前にも同じようなこと書いたけど、もっと考えが整理できたようなきがするから書いてみる。


人間に向き・不向きというのは無い。

「今までどれほどその物事に対して取り組んできたか、触れ合ってきたか」である。

『マインドマップ』(トニー・ブザン、バリー・ブザン著、神田昌典訳、ダイヤモンド社)で、「脳が何かを考えるたびに、思考を伝達する回路に生じる生体電磁抵抗が減少する。これは森で小道を切り開くのに似ている。最初は下生えを刈りながら、苦労して進まなければならない。しかし、そのおかげで、2度めにその道を通るのはずっと楽になる。脳の機能も同じである。繰り返しにより、思考のパターンや地図ができれば、抵抗は減る。反復が次の反復作業を楽にするのだ。つまり、脳内の出来事は、起これば起こるほど起こりやすくなるのである。」と言っている。

これを読んだとき、何か今までモヤモヤしていたものが、一つの線でつながったような感覚だった。


「向いてない」と諦めることほど楽なことはないが、「向き」「不向き」という言葉で片付けてしまうことほど惜しいことはない。

また、『働く理由 99の名言に学ぶシゴト論。』(戸田智弘著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)では、好きなことを仕事にすることについて次のように述べている。

好きなものに対する自分の関係は、「娯楽」「趣味」「特技」レベルと3段階あり、「娯楽」レベルでは自分はそのものに対し、完全受動態であり、例えば など。
次に「趣味」レベルでは少し積極的な姿勢がある。たとえば 。
そして「趣味」からもっと積極的に働きかけたものが「特技」レベルである。

この中で、好きなものを仕事にして構わないのは「特技」レベルのものであるという。

よく「好きなものは仕事にしない方がいい」というが、それは好きのレベルの問題を抜きに言うのは愚問である。

結局、何度も書いてるけど、反復反復であることを続けた時に、それを楽しいと感じられるかどうかが問題ではないか。


人間はやっぱりひとりでは生きてはいけないと思う。


別に、特に最近誰かに助けてもらうようなことがあったっていうわけじゃないけど

人は人と関わらなければ、実りのある人生を送れない。


以前は私は特に、他人とコミュニケーションをとることに苦手意識があったため、

なるべく他人とコミュニケーションをとらなくてもやっていける職業を優先的に探していたし、

現代ではたとえひとりであっても、パソコンに向かってカタカタやれば、何でもほしい物は手に入る。


けれど20年近く生きてやっと気づいた。

そういう生き方は人間として生きていることにはならない。

それは人間として損した生き方なのではないかと。


何当たり前のこと言ってんの??って思うかもですが、

私にとっては20年前に物置の奥に置いてずっと忘れていた埃だらけの本を拾いあげ、

やっと目次を確認したかんじ。


どんなそんなビジネスも、どんな芸術も、

関わる人なしでは価値はない。

必要とする人がいてはじめて、感動する人がいてはじめて

そのものに価値が生まれ、存在意義が生まれるのだろう。


独りよがりな活動はすぐ終わってしまう。




そんなことを考えているとき、

ふと、ホームレスの方たちが思い浮かんだ。


偏見かもしれないが、彼らは人と関わりの無い生活を送っている。

というより、近くを通る人からは、彼らホームレスは存在しないもののように扱われている。

仮に学校だとすると、彼らホームレスはクラスメイトからシカトされた存在。

しかし学校を一歩出れば、その町の人々からシカトされることはないだろう。


けれど、実際ホームレスの方たちは、社会そのものからシカトされた存在なのではないだろうか。



人間が人間らしく生きるためには人とのコミュニケーションか不可欠であると考える一方で、

私の住んでいるすぐそばには、ホームレスという、社会からシカトされ、

人とのコミュニケーションをとる機会(いや彼らはそれ以前に、生理的欲求、安全の欲求も満たされてはいない)

