実に起きる。しかも回避できない。我々に出来ることは被害を抑えることだけだ。

 

そのためには地震教育を通じてリテラシーを高めることが早急に必要だ。地震被害を想像だけの世界とせず、昨今かなり技術が進んできているVR(Vertual Reality)を用いて、少なくとも大人たちは、たとえ疑似であれ、体験しておくことを義務化することも、今後の日本を壊滅させないために必要な気がする。
 

昔から欲しかったものの一つに、土偶がある。

 

あの独特の「はんぶん人間」的にデフォルメされた風貌や装身具は他のアジア圏には類似したものがなく、日本の縄文文化の象徴であって、縄文早期の花輪台土器の貝塚から発見されたものを最古とし、縄文時代は実に100世紀近くも続いたというから驚きだそういえば歴史の教科書には必ず出てくるから、日本人で土偶を知らない人はいないだろう。

 

土偶の初源は縄文早期にまでさかのぼり、縄文早期の花輪台土器が出土する貝塚から発見されたものを最も古いものとして、多くは中期以後晩期の遺跡から出土するものが多く、 早期では上半身のものだけだったのに対し前期では頭や手足が加わり、中期以降では立体的な立像となっている。後・晩期には、土偶は全国に広がるが、分布の主体は大型で複雑な形象を持つ東日本の土偶である。

 

ここで縄文時代の区分けを記す。原典は明治大学博物館の考古学展示室。

 

    草創期(約16,000 - 11,500年前) およそ13000年前くらい
    早期(約11,500 - 7,200年前)    およそ7000年前くらい  BC5000
    前期(約7,200 - 5,400年前)    およそ6000年前くらい   BC4000
    中期(約5,400 - 4,400年前)    およそ5000年前くらい   BC3000
    後期(約4,500 - 3,000年前)    およそ4000年前くらい   BC2000
    晩期(約3,000 - 2,800年前)    およそ3000年前くらい   BC1000

 

土偶の中でも、定番と言えるのが遮光器土偶とみみずく土偶。


遮光器土偶は、目の部分がイヌイットが用いた遮光器に似ていることからその名がついているが、実際に遮光器を用いたということでなさそうだ。この土偶は縄文晩期に製造され、主に東北地方からの出土が多く、土偶のデフォルトの様に知られているが、青森県の亀ヶ岡遺跡の土偶が最も有名かもしれない。

 

みみずく土偶は縄文後期から晩期のころに、主に関東地方で製造された土偶で、埼玉県の真福寺貝塚の土偶が有名である。遮光器土偶は目を閉じているのに対し、みみずく土偶は文字通り丸い目が特徴となっていて、対照的である。

 

土偶の機能や使用方法については、実はまだよくわかっていないらしいのだが、基本的には安産、子孫繁栄、豊穣を祈るための道具として使用されていたとされている。特に安産については、現代の様な医学がない状況での出産は文字通り生死を分ける一大イベントだったはずなので、安産は全ての民の願いだったことは想像に難くない。ゆえに土偶は女性がモチーフとなっているのだろう。

 

形状としては女性の身体を表現した素焼きの粘土像で、遺跡からは身体の一部が欠損した状態で出土することが多い。先に述べた様に、機能や使用方法については解明されていないのであるが、一般には安産、子孫繁益、豊穣 といった観念を象徴していると理解されており、こうした欠損は当初から想定されているという説がある。即ち、祈願に用いた後に破壊されたとする説だ。つまり現代のお札やお守り がお焚き上げされる様なものか。或いはひとつの遺跡から数十個と大量に見つかることから、呪術的に使われたものともいわれている。

 

一方、奇抜な想像として、宇宙人であるという説もある。

確かに土偶の身体的特徴や顔がそのままだとすると、宇宙人かどうかはともかく、当時から現代まで地上に同種の生命は存在していないので、突如宇宙から(というか地球外から)何かが来た、と考えてもおかしくはない。実際、縄文時代は1万年もの間続いているので、宇宙人が来てもおかしくはないかもしれないが。ただし弥生時代以降は来日していないという理由の説明は必要だろう。

 

さらに、一説には無脳症の様な障害を持つ新生児がモチーフとなっているという説もあるようだが、祈願の対象として適切かどうかという疑問はある。

 

当時の縄文人たちの体型は化石人骨を見ればわかるのだが、現代人と比べて著しく異なるわけではない。身長の違いや頭蓋骨の形、歯の生え方などの違いはあれど、土偶の様な手足の形であったとは考えにくい。つまり土偶は著しくデフォルメされていることになる。纏っている衣装はともかく、手足が実際よりも極端に短い。この手足の短さや丸みは、実は「カワイイ」の対象ではないかと思うのだ。

 

かつて、心理学者はカワイイの定義を「手足が短くて全体がコロコロしているもの」と定義した。動物にしても赤子にしても、人がカワイイと感じるものはすべてこの定義に沿う。


最近の人造物では、「ゆるキャラ」というヤツがそうだ。カワイイ系を狙うこの被り物は全部丸くて手足が短い。土偶もしかり。

 

つまり、土偶は古代の「ゆるキャラ」ではないか?

