オラフはこの映画では脇役に過ぎないが最も重要なキャラクター。
Some people are worth melting for
雪だるまのオラフが凍えるアナのために暖炉に火をくべて助けるシーン。
暖炉の火で溶け出すオラフにアナが「溶けてしまうわ」と言うとオラフは答える「溶けてしまうだけの価値のある人間ているもんだよ」。
日本語字幕では「君のためなら溶けても構わないよ」となっていたけど、原語の方がすっと意味深い。
オラフはアナのためだと言ってるのだけど、直接、君のためとは言わない。
アナは溶けてしまうだけの価値のある人間が自分であるともちろん気付くわけだけど、オラフの遠まわしの表現の中で自分のことだとわかった時、その心情はたぶん、君のためと言われるよりアナにはぐっと来るに違いない。
この直後のアナの優しい安堵に満ちた笑顔のシーンがぐっと活きてくる。

外国映画のセリフがいつも粋に聞こえるのはこうした比喩的な表現が豊かで自然だからだ。

映画って観ていると本当に楽しい。



執筆:永田喜嗣


この記事は映画『ジョンラーベ~南京のシンドラー~』の分析です。内容には若干の「ネタバレ」も含まれますので、8月の東京での第二回目上映で鑑賞される方は記事を読むにあたってそのことをご了解の上お読みください。(筆者)

  2009年5月17日、東京両国の江戸東京博物館ホールにて「南京・史実を守る映画祭」実行委員会主催によって特別上映された2009年のドイツ・フラン ス・中国の合作映画『ジョンラーベ~南京のシンドラー~』。この映画上映の冒頭には監督であるフローリアン・ガレンベルガー氏のビデオメッセージが付加さ れていた。このメッセージでガレンベルガー監督は何度も映画は日本と日本人を非難する意図のものではないと語っていたのが印象的であった。この言葉は日本 人の観客に映画が反日的に映ること、あるいは気分を害するかもしれないという点に氏が配慮した発言であったとも考えられる。

 しかし、額面通りその言葉を受け取るとすれば我々は『ジョンラーベ~南京のシンドラー~』のもう一つの主題をそこに見出すことができるのではないか。

  映画は南京事件を描き、南京を攻略した日本軍による暴虐を描いている。主人公、ジョン・ラーベを始めとして南京に留まった欧米人たちは結束して日本軍の暴 虐、あるいは戦火から無辜の中国人市民を守ろうとする。その戦いを描いたのが『ジョンラーベ~南京のシンドラー~』である。

 間違いなく これがこの映画のメインテーマでありメインストーリーである。ガレンベルガー監督の「日本人を非難する意図ではない」という言葉を持ってしても映画はあく までも日本と日本人に対して批判的である。あえて、ガレンベルガー氏が述べた通りこの映画が「日本人を非難する意図ではない」だとすれば、この映画の批判 対象は何であったかについて思い巡らされるのである。
それは何であったのだろうか。
その答えを導き出す鍵を握るのは劇中に登場するラーベの「握手」なのである。

  映画の冒頭はラーベが蓄音機に針を落とすシーンから始まる。流れ出る音楽はドイツ国歌。その建物の外ではラーベの運転手、チャンがナチスの国旗であるハー ケンクロイツを掲揚する。カメラはその旗を捉えた後、ラーベが社屋へ入ってゆく姿を追う。メインタイトルの後、ラーベの妻ドーラと使用人が画面に登場す る。南京のラーベの「一家」がまず現れ、初めて登場する外部の人間はラーベの後任者としてやって来たドイツ人、ヴェルナー・フリースである。ラーベとフ リースはヒトラー式の敬礼と握手をする。映画でラーベが外部の人間と最初に接触するのはこのフリースなのである。
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  フリースは筋金入りのナチス党員である。ラーベが中国人秘書のハンを紹介しても「ハイル・ヒトラー」と言うだけで握手はしない。ナチス党員であるフリース は完全な人種主義者でアーリア人種以外の民族を認めようとはしない。ラーベもまたフリースと同じナチス党員なのだが、フリースのような極端な人種主義的思 考はない。彼は中国人を少なくともフリースよりは認めているのだ。しかし、この二人の間に存在する共通点が二人に握手させているのだ。それはジーメンスの 社員であるということ、ナチス党員であること、そしてなによりもドイツ人同士であるという点である。

