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なまくら日記の理事長坊主

なまくら坊主が社福の理事長になりました。
なまくら坊主は、三日坊主を超えられるか?!

他人の立場に自分を置くことができ、
他人の心の動きを理解できる人は、
将来を心配する必要などはない

オウエン・ヤング

この言葉を残したオウエン・ヤングという人は、

アメリカの財政家であり法律家、外交官であった人である。



この人の人の動かし方をカーネギーは次のように紹介している。


彼はいつも自主的に仕事をやらせる機会を与えたのだ。決して命令はせず、自主的にやらせる。そして、失敗によって学ばせた。
 こういうやり方をすると、相手は自分のあやまちが直しやすくなる。また、相手の自尊心を傷つけず、重要感を与えてやることにもなり、反感のかわりに協力の気持を起こさせる。



このやり方が、すべて正しいとは限らないだろう。

待ったなしの決断を要するときに、質問で返されては部下はどうしていいかわからない。

また、経営というのは結果がすべてであり、

そのプロセスの段階ではどちらが正解かはわからないことが多分にある。


しかし、私の法人では、経営者の私より幹部のほうが

経験も知識も現在上である。

もちろん年齢もだ。


そうなった場合、

この「命令をしない」というヤングの方法は大いに参考になるのではないか。


彼らの自尊心を傷つけず、重要感を与え、協力の気持ちを起こさせるということは、

大変重要であるし、

なにより、彼らが自主的に仕事をするほうが、私の指示のもと仕事をするよりきっと創造的な仕事ができるとも思う。



私は、経営者であるが、現状、専制君主制をひき職員を引っ張っていくような剛腕はないし、

職員が惚れこむようなカリスマ性をもちあわせていない。


だから、職員と同じ方向を向き、職員の自主性を引き出し、そのかじ取り役に徹したい。



昨日、ロンドンオリンピックの女子サッカーのメンバーが発表されたが、

まさに佐々木則夫監督のような経営者になりたい。

昨日、テレビ東京系列の番組「カンブリア宮殿」にて、

「日本航空は再び大空を舞うか?!」と題して、

JALの再生を稲盛和夫氏自身の解説を踏まえて放送していた。


JALは2010年の経営破綻から2年で、

奇跡のV字回復を果たし、株式再上場を今秋行う予定である。


この奇跡は稲盛和夫氏の手腕を世間に知らしめた。



稲盛和夫氏自身が述べら荒れていたのが、

一番のJAL再生の要因は、

職員の意識改革であり、

「JALフィロソフィ」であるということであった。



稲盛氏がいう「フィロソフィ」とは、

「企業哲学」のことである。


そしてまた、

その企業がどうあるべきかということだけでなく、

その企業で働く職員がどうあるべきかということである。


稲盛氏は、JALという巨大企業しかし、親方日の丸企業に

いわば「自分たちがどうあるべきか」という方向性を示した。

ただ、それだけなのである。


ただ「それだけ」、

この「それだけ」が、一番大事なのである。


人は稲盛和夫氏を「経営の神様」という、

しかし、

「経営の仏様」という方がしっくりくると私は思う。

先日、税と社会保障の一体改革法案の衆議院における採決が行われた。

そこでまさに、今の政権与党の民主党のお家騒動が勃発している。


私の立場では、

「社会保障費の確保」=「我々のお給料の確保」

ということであり、他人事ではない。


もちろん、私個人の意見として、

「社会保障費を消費税で賄うこと」

「支出を切り詰めない間に、増税をしてしまうこと」

など

に、大いに疑問はある。

しかし、そんなこと言ったってお金がなければはじまらない。

わけで、とりあえず、どうにかして、税収をあげるべく、

国民が一番納得する「社会保障」の名前を借りたのであろう。

次は、本当の財政健全化を行ってほしい。


今回の民主党の動きは本当にお粗末だった。

なんというか、「稚拙」という言葉が、

これほどまでにしっくりくることはなかなかないだろう。

特に、民主党のお家騒動は、

「政権交代」という共通目標がなくなった後の民主党がただの「集団」「烏合の衆」であったことを露呈した。


今回のタイトルにさせてもらって、

「集団と組織」であるが、


集団とは、



  1 人や動物、また、ものが集まってひとかたまりになること。また、その集まり。群れ。
  2 なんらかの相互関係によって結ばれている人々の集まり。 
                                     大辞泉より