 

また、土偶の容姿はインドネシアのガムラン伴奏によるバリ島女性の宮廷舞踊を彷彿とさせるものがある。これらは憑依舞踊の特徴が取り入れられているらしいが、その状態が目を閉じた土偶の顔に表されている様にも感じる。

 

インドネシア舞踏

 

先日、遺跡のある所を訪ねたときに土産店で土偶のレプリカがあった。土偶は昔から欲しかったのだが、さすがに土偶をネットでポチって買うというのは如何なものかと思っていたので、土産店ではソッコーで買った。

 

土産屋で買ってきた土偶のレプリカ

 

先に述べたように土偶の具体的な使用方法は現在でも不明らしいのだが、土産屋で買ってきた土偶、拙宅ではもっぱら玄関先で魔除けをしてもらっている。


 


システムが動いているという状態をハードウェアとソフトウェアという2つの要素で分析すると、完全に稼働していても、そこに盲点があることに気付く。

システムが正しく動くということは、開発者から見て、「期待した通りの動きをする」ということなのだが、それを以ってハードウェアもソフトウェアも正しく動いているということにはならない。なぜか?
 
それは、
 
正しくないハードウェアの上で正しくないソフトウェアが走った場合、正しくない同士が相殺されて、結果が正しいということもあるということなのだ。

これは盲点である。

システムとしては問題なく稼働が可能であったとしても、論理が逆となっている場合には、別のシステムと連系させると途端にエラーが発生してしまうことがあるという事を意味しており、コンピュータでいうと、バグがないといわれるソフトウェアがバグのあるハードウェア上で検証された結果だとすれば、ソフトウェアにバグがないということにはならないのだ。
 
 
こういう考え方は様々な分野で応用が可能だ。写真は3V出力のACアダプタだが、出力電圧の実測値は7Vと出ている。しかも内部抵抗の低いアナログテスターでの読みだから、実際はもう少し高いかもしれない。機器に故障が生じた場合、電気系エンジニアであればまず電源電圧から確認していくものだが、まさかというところに盲点があるということを知っておくべきだろう。

間違った環境の中での間違いは正しいかもしれないし、間違った環境の中での正しいは、間違いかもしれない。
 
これまであまり意識したことがなかったのだが、 最近気付いたことの一つに、
 
カタカナの持つ魔力というか破壊力
 
がある。
 
この写真は古い頓服薬。右書きだから戦前から戦後間もないころの薬だろう。「トンプクかぜぐすり熱の母」、及び「ネツトリハハ熱の母」というコピーがあるので、「熱の母」というのが商品名の様だ。高級新薬セキドメの母らしい。ところが左側に「トンプクはらぐすり胃腸の母」というコピーもあるので、風邪薬と胃腸薬が同居しており、事態はかなりややこしい。
 
しかし、何と言ってもキャッチーなのは、中央で時計(ただし、長針と短信の長さが同じ)を抱きかかえた国籍不明なハチマキ男性が実にアヤシすぎること。また、彼の不思議な形をしている腕の先にある指で示すところに「二十分デナオル」と書いてあるのも、怪しさに拍車をかける。「この人に勧められてもなぁ」という気がしないでもない。
 
この図案を立案した人にぜひ会ってみたいものだ。因みに、「乃木製薬研究所」とあるがネット検索ではヒットしない。
 
 

ところで、商品名にカタカナを用いたものはたくさんあるが、カタカナの与える印象に就いて考えてみると、カタカナは外来語を表記する場合に用いられることから、何か「ハイカラ」なイメージや精鋭的、斬新的なものという先入観を与える高架がありそうだ。或いはおしゃれな感覚も与えているかもしれない。上記の写真に示す宣伝がハイカラかオシャレかはともかく(当時はそうだったかも?)、インパクトがあることは確かだろう。

一方、カタカナ書きで表すことによって、例えばケータイの様に本来の広義として示す物事を離れて独自の商品群を示すことがある。「ケータイ」とカタカナ書きすれば、携帯電話やスマホといった商品の総称となる。

薬の名前を見てみると、現在もカタカナを使ったものが多く存在しているが、薬品の名称としては薬効成分の名前そのものか、それを基にした造語が多い様だが、昔の商品名にはそれとは別のユニークな、ある意味コミカルなネーミングのものがある。
 

こういう遊び心的なネーミング、もちろん現代にも多く存在するが、あまり奇をてらった名称でない限り、消費者に簡単に記憶してもらえる上、意外と好感度は高いかもしれない。