 続いてラーベが握手をする人物は送別会の会場で勲章を授与する中国の将軍(ガレンベルガー監督はこの人物を蒋介石としているが、劇中での役名は単に中国の将軍となっている。)である。
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  続いてのラーベの握手は南京を占領した日本軍を代表する朝香宮中将なのだが、この握手はフリースや中国の将軍とのそれとは違い、友愛の挨拶としてではな く、闘いの火蓋を切る挑戦的な握手である。ドイツ大使館の外交官、ローゼン博士から握手をするかどうかは朝香宮が手を差し出すまでは待つようにと指示され たのにもかかわらず、ラーベは鋭い視線を朝香宮に向けつつ自ら決然と手を差し出すのである。
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  朝香宮に差し出されたラーベの右手は明らかに挑戦を意味するものであったが、友愛と和解を意図しながら差し出すもそれを拒否した人物がいる。ナチを嫌うが 故にラーベをも嫌うアメリカ人医師のロバート・ウィルソンだ。彼はラーベが差し出した右手を無視して立ち上がり、握手の代わりに右手を高々と差し上げて 「ハイル・ヒトラー」と言ってラーベの元を立ち去る。
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  劇中でラーベとウィルソンは和解してゆくのだが、最後までこの二人は握手をする事はないままに終わる。ウィルソンに差し出されたラーベの右手は拒否された まま解決されない。ナチスを嫌うアメリカ人としてのウィルソンはラーベが好人物である事が理解出来ても決してナチスとは手を握ることはないのである。ラー ベが南京を去るシーンにおいてもラーベとウィルソンは握手を交わさない。
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 ラーベが南京を去ろうとする瞬間で映画の冒頭でラーベと握手をしたナチス党員のフリースは朝香宮と握手をしている場面が登場する。
  ラーベはそれを横目で見ながら去ってゆくのである。ナチスを代表する人物であるフリースと日本軍を代表する人物である朝香宮が握手をする事は1937年当 時の中国の歴史的な状況を示すものでもある。この二人の握手はヒトラーが彼のための影の外務省を運営するフォン・リッベントロップに命じて進めさせたナチ スの親日路線、日独防共協定が確実なものになったことを意味しており、それを横目にラーベが去ることはドイツ外務省が推し進めてきたドイツの親中路線で あった中独合作が敗北したことを示しているのである。

 ラーベたち親中派ドイツ人は完全に敗北し、中国を追われるのである。フリースと朝香宮の握手はやがて、その後にやって来る第二次世界大戦という未曾有の人類の悲劇を招く全体主義国家、ナチス・ドイツと日本との連帯を暗示している。

 この映画の終幕で最後にラーベが向き合い、固い握手を交わす人物がいる。
ド イツ大使館の外交官、ゲオルグ・ローゼン博士である。ラーベとローゼンの握手は劇中、これが最初で最後である。劇中の冒頭でナチス党員のフリースとの握手 に始まり、ラーベの最後の握手はドイツ系ユダヤ人であるローゼンと交わされるのである。ローゼンはラーベに言葉少なく「ありがとう」と告げるのみだが、二 人の握手は大きく画面に現れる。劇中でラーベの握手がクローズアップされるのはこの場面のみである。
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  ラーベが最初にナチスのフリースと握手を交わしたその右手で、最後にはユダヤ系であるローゼン博士と握手を交わす。この握手でラーベはナチズムを完全に捨 て去って、波止場では救った無数の中国人からの賞賛の歓声を浴びるのである。南京を追われる敗北者としてのラーベは一転して勝利者として去ってゆく。全体 主義と人種主義に背を向けた者は英雄として迎えられるのである。
ガレンベルガー監督が指弾しようとしたものは何であるのか。彼の言葉通りそれは日本そのものでもなく、日本人そのものでもない。それはヒトラーのナチズムであり、日本の天皇制ファシズムであるにほかならない。