組織とは、


    一定の共通目標を達成するために、成員間の役割や機能が分化・統合されている集団。

    また、それを組み立てること。「組合を―する」「全国―」
                                      大辞泉より


つまり、

「集団」+「共通目標」+「役割分担」

となる、


共通の目標がある集団とない集団では、その行動力に大いに差ができてしまう。

団体競技で、チームが勝つことに全員が力を合わせているチームと「個人タイトルを取ることに躍起になっている選手が集まるチーム」の違いが歴然なように、

一人一人の力が同じ方向に結集したとき、1+1は5にも10にもなるのである。

だから、良い集団を作ろうと思った場合、能力の高い人間を集めるのではなく、

皆で共通の目標を抱けるように意識統一を図ること、そして、そのためのコミュニケーションや研修体制が大事なのである。

「可能性のある人間の邪魔をしない。」   

         盛和塾山陰 ダックス株式会社 会長 大畑憲


自分より可能性のある若者を育て、自分は吉田松陰役に徹する。という思いをもってすばらしい人材を育てて、大いに成功されているお話を伺いました。


自分の魅力のなさに日々嘆く私にとっては、


昨日の部下をしっかりと魅了して自分の分身にしている大畑会長が


眩しすぎて、胸が痛くなって、車座まで参加することなく、


会場をでて、車を走らせながらいろいろと考えて帰ってきました。




大家族経営を目の当たりにしました。


自分にあそこまでの人間力があるのか、否。


どうすればいいのか。



大畑会長が紹介してくれた言葉ですが、


「己よりも、賢明な人物を集めし方を知る者、ここに眠る。」


これは、鉄鋼王 アンドリュー・カーネギーの墓に刻まれた一文ということでした。


能力も魅力もない人間、


それでも、この組織を引っ張って行かねばならない


職員とその家族の生活を守らなければならない。



やはり「心を高める」ことが「経営をのばす」


日々精進します。

ハンセン病 


みなさんはご存じでしょうか?


私は、正直あまり知らずに、あまり関わらずに生きていきました。



ハンセン病は、

癩病ともいわれ、

差別の対象となった病気です。


私は、差別の問題に関して、

「寝た子は起こすな」論者なので、

ここに書くことをためらっていますが、

愛生園で出会った人が、

少しでも人に伝えて欲しいということを

言われていたので、少しお話しようと思います。




ハンセン病は、感染病です。

しかし、とても感染力が弱く、

普通は発症しません。



ごく希にその菌に対する免疫がない人が、

戦後の日本のように劣悪な栄養状況等で、免疫が下がったりしたとき、

発症することがあるということです。


今では、経済的に恵まれず、栄養状態が悪く、

上下水が整備されていない国以外での新規感染者はほぼありません。


2007年以降日本人の新規患者数は基本的に0であり、

日本人の栄養状況や生活環境を考えれば、感染することはありません


そして、万が一感染しても完治します


このことをまずちゃんと理解してください。






一昨日、知り合いからハンセン病療養所の愛生園に行かないかと連絡があった。


感染することはないということは聞いてはいたが、

“ハンセン病”には、関わることなく生きてきた私は、

二の足を踏んだ。

「少し予定を見てから返事します。」と伝え、

急遽情報収集を行った。


私は、ネットで調べてやはり感染することはほぼないということを確認したが、

それでも、その差別の歴史や症状のことを考えたり、

世界ではまだ患者がいることを考えると正直怖くて、

「連れて行ってください。」という返事をするまで、時間がかかった。




車で向かう中、ハンセン病のこと、その差別の歴史を聞かされた。

本当に、むごい話であり、気が重くなった。



療養所がある島に近づくにつれ、

ただの田舎ともちがう、なんとなく異様な雰囲気になっていった。


ハンセン病療養所がある島は、岡山県の瀬戸内にあるが、

そこには邑久長島大橋という、30㍍しかない“大橋”が架かっていた。


この邑久長島大橋は、昭和63年に建てられた橋であり、

その建造物の大きさではなく、

差別されてきた人たちの苦労の大きさ・願いの大きさを“大橋”と表したそうである。


そこに感じ取れる断絶の歴史のことを感じるとまた胸が痛くなった。



そのあと、光明園・愛生園と、2つの療養所があるが、

どちらも 仮設住宅 を並べたような、雰囲気の建物が広がっていた。



最初に連れられたのが、

監房だった。


監房は、その当時は園長の判断でいれることが可能だったそうである。

そこには、当時の監房に入れられた人の落書きがそのまま残っていた。

そんな人権なんて関係ない治外法権的な場所だったということである。



そのあと、一呼吸おき、島にある浄土真宗の会館に連れて行ってもらって、

桜がちょうど満開で、そこの世話人の方と花見をすることになった。

70歳を過ぎた2人の爺ちゃんだった。


とても記憶が鮮明で、

自分の半生、ハンセン病の歴史、長島愛生園のことを教えてくれた。

返事の言葉が思いつかないほどのことを語ってくれた。


しかし、ここで一緒に花見をしながら酒を酌み交わしてくれている

2人の和やかな笑顔をみていると、なんだか信じられないような話だった。



そのあと、歴史館や恵の鐘、納骨堂を案内してもらった。

そして、収容所・感染者の子供達が通った学校をみせてもらった。

そこは、私たちの住むところとは違うような、同じような、ところだった。



その後、また、2人と晩酌をした。

そこに、インドネシアからきた看護師が参加した。

なぜか 24歳のかわいい女性が三線を演奏してくれた。


ほんとうに不思議な時間だった。



翌日、治療棟を案内してもらった。


昨日の元気な2人とは違う。

重度のハンセン病の方にであった。


2人とも失明されていて、手の指もなかった。



その後、もう一人、このハンセン病のことを自ら綴る在日韓国人の入居者を紹介してもらって、帰路についた。





とても、不思議な24時間だった。


多くのことを考えさせてもらった24時間だった。


今の思いをここで書くことは控える。



こんな生半可な知識と感情を

ネットにダイレクトにぶつけることは出来ない。


思うところはたくさんあったし、

私なりに感じたこと、考えたことはたくさんあった。

けど、今の想いをそのままここに書くことは良くないと思う。



消化不良だが、

こんな時系列のみの報告で終わろうと思う。





しかし、また行こうと思う。

また行って、ちゃんと理解して、また皆さんに自分の思いや考えも含めた報告をしようと思う。