七月に入り、線状降水帯による記録的な激しい雨によって

 九州各地に特別警報が出され、災害が頻発しております

 

中国・四国、東日本においても今後激しい雨が予測されるとの事

 更新遅れているうちに岐阜・長野県にも特別警報が出たようです

 

年々激しくなる気象現象、しばらくは油断できませんね傘

 

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さてさて

 

元日以来、市外に出かける事も殆ど無く、はや半年も過ぎてしまったあせる

 先日、高校生時代のスクラップブックを眺めていると・・・

 

今治市の小島(おしま)に自然とロマンの遊歩道が完成したとの記事を発見ビックリマーク

 

そうだ!

 来島海峡大橋からエレベーターで馬島に上陸するという計画も忘れてはならない!

 

 周辺には波止浜港から定期船で結ばれている来島と小島もある

 

これはちょっと調査しておかねばなるまい(≧∇≦)/

 

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当時の新聞によると、観潮と砲台めぐりの出来る遊歩道が完成

 船着場から観潮台-中央砲台跡-北部砲台跡の1.6km幅3mのコンクリート遊歩道を1千百万円かけて整備したそうな

 

明治30年代、日清戦争が終り、日露戦争が勃発しようかという頃

 ロシア海軍が関門海峡から侵入して瀬戸内海を大阪方面へ侵攻することを想定して小島に海岸要塞を築いたらしい

小島 しまなみ海道に残る芸予要塞跡と椿の島

 

芸予要塞観光ガイド

この椿の散歩道が、当時の新聞に載っていた遊歩道かな

 

また、小島の北東約250メートルの来島海峡にあったコノ瀬灯標が

 1978(昭和53)年3月に浅瀬の岩礁を取り除く整形手術のためお役ご免となる

 

明治35年より75年間に亘り来島海峡の守り神として見張役を果たしてきたが、役目を終え陸で保存される事に…

 

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唐子浜の赤灯台はどこにあったの?

 

唐子浜の沖にある赤い灯台。もともと来島海峡にあったのです。昭和53年(1978)に美しい砂浜の唐子浜に移転されました。

この赤い灯台は来島海峡西水道北入口・鴻ノ瀬岩礁に明治35年(1902)に日本で五番目の灯標として設置されました。来島海峡は狭い水域に複雑な海底の地形のため、潮流が一日に何度も変化し、渦潮がおこる海の難所。海の安全を守るために赤い灯台は建てられたのです。

2トンの御影石を274個も積み上げ、高さ14メートル、重さ325トン、17キロ届く光量を持つ西洋式灯台でした。今治市民からは「赤灯台」として親しまれていたのです。

この灯台を主人公にした絵本が文渓社から「赤い灯台」として出版されています。作者は愛媛県西条市にお住まいの大西伝一郎さん。画家は赤坂三好さん。赤い灯台の歴史や物語が一冊にまとめられています。是非ご一読の程。美しいすてきな本です。

【今治おもしろ百科より】

 

 

定価1,500円(税別)やのに(ノ゚ρ゚)ノ ォォォ・・ォ・・ォ・・・・

発売日:1997年12月

 

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伝馬船で来島海峡の島伝いに郵便を配達する檜垣熊一さん(当時69歳)

 津島、中渡島、馬島の郵便配達を退職後も引き続き担当されてるそうな郵便局

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十勝三股の記事で紹介した動画に登場した郵便集配人堀田道さんと同じ頃ですね~

  制服と鞄が似てますねニコニコ

 

 

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コノ瀬岩礁で検索すると、

 これまでにも度々参照させて頂いてる

 

愛媛県が提供している生涯学習情報提供システムえひめの記憶

 そのデータベースの中の来島海峡通航史がヒットしましたが・・・

 

一時的に停止しているか、新しいウェブアドレスに移動した可能性がありますとなって表示出来ないもやもや

 

随分前の昭和のデータベースの為、提供を中止したのだろうか?

