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なまくら日記の理事長坊主

なまくら坊主が社福の理事長になりました。
なまくら坊主は、三日坊主を超えられるか?!

あそか苑で、職員研修「認知症ケア」を行った。

主催は、研修担当委員だった。


僕が前から施設内研修の充実をお願いしていたのが、

実を結んだ形だった。

たった一回の研修だが、まずは始まったことが嬉しい。


認知症は、社会的な問題になってきている。

僕も5年前に入職したときは、

その 認知症 に圧倒された。


「ほんとうに人がこうなってしまうのか。」という、

ことを目の当たりにして、恐ろしくなった。



認知症は介護施設の今後を見据えれば避けては通れないし、

そこに専門性を発揮して行くべき所である。



今日の講師の先生は、


グループホームこころあい

盛実男先生だった。


実は、8年前にお婆さまがあそか苑に入居されていたそうだ。



先生の話の中で、「認知症は性格」という言葉があった。

いい言葉である。


私も人間が時を経ることを老化というが、

老化も成長だと常々思っている。

きっと認知症も成長なのだ。


理由があって認知症になる。

その人なりの適応なのではないか。



いつか、「認知症」を「認知性」だと言える日が来るかも知れない。



                                        合掌


まじめか。。

子曰、 子の曰わく、

富與貴、 富と貴(たっと)きとは、

是人之所欲也、 是れ人の欲する所なり。

不以其道得之、 其の道を以てこれを得ざれば、

不處也、 処(お)らざるなり。

貧與賎、 貧しきと賎しきとは、

是人之所惡也、 是れ人の悪くむ所なり。

不以其道得之、 其の道を以てこれを得ざれば、

不去也、 去らざるなり。

君子去仁、 君子、仁を去りて

惡乎成名、 悪(いずく)にか名を成さん。

君子無終食之間違仁、 君子は食を終うる間も仁に違うことなし。

造次必於是、 造次(ぞうじ)にも必ず是に於てし、

巓沛必於是。 巓沛(てんはい)にも必ず是に於いてす。


簡単に言えば、

富と貴い身分とは誰でも欲しがるものだ。

しかしそれを正しい勤勉や高潔な人格で得たものでなければ、

そこに安住しない。

貧乏と賎しい身分とは誰でも嫌がるものだ。

しかしそれ相当の方法でそうなったのであれば、それも避けられない。


ということになる。


だから、その身分相応の努力を怠れば、

地位や名誉を得続けることは出来ないし、

貧乏を逃れることもできない。


要するに、


努力と地位は、それ相応の関係で成り立っているんだよ。


ということである。



私のような、馬鹿2代目は、まさにこの言葉を肝に銘じて努力することを忘れてはいけないなと。




話がそれるが、


先日友人と旅行に行った際、


旦那や嫁の話になった。


よその嫁がいいとか、


ウチの旦那が駄目だとか。



夫婦は合わせ鏡のようなもので


自分の旦那がアカンっていうのであれば、


自分を見つめ直してみればいい


きっとそれ相応の嫁でしかないし、


きっとそれ相応の旦那でしかない。


よその嫁がいいのは、


きっとよその旦那が頑張っているから。



総じて、嫁や子供、地位や名誉、


きっと分相応にしかならないのであろうな。



まだまだ、時間も伸びしろあるはずだから、頑張らねばならんなぁ。



子曰、          子の曰わく、

學而不思則罔、    学んで思わざれば則ち罔(くら)し。

思而不學則殆。     思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。


この意味は、

学んでも考えなければ意味が無く、

考えても学ばなければ危険である。


てな、感じである。



たしかに、どちらかと言えば私は後者の気がある気が。。



私のみたいにアレコレ考えてる性根の曲がった奴は、

良く学まねば道を踏み外すってこと。




ここでの「学ぶ」とは、恐らく「人として学ぶ」ということであって

現代的な科学などの学問とは

少し性格を異にするものであると思う。


私が勝手に尊敬している

京セラの創業者の稲盛和夫氏は、


心を高める、経営を伸ばす

人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力

原理原則を判断基準にする


と、強く仰るが、


経営者にもっとも必要なことは

人として成長することという考え方であり、

本当に恐れ入る考え方であるとおもう。



私も、少しでも成長し、

沢山の人を幸せにできるような法人にして、

沢山の職員を幸せにできるようにして、

私を囲んでくれる友人達もみな幸せにできるような人になりたい。


ほんとにそう思う。

ほんとにそう思うけど、


そのために頑張らねばいかん!!


というのはわかっているが、

なにぶん なまくらなもんで。。。

 米紙ニューヨーク・タイムズが年明け早々のオピニオン欄に、「日本の失敗という神話」という論考を掲載していた。日本をよく知るジャーナリストのイーモン・フィングルトン氏が、バブル崩壊後の日本は実はうまくやってきたのではないかと論じている。たとえば-。

 ≪「日本の失敗という神話」≫

 一、過去20年間に日本の平均寿命は4・2歳も伸びた。生活の洋風化にもかかわらず、今や日本人はアメリカ人よりも4・8歳も長生きである。

 一、最速のインターネットサービスが利用可能な世界50都市のうち、38都市が日本にある。

 一、失業率は4%台で、アメリカの約半分である。

 一、「失われた数十年」に、東京では150メートル以上の高層ビルが81棟建設されたが、これはアメリカの主要都市を上回る。

 一、ミシュランの三つ星店は東京には16店もあるが、2位のパリは10店である。

 いわく、「日本は失敗した国」という認識で日本を訪れると、皆アメリカ人よりいい服を着ているし、最新のいいクルマに乗っているし、「これほど多くのペットが甘やかされているのを見たことがない」と、衝撃を受けるのだそうだ。

 確かに、日本を訪れる外国人の多くが「この国のどこが不況なんだ」と不思議がるのは、よくある光景である。ただし、このような日本再評価論が登場するのは、あくまでアメリカの自信喪失の裏返しでもあることを忘れてはならないだろう。



俺もそう思う!

日本人はなんか

「マイナス思考が知的」

的な、ヘンなイメージをもっている気がする。

子曰、               子の曰わく、

吾十有五而志乎學、      吾れ十有五にして学に志す。

三十而立、            三十にして立つ。

四十而不惑、           四十にして惑わず。

五十而知天命、         五十にして天命を知る。

六十而耳順、           六十にして耳順(した)がう。

七十而從心所欲、        七十にして心の欲する所に従って

不踰矩。              矩(のり)を踰(こ)えず。



これは、有名すぎて解説する必要もないことだが、


先生が言われるには、

「私は十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばがすなおに聞けるようになり、七十になると思うままにふるまってもそれで道をはずれないようになった」


ということである。


私は、28歳だから「三十にして立つ」の直前だから、

理事長を継いだがまだまだ先代に主導権があるこの現状を

あと1年の間に解消をすることができれば、

「三十にして立つ」をクリアするわけだ。


しかし、それ以前の


「十五にして学に志す」

を忘れていたので、

「二十八にして学に志す」

に修正しなければならず。


そのところのハンディキャップを

抱えたまま三十を迎えることだろう・・・



「一生勉強」

「歩歩是道場」


よっしゃ!!

頑張ろ!!