蓮は汚い泥水の中にあっても
清浄な大輪の花を咲かす
人もあの蓮のごとくあれ
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おはようございもあーす!Mahaloです。
パソコンからご覧を頂いている皆さんの中におきましては、既にお気づきの方々もおられるかと思いますが、一昨日、メッセージボードとプロフィールページの方に上の言葉と蓮の写真をアップさせて頂きました。
携帯の方からご覧を頂いている方々は多分ご覧になれないのではないかと思い、こちらの方にもアップさせて頂いたという次第なんですけれども、上の言葉は、ご存知の方も多いかと思いますが、お釈迦様の教えですね。
お釈迦様が、弟子の「ブッダよ、人の心はどのようにあるべきなのでしょうか?」という問いに対し『あの蓮の花を見なさい。蓮は汚い泥水の中にあっても清浄な大輪の花を咲かせるであろう。人の心もあの蓮の如くあらねばならないのだ』と、お教えになられたわけなんです。
ちなみに、これは過去記事でも書かせて頂きましたけれども「南無妙法蓮華経」とは、そのお釈迦様の教えに沿って生きて行きますという意味を持つものです。
それで、なぜ今回その言葉と写真をアップさせて頂いたのか?という事なのですが…
まず、前回の記事『個人セッションを終了させて頂きます』で私は『今の世は「末法」つまりは人々が正しき法を見失ってしまっている世であり、グレートスピリットの法の『文証・理証・現証』という無双の武器をもってしても全く通じない方が多いというような状況であるゆえに、グレートスピリットの法を流布させて頂く事が極めて難しい』という旨をお伝えさせて頂きました。
その状況をMahalo流に言い変えて表現しますと…
★★★★★★★★★★★★★★★★★★
「お奉行様、証拠をお見せ頂きましょうかな」
「なに?証拠と申すか…おうおうおう越後屋!!あの日お江戸の夜にパッとひらいた遠山桜!もはや見覚えねぇとは言わせねぇぜぃ!!」
「ございませんな」
★★★★★★★★★★★★★★★★★★
というようなものなんですね。
「文証・理証・現証」とは要するにこれが神意に適った真実であるという証拠であり、その証拠を示しても通用しないという話であるわけですから、これは、こちらとしてはもう立つ瀬がないというような話であるわけなんですね。
そのような有様が「末法」というものなのであると申し上げても良いかと思います。
そんな調子であるわけですから、私もそりゃ色々と智慧を絞りまくりながらこの活動をやらせて頂いております。
ちなみに私の守護霊達は『グレートスピリットを知る2』や『誤解が蔓延するスピリチュアル(前編)』などで書かせて頂いたように、私自身の修行なども重視しているがゆえに事細かな指示をしてくる事は皆無という調子が相変わらずなんですね。
実はつい先日、座談会でコラボをして頂いていた紫月さんがご厚意で私の主護霊に何かアドバイスが無いか尋ねてみて下さったのですが、返ってきた答えは…
『まあ頑張れ』のみ!
もっともこれは、私が自力でちゃんとやれると主護霊が判断しているという事、主護霊が私に任せてくれているという事なんですけれども「それにしたってもうちょっとくらいなんか無いのかよ!」みたいな(笑)
と、そんなふうな調子でグレートスピリットの法の流布の活動においては怒涛の如き試行錯誤や悪戦苦闘を重ねてきたわけなんですけれども、これまたつい先日のこと紫月さんとお話をさせて頂いていた際に、昨年(2011年)元日の記事『新年1発目は、やっぱり…』の方でお話をさせて頂いたエピソード以来1年数か月ぶりにお釈迦様御自らのお出ましを頂くという、まことに畏れ多くも有難き事がありまして『私の事を前に出しなさい』というお導きを賜ったわけなんです。
付け加えますと『それで多少なりとも人々の受け入れやすさが出るであろう』との事。
私は『多少なりとも』というところは引っかかりつつも(笑)なるほどこれは妙案だなと思ったんです。
このブログでは、少しでも皆さんの取っ付きやすさ度数がアップする事を図って、今の流行りであるスピリチュアルという言葉を前に出させて頂いたわけなんですが、まず、スピリチュアルと本来の仏教(以下:原始仏教)は別物じゃないのに、スピリチュアルという言葉に主たる意識を引かれる方々と仏教という言葉に主たる意識を引かれる方々ではタイプが異なる傾向が大いにあるんですね。
スピリチュアルも原始仏教も同じ唯一神の御心の下、私達がこの現象世界をいかに思い、いかに行いながら生きるべきであるのかという「生き方」あるいは生きて行くにおいての「法」を示しているがその主旨や本質であるのに、そこを理解できていない方々が多い事によって、スピリチュアルという言葉に主たる意識を引かれるタイプの方々の中においては主旨や本質からズレた解釈を固定概念としてお持ちの状態でこちらにかかって来られる方が多いという、こちらからしたら実にやり難い状況が現れてしまっていると申し上げたら良いかなと思います。
対して、仏教という言葉に主たる意識を引かれるタイプの方々のほうが、主旨や本質に目を向ける、あるいは主旨や本質を追究する意識が強い傾向があるというわけなんですね。
それゆえに私としては当然、仏教という言葉に主たる意識を引かれるタイプの方々のほうがやりやすさはあるわけですし、私はプロフィールページの方に書かせて頂いているように元々が原始仏教を入口としてこの世界に入らせて頂いた者でありますから、そういう意味でもお釈迦様の事を前に出させて頂く形の方が何かとやりやすい部分があり、本領の部分も発揮しやすいと思います。
というわけで、これからの活動におきましては、私ごとき未熟者にとっては畏れ多くまことに憚られる事ではありますが、今までよりもお釈迦様の事を前に出させて頂く形で進めて行きたいと思っている次第です。
最後に…愛するタマ友の皆さまにおかれましては、決して末法という暗雲に染まる事ない、蓮の花の如き自らであられます事を願うものです。
ともかくは引き続き頑張ってまいりまーす!
Mahaloでした。
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