 幸いキャッシュが残っていたのでコピペしましたが・・・

 

あとでWindows10のGoogle Chromeでアクセスすると問題なく繋がりました(´∀`;)

 クロームのバージョンが古い(49.0.2623.112)と繋がらないサイトがあるんでしょうかね?

 

XPとVistaはグーグルさんにサポートされなくなったので、

 これ以上Google Chromeのアップデートは受信出来ませんもやもや

 

Radiko、らじるらじるも聞かれないし、XPパソコンはそろそろ限界かな(◞‸◟)

 

取敢えずキャッシュを貼り付けて、図はWindows10PCでアクセスして取り込みました

 昭和の終わり頃に纏められたデータベースです

 

- - - - - ココカラ 貼付↓- - - - 

> データベース「えひめの記憶」
> 愛媛県史 社会経済3 商工(昭和61年3月31日発行)

> 四 来島海峡通航史

>  美しい魔の海峡

>  来島海峡という場合、どのぐらいの広さの海域を指すか必ずしも明らかではない。ごくおおざっぱにいえば、今治市北方と越智郡大島との間の海域ということになる。幅約三㎞と狭く、しかもその中に津島・馬島・小島・来島などの有人島、中渡島・武志島・大突間島などの無人島を含むため、複雑な潮流となる。安芸灘・斎灘と燧灘を分ける位置にあり、それらからの圧流を受けて急潮流となり、南流(満ち潮)の最盛時には一〇ノット以上になる。また鳴門海峡と並んで激しい渦潮も有名である。瀬戸内海交通の要衝に当たり、大型貨物船・タンカー・フェリーのほか水中翼船や島々を結ぶ渡海船・漁船などが航海するが、複雑な地形のため通航中航路を二度変えなければならず、古来海難が多く、美しい景観にもかかわらず魔の海域と恐れられてきた。
>  来島海峡が歴史上に大きな意味をもつようになるのは、来島が来島氏の居城となった室町期である。来島氏は因島村上・能島村上と共に村上三島水軍の一翼をにない、河野氏旗下の主力であった。しかし、戦国時代末期秀吉の海賊禁止令などによって伊予水軍は没落し、来島城は廃城となった(来島氏は戦国を生き抜き、豊後森に領地を与えられて大名となった)。明治初年には内海防衛上注目され、三原水道の大久野島と共に、小島に砲台が建設された。

>  航路施設等の整備

>  『なみかた誌』(昭和四三年)によると、帆船時代に小島に引船業というものがあった。帆船が来島海峡を通り抜けるのを助けることを商売とするもので、最初は腕力の強い者か何人かで小船を漕いで帆船を曳航した。その後発動機船が使われるようにかったが、これを「つけ船」と呼び、小島の係船場に控えて通航船を待ったが、けっこう仕事があったという。内海を通航する帆船のいわゆる伊予地乗りコースだったからである。
>  明治二五年(一八九二)、海峡の北、関前村の大下島に灯台が設置された(明治一二年に浮標設置)。これがこの海域における灯台の最初である(本県では明治六年(一八七三)松山市沖の釣島に灯台が設置されたのを嚆矢とする)。続いて明治三五年には来島中磯灯台とコノセ灯台が設置され、大正に入ると四年桴磯灯台、六年竜神島灯台、九年来島白石灯台などが設置された。現在この海域に設置されているのは、灯台(陸上に立つもの)が八、暗礁に立つ灯標が四、ブイで浮かぶ灯浮標四、導標が一である。
>  来島海峡の特徴は潮流信号所が整備されていることである。明治四二年日本初の潮流信号所が中渡島に設置された。昭和に入って二九年(一九五四)には大浜(今治市)潮流信号所、四三年に津島(吉海町)信号所、五〇年に来島大角鼻(波方町)潮流信号所、五二年に来島長瀬ノ鼻(吉海町)潮流信号所がそれぞれ設置された。当初は腕木式などの簡単なものだったが、最新の来島長瀬ノ鼻と来島大角鼻のものは、電光表示板(灯光信号)により来島海峡中水道における流向(NまたはSによって北流・南流を)、潮流の流速が早くなっている時は上向きの矢印(↑)、遅くなっている時は下向きの矢印(↓)で示し、さらに現在の潮流の流速(Oから9の数字でノットを指す)を表示している。
>  航行方法の規制に関しては、昭和二七年特定水域航行令の指定海域になった。これは、例えば燧灘から北上していく大型船は、南流(逆潮)の場合は西水道、北流(順潮)の場合には中水道を通るべし(順中逆西)、というように四つの水道(ほかに東水道、間瀬戸)の交通規制方法を決めたものであった。しかし、経済の高度成長に伴う通航船舶の増大(一日一、〇〇〇隻以上)が続き、船舶の大型化などによって海難事故の重劇度が高まってきたため、昭和四七年、政府は「海上交通安全法」を制定、これによって備讃瀬戸航路・東京湾航路などと共に来島中・西水道が「来島海峡航路」として設定され、この海峡内の通航方法が規定された(長さ五〇m以上の船舶)。
>  昭和四九年には瀬戸内海主要幹線航路整備事業の一環として、西水道北口に点在するコノ瀬岩礁が灯台と共に撤去され、マイナス一九mまで掘り下げられた。また同年、この航路は開発保全航路に指定され、港湾法に基づいて国が航路の整備・維持・管理に責任を持つものとされた。

