2月からの春休み中の活動目標に「新たな感性に触れる」というものがあり、なるべく積極的に舞台だったり美術展のようなものに足を運んだ。


その結果、「お笑い」にものすごく魅力を感じるようになった。

芸人さんたちのプロフェッショナルな技には感動を覚え、またそれを「生」で観たときの感動はひとしおだった。

そこで、ちょっとでもそれに携わりたくなり、現在某劇場で受付兼運営スタッフのバイトをし始めた。


前の日記で「後世に残るものを作りたいのであれば、人を感動させるものを作るべきである。」と書いたけれど、実際にお客さんと触れ合ってみて、「後世に残す云々」よりも純粋に「お客さんに喜んでもらいたい、感動してもらいたい」と思うようになった。

こうやって思えるようになったことは大きな収穫だと思うし、こっちのほうが確実に楽しく充実感がある気がする。

やはり実際にやってみるかやってみないかの違いは大きい。
どんなものでも、人々に感動を与えるものでなければ、残らない。
後世に残るものを作りたいのであれば、人を感動させるものを作るべきである。



先日、ふとそんなことを思った。
私は前々から、時が経っても誰かが思い出してくれるようなものを生み出したい(つまり後世に何かを残したい)、と考えていた。
そして最近、人々を感動させることのできるものを生み出したいと考えるようになった。

しかし、「後世に残る」というのは、「人々の感動」の後に起こるものなのだと気づいた。
「人々を感動させた」後、おのずと附随してくるものなのだと気づいた。

だから「後世に残すものを創る」という目標を掲げるのではなく、「人々を感動させるものを創る」ということを目標に持つべきだ。


けれど、その「人々を感動させるものを創る」には具体的にどうすれば良いか、真剣に考えてこなかった自分がいる。

いつも抽象的なレベルで、ほわんとした形で思考を終わらせてしまっているのは自分の悪い癖だと思った。
久しぶりに日記書きます。

書きたいこといろいろあるので、徐々に書いていきます。



ところで先日ある人にインタビューしに行きました。

相手は、大学を一年間休学してアジア横断の旅に出たバックパッカーの方。


結論からして、思いの外衝撃を受け、非常に考えさせられたインタビューだった。

聞いていて途中で涙が出そうになったが、ぐっと堪えた。


内容は日本より貧しい国の現地での話であったり、宗教をもつ国、デモが行われている地域などの偽りのない現実を聞き、衝撃を受けた。


しかし内容もさることながら、今回こんなにも心に深く感じたのは、直接生で話を聞けたことにあると思う。

彼の話しぶり、表情、そして体全体から、彼が経験したものがにじみ出ており、話がリアルなものとして私の中にスーっと入っていった。


記事になってしまうと、編集者の意図で構成されてしまい、話し手の強調したいことと異なる場合がある。

また、文字にも限界があり、記事で話し手の勢いやオーラを伝えることは難しい。

しかし、面と向かって直接話を聞くと、記事では伝わらない迫力を感じることができる。


これが「LIVE」のすばらしさだと思うわけで、将来LIVEの魅力を伝えられる仕事ができたらいいなと思った。
がーん

がーーん

がーーーん・・・




なんで、

なんで、、

なんであの日にシフトを入れてしまったんだぁーーーil||li (つω-`;)il||li





ハイ、取り乱しました、、

今めっちゃ会いたい人がいまして、その人と会える機会が設けられたのですが、その日はバイトだっていうことが判明しまして、今めっちゃ落ち込んでます。。。

その日を逃したら今後会えないんじゃないかっていう・・・

これはシフトをずらしてもらうしかないのだけど、きっと難しいだろうなぁ(´;ω;`)






縁のある人とは、トントン拍子に上手いこと進むものらしいですよ。。

ふぅ・・(´・3・`)
これはこの前、テレビでプロゴルファーの石川遼が言っていたこと。

彼は17歳での日本ツアーでの活躍が認められ、4月から開催される世界最大の大会、マスターズゴルフトーナメントに特別招待された。

そんな彼は小学校の卒業文集で

『二十歳、アメリカに行って世界一大きいトーナメント、マスターズ優勝。』

と書いた。

しかし今は、優勝できるなんて全く思っていないという。

優勝するにはまだまだ足りない部分はたくさんある。

こんな状況の中、石川遼は「『無邪気な夢』を持ち続けることが必要である」と言っていた。



私はこれを聞いた瞬間、ハッとさせられ、高校時代を思い出した。

高校時代、というか中学から私は卓球部に入っており、

土日を含め週5日、試合に向けて練習に励んでいた。

そんな卓球部生活から学んだこと、

それがまさしく石川遼の言う『無邪気な夢の必要性』だったのです。


『無邪気な夢』とは、石川遼が小学校の卒業文集で書いたような、

何も知らないころ純真な心で思い描いた夢、とでも言えるのだろうか、

そういったもの。

そういう若き日の「いきおい」をずっと持ち続けることが大事だと私は学んだのです。


人が成功するって、すべて「イメージ」を思い描き続けられるかどうかだと思うんです。

どんなにマイナスなことがあって、あきらめたくなるような状況が来たとしても、その「成功イメージ」を思い続けられるか否かだと思うんです。


卓球って、メンタル面がすごくでやすいスポーツなので、
少しでも「ミスるかも」って思いながら打つと、ラケットを持つ手に力が入ってしまったり、
体が固まって足が出なくなってしまったりして、ボールがうまい具合に入ってくれないんです。

そんな時、重要なのが「成功イメージ」。

「ミスるかも」なんていう邪念は振り払い、スコアがリードされてても、自信を持って「勝てる」って自分を信じ続けなきゃ、勝てない。

私は中学一年で卓球を始め、シングルスのデビュー戦は中学一年の冬だった。

その試合が本当に待ち遠しくて。

そんな当時の私が思い描いていたのは、みんなを負かしてどんどん勝ち進んでいく私の姿だった。

結局試合当日、決勝戦に行くまでは、どんなにスコアでリードされていても、どんなにマッチポイントを取られていても、全く負ける気がしなかった。ベンチに戻り、コーチが心配してなんとか勝てるようにアドバイスしていても、私は負ける気がしなかったので「心配してるようですが大丈夫っすよ~」って冷静に聞いてた。

(この決勝戦については、また後日書きます。)


でも、試合経験を積めばつむほど、もちろん現実を知るわけで、自分の技術の足りない部分や、この相手に勝てそうか難しそうかっていうのがわかってくる。

そうすると、だんだんと成功イメージが思い描けなくなってくる。

逆に「失敗イメージ」が先行するようになる。

こうなった時に初心に立ち返り、何も知らなかった自分が無邪気に思い描いていた夢(私は「優勝すること」でした)、これを思い返して勝利のイメージを今一度心に描くことが重要なのだ。



石川遼が『無邪気な夢』と言ってくれたおかげで、私自信も無邪気だったあの頃の自分が思い描いていた夢を再確認することができた。


『無邪気な夢』を語ると、「若いね~。現実を知らないな~」って思う人は多いと思われる。

けど、そんな人たちには、無邪気な夢を持ち続けることの大切さを教えてあげたいと思う。



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