を得られていない人たちもいるのである。














人には得意・不得意なことがある。

ほとんどの人は得意・不得意である原因を先天的・遺伝的な要因であると捉えていると思う。

けれど実際は、どれだけその人が今までそのことに携わってきたか、であると思う。

例えば、人と話すことが上手な人と、苦手な人がいたとする。

話すことが苦手な人は、「私は元々話すの苦手だから・・・」と考える。

しかし苦手な原因は、「元々」という先天的なものではなく、「元々」と考えてきたことにより人と話すこと自体を避け、経験が不足しているからなのだと思う。

一方、話すことが上手な人は今までたくさん人と話してきて、経験値が高く、その中で技術を磨いてきたにすぎないと思う。


つまり、何にしても、今の能力のみを見て、将来やりたい仕事を諦めてしまうのは、愚の骨頂であると考えるわけです。

もちろん、やりたい仕事が自分の能力に見合ったものである(得意分野と重なる)ものであるに越したことはないが、そうではないからといって、早々に諦めて大して好きではない仕事に就くより、後悔が無いだろう。

最終的に、それだけその仕事への「執念」があるか否かで、成功するか否かが決まると思う。


私の高校では、高2から文系・理系に分かれた授業が行われるため、高1の秋には、文理選択の決定をして書類を提出しなければならなかった。

高1の秋の私の成績は、比較的数学が良く、社会系の科目が悪かった。

そのため、どちらかというと文系の学部が興味あったにも関わらず、理系を選択した。

結局高2の一年間、理系の授業を受けたが、途中から自分の本当に学びたいのは理系ではないと気づき、高3で文転することとなった。

この時思ったのが、自分が本当にその学部にいきたいと思ったら、現在点数が悪くとも、一生懸命勉強して巻き返せるのだなと。

まだ受験は2年も先であるにも関わらず、自分に正直にならず高1の秋の当時の成績状況だけで進路を決めて、楽しようとしていた自分がなんと短絡的だったのだろうと後悔した。


就活の時も、高校時代の二の舞にならないようにと思う。

そして不得意を得意にするための努力をしていかなければならないと決意した。
イヤホン付けて、ボリュームをガンガン上げて音楽を聴いていないと落ち着かない。

そんな夜だ。



最近、自分が将来何に向かって生きていけば良いのかわからない。

新たな世界を垣間見る度に、今持っている自分の価値観が揺らぐ。

そしてそれは新たな憧れを自分の心に生み出し、その新しい方向に進みたいと思うようになる。

すると今までこれで良いと思っていたことがそう思わなくなる。例えば、大学での勉強など。

今大学で勉強してることは、自分が将来やっていきたいことと全然違う。

将来の夢のためには今やってる大学の勉強ではなく、別のことをやるべきな気がする。


というかそもそも、今まで何を目的に大学に入ったのか?

学歴社会だから?

給料の良い企業に入れて将来安泰だから?




給料が良くても自分のしたい仕事じゃなかったら、毎日楽しく過ごせるはずがない。

どんなに好きな仕事でも毎日楽しく過ごせるはずは無いけれど、興味の無い仕事をやるつらさはこの春休みに痛いほど味わった。

だからこそ今、自分の好きな仕事に就くべきだと自信を持って言える。

そうでないと続かないし、無理やり続けたらノイローゼになると実感した。

自分がなりたいわけじゃないが確実に就職できるという職業を選ぶのであれば、難しく一握りの人間しか成功しないが本当に自分がやりたいと思える仕事を選びたい。



でもこんなことを言えるのは、自分がまだ生活に困ったことがないからかもしれない。

今まで両親が働いた金で寝る場所も困らず、食べるものも困らず、着る服も困らず、教育にも困らず、自分のしたいことをして生きてきた。

そんな常に守られて生きてきた奴の、大して不自由の無い生活をしてきた奴の、本当の厳しさを知らない世間知らずな考えなのかもしれない。



でもやっぱり、そろそろ自分の気持ちに正直に将来を考えてみないと手遅れになるとみた。
っていうことを先ほどやり遂げてきました。

この日のためにシュミレーション、さらにどう転んでもいいように何パターンもの対応の仕方をシュミってきた甲斐があり、事は予想の範囲内に進み、完遂することが出来ました。

他人の話を聞く限り、自分は今まで頭の中でシュミレーションをしてこなかった人間のようだったのですが、シュミレーションすると余裕を持って対応できるというのを今更ながら学習しました。


やったあとにこれでよかったのかなとも思うけど、「もし今日やらなかったら…」って思うとあと10日ほど後悔の念で勉強が手につかなかったとも思うので、これでよかったんだと。


だんだん気持ちも落ち着いてきました。


結果がどうであれ、納得できそうです!!

人生には常識ばかりでないと切に願いつつ、これから知り合いのパーティに行ってきます。