>  痛ましい海難事故

>  こうした整備が行われる以前の海難事故を二つ紹介しよう(『愛媛県警察史』ほかによる)。
>  昭和六年一二月二四日午前五時三〇分ごろ、越智郡亀山村大字名駒(現吉海町)竜神灯台東南約四〇〇mの海上で、大阪商船株式会社所有の大阪・鹿児島航路定期船八重山丸(九六四トン、船長宮地修一)が、大阪商船のチャーター貨物船関西丸(八、六一八トン船長大山正信)と衝突して沈没した。現場が「魔の竜神崎」と呼ばれる来島海峡の難所であり、しかも真冬の事故であったため、八重山丸乗船者八九名のうち四九名(乗組員四、乗客四〇、便乗乗組員家族五)が死亡または行方不明となる惨事となった。『今治警察署沿革史』には、「(翌)昭和七年一月迄二於テ死体発見セシモノ二十三、其ノ他ハ判明セス」と記されている。
>  昭和二〇年一一月六日午前九時三〇分ごろ、越智郡伯方町木ノ浦六ツ瀬磯沖合い約二㎞の海上で、瀬戸内海汽船株式会社所有の尾道・今治連絡船第十東予丸(一六二トン、船長阿部義久)が突風を受けて沈没した。乗船者約六〇〇人のうち四五〇余人が死亡または行方不明となり、愛媛県における海難史上最大の惨事となった。同日朝同船は乗客定員が二一〇人にもかかわらず、広島県尾道港で済州島方面からの復員軍人約四〇〇人と一般乗客約一八〇人を乗船させ、定刻より少し遅れて午前七時一六分に出帆した。晴天であったが風が強く海上は荒れていた。
> 今治に向かっていた同船は、午前九時三〇分ごろ現場にさしかかり、折からの突風を受けて大きく二、三回揺れると、定員の約三倍の乗客と荷物を満載していたため復元力を失い、一瞬の間に転覆して沈没したのであった。
>  海難事故は依然後をたたない。図交3―11・表交3―16は来島海峡における事故多発場所と、近年における旅客船・フェリーの事故を示したものである。


 

- - - - - - ココマデ↑- - - - - 

 

この中に「昭和49年には瀬戸内海主要幹線航路整備事業の一環として、

 コノ瀬岩礁が灯台と共に撤去され、マイナス19mまで掘り下げられた」とありますが・・・

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スクラップの新聞記事には日付をメモして無かったけど

 記事の内容から1978(昭和53)年3月13日の記事だと思われます

 

(3月)12日から海底の整形手術始まるとあり、

 漁業補償(10億5千万円)を含め60億円、4年近い歳月をかける大工事で西水道北口の岩礁が撤去されます

 

(3月)15日にはコノ瀬灯標に変わって小島の東端に設置される小島東灯標への切り替え作業が行われると書かれてます

 