  『ジョンラーベ~南京のシンドラー~』はラーベとフリースの握手に始まり、ラーベとローゼン博士の握手に終わるというナチスを巡る物語とし、反ナチ映画の 体裁を主軸に据えた構成で、その中に朝香宮を中心とした天皇制ファシズムの問題を加えた「全体主義への抵抗と蜂起」を中心テーマにした作品なのである。
 し かも、そこにはナチズムと天皇制ファシズムを注意深く観察しているアメリカの視点と態度(ラーベとは決して握手しようとはしないウィルソン医師)やドイツ と何とか平和を保とうとするフランスの態度(ラーベとウィルソンの間に立つフランス人、ヴァレリー・デュプレ女史)も組み入れられ、1937年という時代 の全体主義世界を巡る国際的な状況を登場する人物に託して描いているのだ。

映画『ジョンラーベ~南京のシンドラー~』は抗日映画的な構成による枠組みの中にナチズム批判を主軸に据えた他に類を見ない特異な映画作品なのである。


執筆:永田喜嗣


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5 月17日、東京両国の江戸東京博物館ホールで2009年のドイツ・フランス・中国合作の映画『ジョン・ラーベ 南京のシンドラー』(原題:JOHN RABE)の日本初の公開上映会が開催された。主催は「南京史実を守る会」。筆者も上映会と同時に開催された記念シンポジウムにも参加して来た。

会場に到着したのは9時半頃だったが、既に当日券を買い求める人の列が出来始めていた。
話によると前売り券は完売、50枚用意されていた当日券完売も時間の問題で、先着順になっているのだという。
こんなにも話題になるとは本当に驚いた。

第一回目の上映ではもちろん満杯だった。
反響がこんなにも大きいことに驚いていた。もちろん、主催者である「南京史実を守る会」のスタッフの熱意と努力の賜物なのだが、それにしても関心を抱く人がいればこその大盛況でもある。

どうしてこんなにも多くの人がこの映画に惹かれたのだろうか。
日本では2009年以来、殆ど、いや、全く話題にもならなかった作品である。
もちろん、ジョン・ラーベという人物でさえ、話題にも登らなかった。
ラーベに関してはその日記が出版され日本で邦訳版が発売された1997年頃は少しは話題にもなった。しかし、その日記の邦訳版『南京の真実』(講談社版)ですら現在では絶版になっている。再び忘れ去られたのである。
そんなジョン・ラーベの映画がこんなにも人々の関心を呼んだことが私には驚きであった。
その理由についてはもう少し考察しなければならないが、やはり、ひとりの人間が多くの人々のために立ち上がり、その命を救ったという物語は多くの人たちに関心を持たせるのだろう。
ラーベはその活躍の割に殆ど歴史上、語られない人物だった。彼は殆ど無名に近かった。
引 き合いに出されるユダヤ人をナチの手から守ったオスカー・シンドラーと同じく、彼はその行為に対して戦後、殆ど評価を受けることもなくひっそりと世を去っ ていったのである。その後も評価を受けるどころか長い間発見されることもなかった。その理由は幾つかある。南京からドイツへ帰った後、南京事件関連の講演 会を行いゲシュタポ(ナチの国家警察)に逮捕され、以後、南京事件について語ることを禁じられたこと。このことが原因で海外へ左遷されてしまったこと。戦 後はラーベがナチ党員であったため、極力世間に出ることを躊躇したこと。そして、日記を自ら封印していたこと。東京裁判での証人への出廷を拒否したことな どである。
ラーベの死後も、彼がナチ党員であったために辛酸を舐めた家族によって日記が封印されていたために、更にラーベが世間に知られることがなかったのである。

このようにジョン・ラーベは無名戦士なのだ。

ジョン・ラーベの無名性、それに対する彼の活躍の足跡・・・その意外性は一つの関心を生む要素でもあるのではないか。
南京で20万人の命を守った人物が殆ど無名であったという意外性である。

そうした意外性と共に封印されていたラーベとその周辺の歴史を紐解いてくれる映画。
やはり、関心を抱かざるを得ないだろう。

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第 1回上映の後に行われた「記念シンポジウム」ではラーベの実相についての話題も出た。映画に対して実際のラーベとはどの様な人物であったのか?短い時間の 中でジョン・ラーベという特異な人物について全てを語る事は出来ない。しかし、シンポジウムで少しお話したことと絡めてラーベという人物について少し書い てみよう。

