建仁寺境内さんぽ♪赤松円心のお墓の話♪【建仁寺境内♪】 | 『エアで行く京都めぐり』大田垣晴延のblog♪

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花見小路
いっつもより全然少ないケド人通りが絶えへん…
サスガに祇園で人がいぃひんとかあれへんし
(((^^;)


八坂神社はアキラメて
モト来た道
団栗通を西へと引き返して
 残念やけど無謀やったゎ
((((((;*≧∀≦)ゞ
 しょーがないよね


その左手(南側)、

いっつも人が少ない
建仁寺
その塔頭・興雲庵の間の道に逃亡~♪
ε=ε=(ノ≧∇≦)ノ
左手(東)が建仁寺(本坊・方丈)で♪

右手(西)が
陀枳尼(ダキニ)天を祀ってる
興雲庵
団栗通は建仁寺境内の北辺やから♪
この界隈はもぉ
建仁寺境内


たいがい花見小路に人が流れるせぃやろか
だいたい人少なめで
しかもエエ風情で好きな道🎵(*´∀`)♪
石畳がエエカンジでしょ♪
(*≧∀≦*)♪


築地塀に沿って南へ♪
雲間から注ぐ光の糸をたぐって歩く先、
右手(西)の塀の終点は

めっちゃ広ぉ~~いトコ🎵
ココにも
ボクらを誘うみたいな光の糸♪キラキラ
左手(東)の築地伝いに
石畳の上を行くと、

その屈折した先
築地の向こう…


巨大なお堂が出現🎵
建仁寺 法堂

このまま石畳を東へたどったら
アノ廊下の左手(北)に
方丈(本坊)の入口♪
右手にぐる~~~~っと見渡して、
法堂の北の石畳を西へたどると

堆雲軒
建仁寺歴代住持の退隠所やった塔頭なんやて
(*´∀`)

法堂の西側を南下しながら
ふりむき加減に

左へ見渡したりして
人がいぃひん解放感をタンノウして🎵
ヽ(*≧∀≦*)ノ
まだヤバいウイルスひっつけてへんチャイニーズが京都を蹂躙してた時も、人ゴミ避けてココ(建仁寺)に逃げ込んでたん♪
人が多少増えたかて建仁寺境内は広ぉて密にならへんし

法堂の南の石畳♪
右手(西側)には

江戸時代の大名・奥平氏が建てて
その菩提寺でもある塔頭
久昌院非公開やし中は見れへんケド

奥平氏はモトは上州(群馬県)発祥で、戦国時代は東三河の豪族♪
織田・徳川連合軍が武田軍を撃破した長篠の戦いで長篠城を守った奥平信昌(法号:久昌院)が徳川家康の長女(亀姫)を娶ったから、信昌の子孫は家康の子孫でもあるケド、
奥平氏の先祖は赤松氏の一族て云われてるん♪
武蔵七党の1つ児玉一族て説もあるケド

赤松氏は、室町幕府の四職家(侍所の所司職に交互に任じられた一色・山名・京極・赤松の4氏)の1家♪
モトモト播磨(兵庫県)の山田一族・宇野氏の分家の1家で小さい村を領有するだけの小豪族やったんが、
赤松円心(則村)が挙兵して鎌倉倒幕に奮闘♪足利尊氏を助けて室町幕府創設に貢献♪播磨守護職、侍所の所司職に任じられて守護大名に急成長した結果、赤松家がこの氏族(山田流宇野氏族)の宗家みたいになっちゃったん♪
赤松円心(則村)のお墓は、円心が京都・七条の屋敷で亡くなって、円心自身が建仁寺境内の東南部に建てた塔頭・大龍庵にあったんやけど…
大龍庵が廃亡しちゃって、お墓も荒廃して六道珍皇寺付近に墓石が転がってたんを富岡鉄斎(明治・大正期の文人)が見つけはって、
同じ赤松一族やから、ゆうてココ・久昌院に改葬しはったんやて♪

その久昌院の築地塀が
石畳と並走するみたいに延びてく
その向こうに、屈折したトコ…?

…近づいたら、
こんなん
まっすぐ南下する道と、

左手(東)へ行く道♪
ココを東へ行ったら、

三門(望闕楼)の前に出るん♪
闕=皇居をノゾく楼閣!? (*≧∀≦*)ゞ
右手に見渡して、
南下続行🎵
((((*≧∀≦)ノ

三門の南に、池と石橋♪
サラに南下したら、

境内イノシシだらけの塔頭
禅居庵の門♪
ぐる~~~~っと左へ見渡して、
ココで左(東)へ行ったら、
ヽ(≧∀≦*))))
左手(北側)に、
さっきの望闕楼コト三門が正面に🎵
ソコからつづく石畳、
たどって
その先には
勅使門🎵

ココからふりむくと、

まっすぐ北に三門🎵
そのサラに北に
法堂、本坊(方丈)て一直線に並んでるん♪


勅使門は、
名前の通り天皇か勅使しか通れへんし
いっつも閉まってるん
ボクらはその脇の
イカにも通用門てトコから…
通用門から出たら
エエカンジの生垣の道🎵

建仁寺の南辺
八坂通に出た♪
アッチ(右手)が西で、

コッチ(左手)が東♪
道路(八坂通)の南側に渡ると、

八坂通の名前で
思いつかはりそぉな建物がこの先にあるん

わからはるやろか…?
(((^^;)



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(σ≧▽≦)σ