また、

 

新聞記事では岩礁を取り除いて水深は9mに下げるとあり、

 マイナス19mまで掘り下げると書かれているデータベースとは異なっており、

 

昭和49年にコノ瀬岩礁が灯台と共に撤去され、マイナス19mまで掘り下げられたという部分は

 昭和53年3月にコノ瀬灯標が撤去され、

 

それから4年をかけて岩礁が9mまで掘り下げられたというのが正解かなと思います

 

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コノ瀬灯標は、明治35年に「コノ瀬挂灯立標」として、今治市小島の北東沖にある鴻ノ瀬暗礁上に設置されました
 昭和の時代になり、来島海峡の海上交通の更なる安全確保を図るため、鴻ノ瀬暗礁の撤去・浚渫が行われ、それに伴い、旧コノ瀬灯標は現在の今治市唐子浜沖に復元保存されました
 そして、同時期にコノ瀬灯標に変わる新たな航路標識として、昭和53年に小島東端に小島東灯標が設置されました

 

当時の新聞によると

 コノ瀬灯標(海の中にある灯台を灯標と言う)は、今治市小島の北東約250mの来島海峡にありましたが

昔、コウノトリがよくこの浅瀬に飛来した事から、かつては鴻ノ瀬灯標と呼ばれ、愛媛県下でも越智郡関前村にある大下島灯台と並んで古いそうな

 

今治地方観光協会らが中心となって保存が決まりましたが

 方法や場所についてはまだ決定していないとの事でしたが・・・

 

現在では唐子浜海水浴場沖に保存されて「赤灯台」の名称で親しまれているそうな

 

今治海上保安部

↑クリックするとペーパークラフトのダウンロードも出来るよ!

 

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当時の新聞はモノクロだったので色は判らなかったけど・・・
 真っ赤だったのね~
ここでも撤去した年が違ってるけど正しくは昭和53年で間違いないと思います

4566比岐島灯台旧コノ瀬灯標流れ星

 

4612小島東灯標/4613来島中磯灯標/8004津島潮流信号所流れ星

 

旧コノ瀬灯標の画像は検索しても移設後の唐子浜の写真ばかりで

 なかなか来島海峡に設置されていた現役当時のモノはヒットしませんアセアセ

 

 

先ほどの今治海上保安部のページに解像度は低いけどこの写真がありました

 

う~ん、カラーではっきりと写ってる画像は無いのかなぁ~

 

そうだキラキラ

 あの表紙はひょっとしてコノ瀬灯標かも

 

今年今治市クリエイティブヒルズにシェーンブルン宮殿工場を新設した

 日本食研HD(株)の発行する日本食研だより

 

其の創刊号(1982年10月15日発行)の表紙に載ってました

 

 

上のモノクロ写真と照合した結果、

 背後に写ってるのは津島、大突間島、大島のようです

 

この号が発行されるよりも、4年前にコノ瀬灯標は来島海峡から姿を消しており
 
ちょうどこの頃1982(昭和57)年に
 コノ瀬岩礁の撤去工事が完了したのではないかと思われます
 

日本食研シェーンブルン宮殿工場

 

 

今治市にはベルベデーレ宮殿(KO宮殿工場)とシェーンブルン宮殿の二つの大きなオーストリアの宮殿が建っとんのを知っとんかね?

 

今やハプスブルク家やブルボン家より勢いのある食研さんww

 

そのうち、パリのベルサイユ宮殿もイマハルに出来るかも知れんぞねw

 

なぁんがでっきょんなって?

