芸予諸島は日本最大の海賊の本拠地
海賊と聞くと、私がイメージするのは
インドネシアのマラッカ海峡などに出没して略奪や誘拐を繰り返す輩ですが・・・((;゚Д゚)
芸予諸島を掌握した村上海賊は
「襲う」「奪う」よりも、むしろ「守る」{*≧∀≦}
村上海賊の本当の姿とは?
村上海賊は、この地を渡る船の安全や祖先から受け継いだ信仰
かけがえのない穏やかな暮らしや、大名顔負けの優雅な文化を営み
そして何よりもこの美しい瀬戸内海の風景を守って来たそうな
【日本遺産 村上海賊 公式お守パンフレットより】
日本最大の海賊「村上海賊」
日本中世の瀬戸内海で活躍した村上水軍
その勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり
応永26(1419)年には、能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家に分かれて更に勢力を伸ばし
戦国時代には瀬戸内海の支配者的存在になりました
彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されており、
今も瀬戸内周辺には村上水軍の末裔が多く住んでいます
10年ほど前、週刊新潮に「村上海賊の娘」という長編歴史小説が連載されていたので読まれた方も多いかも♪
来島(くるしま)は瀬戸内海の難所である来島海峡の要に位置し、来島村上海賊の本拠地となった島で
周囲が約850mと小さいながら、急潮流に守られた難攻不落の天然の要塞でした
築城以来約160年間、6代に亘り、来島村上氏の居城でありました
全島が城跡で重要な史跡となり、櫓跡の石垣、矢竹、古井戸なども残っており
周囲の岩礁には無数の桟橋跡の柱穴もあり、当時の様子を物語ってる
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波止浜港を10時10分に出港したくるしま丸は
対岸の来島まで一直線に進み、約5分で来島旅客船ターミナルに接岸します
30分後に波止浜行きの折り返し便として帰って来ます
小島へ向かう次の第4便はちょうど1時間後の11時15分になります
来島は小さな島ですが中世には来島村上氏の居城であり
難攻不落の海の城郭としてその名を西国中に知られておりました
八千矛神とは大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名で、
松山道後湯築城の河野通助(
河野通清の子)が城の守り神として建立したと伝えられています
来島村上氏より以前に来島に河野氏が城を築いたって事でしょうか?
トイレとAEDがあります
小さな島なので案内板のようなものは多くなく
先ほどの来島城の遺構の図しかありません
滞在時間は1時間、隈なく廻れるかな?
場所は良く判らないけど・・・
島のメインストリートと思しき道を辿ってみますw
昔は観光客も沢山来たのかも知れない?
来島城址・心月庵は左へ、柱穴跡は真っ直ぐ
左に来島城の石垣跡が残っており、
石段を上がって右へ行くと心月庵、左へと登り続けると鳥居が現れます
趣のある村上神社の鳥居を潜ります
村上神社周辺が二ノ丸で、そこから下に続く平らな広い尾根が三ノ丸だったようです
さらに登り続けると標高42mの小山の頂上部分が本丸跡
こういった展望地は、よく周囲の樹木が繁茂して展望が無くなってる場合が多くありますが
この本丸跡は展望が良く来島海峡を往来する船舶もバッチリ見えます
周辺の樹木に遮られる事も無く展望は開けてます
津島には潮流信号所が設けられています
左から来島海峡第一・第二・第三大橋
塩田による製塩業が栄えると全国各地へ船で塩を運ばなければなりません
すると、船の修理も必要になり船大工が育ったといった因果関係もあるようです
また、西隣の波方町では大正から昭和の戦後まで石炭輸送が盛んで海運に使用した船の建造や修理の引き合いも多かった事が今日の造船業の発展に繋がったようです
10時42分現在、来島海峡の潮は南へ向いて流れており
手前の西水道を西航船が通っていきます
前の回でも紹介したように
特定水域航行令の指定海域の来島海峡では
海上交通安全法によって、来島中・西水道が来島海峡航路として設定され
長さ20m以上の船舶は、潮流の向きによって切り替える
順中逆西という世界唯一の特殊航法が用いられています
中水道と西水道
潮流の向きによって右側航行と左側航行に切り替わります
南と西の2枚の表示板にN(北流)、S(南流)の文字が表示されます
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第4便の出航時間まであと30分になりました
標高42mの本丸跡を後にして下ります
かつての城主館跡の心月庵に寄ります
心月庵には城主の位牌が安置され、薬師如来が祀られる薬師堂となっています
付近には空堀跡や土塁、館跡も残るそうな
石段を下り、メインストリート(笑)へ出て左へ
桟橋跡の柱穴を目指します
集落のはずれに御堂があり、六地蔵が祀られてました
ここまで集落の中を歩いて来ましたが、建物こそ建ってはいるものの
殆どが空き家で、住んで居られる家はほんの僅かです
岩礁上から見た来島海峡大橋方面
岩礁上から見た小島(おしま)方面
岩礁上から見た大三島方面
案内板が無かったので迂闊にも気が付きませんでしたが・・・
後で柱穴の説明を読むと、岩礁に開けた柱の穴という事だったので
これらの写真に柱穴も写ってるかも?