  ベルサイユ宮殿言うたら讃岐の人なら、ほらたまげるでぇ〜びっくり

 

 

まぁ~

 商売上手の食研さんやからホンマに出来るかもしれんがねニヤリ

 

 

 

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来島海峡の特徴は↑↑リブログした記事で、以前にも少し紹介しましたが

 

今回の記事でも、

 先に引用したえひめの記憶に記載されていたとおり

 

昭和27年に特定水域航行令の指定海域となり

 

昭和47年、政府は海上交通安全法を制定、

 これによって備讃瀬戸航路、東京湾航路などと共に

 

来島中・西水道が「来島海峡航路」として設定され、

 この海峡内の通航方法が規定されました(長さ20m以上の船舶)

 

 

右側航行が原則の海上交通の世界で、このルールとは異なり潮流の向きによって右側航行と左側航行に切り替える、世界的にも珍しい航法「順中逆西」がとられています

 

燧(ひうち)灘から九州方面へ北上していく大型船は、南流(逆潮)の場合は西水道

 北流(順潮)の場合には、中水道を通るべし注意船DASH!

 

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来島海峡航路の航法「順中逆西」

 

北流右矢印中水道(西航船)船DASH!西水道(東航船)船DASH!

南流右矢印中水道(東航船)船DASH!西水道(西航船)船DASH!

 

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平成24年3月下旬より来島海峡の潮流信号が変わりました

平成23年12月22日 PDF流れ星

 

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さて

 

折角なので来島、小島、馬島を絡めた探訪計画でも妄想してみようかなふんわり風船星

 

 

元日以来、JR四国も利用していないので、

 出来る事なら波止浜駅までは電車で行きたいものですが新幹線真ん中新幹線後ろ新幹線前

 

旧コノ瀬灯標が保存されている唐子浜とジェーンブルン宮殿工場も見ておかねばなるまい

 

ということは、機動力のある89年式パジェロの出番じゃな車DASH!

 大丈夫かな?5月の連休明けに車検から戻ってきて一度もエンジンかけてないけどアセアセ

 

サンライズ糸山の無料駐車場に駐車して波止浜港へ

 

因みに波止浜駅は、みかん県最北端の駅w

 なぜ予讃線が波止浜まで大回りしてるのかというと

 

1924(大正13)年の開業当時には塩田開発で富豪が多く住んでたからじゃそうな

 

波止浜港

 

ひょっとしたら、いやひょっとしなくともここにも駐車場はあると思うが・・・

 帰りは馬島から来島海峡大橋を歩いて帰ってくるので、どちらが良いか検討の余地ありだな

 

当時の新聞記事では市営渡船が1日12便って載ってたけど

 現在はくるしまによって11便運航されてるようです

 

来島-小島-馬島と来島海峡の3島に上陸する予定

 

来島は周囲が僅か850mの小さな島の様で

 来島村上水軍の本拠地でした

 

急流に守られた天然の要塞で、周囲は石垣を巡らし

 本丸、二の丸、三の丸を備え、立派な城壁も築かれていたそうな

 

小島は最初にスクラップ記事の紹介で書いたように

 明治33年に構築された芸予要塞跡の史跡が残る周囲3kmの島です

 

明治時代の海岸要塞が完全に近い状態で残っているのは日本でここだけです

 

中部堡塁にあった28センチ榴弾砲6門は、日露戦争中に撤去され前線に送られたそうな

 そのうち2門は旅順に運ばれ難攻不落といわれた203高地の攻略に重要な役割を果たしたと云われています

 

 

 

平成25年3月より平成21~23年に亘って放送された

 NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」のロケで使用された二十八サンチ榴弾砲のレプリカが港に設置されているらしい

 

また、43年前の新聞記事では

 島には活魚料理が自慢の旅館が3軒あると書かれていたので昼食も可能かも(未確認)

 

まだやっとんかいね~(笑)

 

最後に渡る馬島は、来島第二大橋と来島第三大橋を固定する巨大なアンカレイジが鎮座する島で

 しまなみ海道の中で唯一、歩行者、自転車、125cc以下のバイクがエレベーターで島に降りることが出来ます

 

馬島の名前の由来は今治藩の放牧場があったからだそうで

 江戸時代には、島全体に牧草が生い茂り、放牧に最適の土地だったようです

 

 

なんかもう、行ってきたような気分になってきたがね

 

 もう、わざにいかんでもええかいね(笑)

 

最後に唐子浜の旧コノ瀬灯標

石鎚と赤灯台

今治市HPより

 

次回へ続く

 

 

 

 

では、またバイバイ

 

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