雨水を溜めてる桶を至る所で見かけました
島内の自販機はココだけかも?
缶ビールも入ってました
看板ないけど商店のようなかんじ
来島の2015(平成27)年の人口は僅か15人
5年経った現在は、いったい何人の方が住まわれて居るのだろうか?
反対側の集落も通り抜けてみました
こちらも住んでる家はほんの少しで、先へ行くほど森に還ってる(゚д゚;)
なぜかゼロになってる
立派な造りの神社です
船から確認できる場所で待ってないと、降りる人が居ない場合スルーされるかも
ここから乗ったのは、もちろん私だけ
1時間足らずの周囲850mの小さな島の探訪
海岸線も歩けるところは全部歩いたつもり(;^_^A
来島の島内散策GPSルートログ
能島、因島と並ぶ村上水軍の根拠地だった来島
来島村上水軍は、関ヶ原の戦いで西軍に付いた為、海の無い豊後の森に転封されますが
それまで6代に亘り、約160年間この島に本城を置きました
また、近代になって波止浜に塩田が築かれると
来島は塩買船や廻船の集まる港町としても繁栄したそうですが
現在は過疎化が著しく、平成17年から27年の10年間の人口減少率は49.0%
ネットで島の人口推移を調べていると
国土交通省国土政策局離島振興課の令和元年9月の資料を発見しました
来島群島(小島・来島・馬島・比企島)の概要と振興方針なども書かれてました
1977年には過疎化の中でもまだ80戸あった津島
2015年の人口は13人になってる
当時伝馬船で津島、中渡島、馬島の集配業務をされてた
島の郵便じいさんこと檜垣熊一さん
ご健在なら112歳だけど・・・
びっくりしてるかな
令和2年の今年の国勢調査ではどうなってるのだろう
来島と小島では、どちらも10人未満かな?
そうそう馬島の定期船乗り場に置いてあったJAおちいまばりの広報誌に小島の特集が載ってました
小島の人口は2010(平成22)年が25人、2015(平成27)年11人と
僅か5年で56%も減少してるけど・・・
ここには、令和2年5月末現在で
今治市住民基本台帳人口統計で
6戸7人って書かれてた!
高齢化率が高いので亡くなったり、施設に入所した人数分減少していくと・・・
瀬戸内海の島々は近い将来には無人島ばかりになってしまいそう
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2017年6月に訪れた備讃瀬戸に浮かぶ香川県三豊市の
志々島
志々島は本村、宮ノ浦、横尾、北浦の4部落に約1000人の島民が住み、島の頂上まで畑に開墾され、良好な漁場にも恵まれ、明治以降は漁業、農業で繁栄しました
昭和40年頃からは、漁業に変わり、花卉栽培が盛んになり、花の島として全国に知られるようになりましたが、人口の減少により徐々に衰退していきました
現在の人口は20人を切っており、北浦、横尾部落はすでに廃村となり、宮ノ浦、本村も多くの家屋が廃屋となってしまっているのが現状(2017年当時)でした
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国土交通省の振興方針は特にこれといったものは無く
城址等を活用した観光地化へ転換ってなってる
少子化がとまらない日本
未来に希望が持てる国に変換できれば、自ずと人口も増えて生活様式も多様化し
島の生活に価値感を見出す余裕も生まれる余地があるかも知れないけど・・・
現状では一旦すべて原野に還り、
かつて人々の営みがあった島と呼ばれる日も近いと思われる
来島城址、芸予要塞跡は整備すれば来島海峡の景観も相まって観光地化では勝算があると思われますが
住民が居なくなると定期航路の補助が無くなって運航出来無いとか新たな問題も発生するかもね
来島海峡の現在の潮は穏やかで船が揺れる事もありません
今回もお立寄り頂きましてありがとうございました
では、また
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