 ラーベが海外生活が長く幾多の外国人と交わりながら過ごしてきた経験から彼は極めてコスモポリタン的な性質を持った人で権力 に対しては余り頓着しない性質を持っていた。そのことから権力や権威を嫌い、それには状況といった全く空気を読まずに果敢に闘いを挑む。この辺の説明はな かなか難しいのだが、ラーベには驚く程子供っぽく夢想家的な英雄志向があった。そのために彼は権力や権威に遠慮はしない一面を持っていた。
 反 面、彼は勲章を好み、ヒトラーを尊敬し、不法に侵入して来る日本兵をナチのハーケンクロイツの腕章を見せて追い返したりする。彼の権力や権威を嫌う性質と は明らかに矛盾するものだが、ラーベの中では整合性が取れている。ラーベにとっての嫌悪すべき権力とは、それによって自分よりも弱いものに圧力をかけよう とするものなのである。そういう権力や権威に対してラーベは嫌悪を感じ、果敢に挑んでしまう。それがラーベの中にあるヒロイズムなのである。
 ラーベの日記を編集したエルヴィン・ヴィッケルトはラーベをナチズムを理解しなかった博愛主義者とし、ラーベの日記を自著で紹介したアイリス・チャンはラーベを「中国のオスカー・シンドラー」と呼んだ。
 しかし、私は自身の論文の中でラーベを「南京のドン・キホーテ」と位置づけている。
 そんな横紙破りなラーベを偶然にも南京安全区国際委員会の委員長に周囲が推薦したことが20万人もの人命を救う結果に繋がったとも考えられるだろう。
 権力や権威に顔色を伺い、状況を絶えず気にしているような人物がもしも、委員長になっていたらとしたら、「南京の奇跡」は起こらなかったかもしれない。

 もっとラーベについて語りたいところだが、この辺にしておこう。
 映画の第二回上映が8月に東京で決定しているとのことであるし、ネタバレになってもいけないことだし。

 ネタバレにならない程度にまた、映画『ジョン・ラーベ 南京のシンドラー』とその周辺について書いてみたいと思う。


筆者:永田喜嗣

1937年12月・・・日中戦争の最中の中華民国の首都南京。迫り来る日本軍を前に南京に留まった欧米人たちが南京城内に安全地帯を作り、無辜の市民を守 ろうと立ち上がった。 そのリーダーは不屈の精神を持ったドイツ人、ジョン・ラーベだった。『ジョン・ラーベ 南京のシンドラー』はそのジョン・ラーベを主人公にした2009年公開のドイツ・フランス・中国合作による劇映画だ。
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5月17日、東京は両国の江戸東京博物館ホールにて、日本では公開が見送られてきた2009年のドイツ・フランス・中国合作映画『ジョン・ラーベ 南京のシンドラー』(原題John Rabe)が一日だけのプレミアム上映される。
主催は未公開の南京事件関連の映画を積極的に取り上げて公開してきた「南京史実を守る会」である。
日本で上映されることはよもやあるまいと筆者は思っていただけに驚いた。上映に漕ぎ着けた同会のスタッフは実に数年かかりの粘り強い交渉を重ねてきた上でのことなのだという。

映画『ジョン・ラーベ 南京のシンドラー』はジョン・ラーベが書き残した日記から着想され、新進気鋭のドイツ人映画監督フローリアン・ガレンベルガーが自ら脚本を書きメガホンを取った。
スタッフは主にドイツ人が中心であり、国際合作映画ではあるものの位置づけとしてはドイツ映画になる。
主演ジョン・ラーベを演じるのはドイツの国際俳優ウルリッヒ・トゥクル。日本では『善き人のためのソナタ』(2005)位しか馴染みの薄い俳優だが、ドイツでは誰でも知っているスター俳優である。
脇を固めるのは『グッバイ・レーニン』のダニエル・ブリュール、アメリカからは『レザボア・ドッグス』のスティーヴ・ブシェミ、フランスからは『愛されるために、ここにいる』のアンヌ・コンシニ、日本からは香川照之、杉本哲太、ARATA、柄本明が出演している。

南京事件を取り扱った劇映画は主に中国で制作されてきたが、欧米が制作するのは恐らく本作が最初である。
しかも、ナチス時代の自国の戦争犯罪と歴史問題を直視し続けてきたドイツによる視点である。
もちろん、ナチスにおける諸問題もきっちりと描き込まれている。

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ジョ ン・ラーベ(John Rabe)は1937年当時、南京のジーーメンス支社を預かるドイツ人ビジネスマンだった。彼はナチス党員でもあり南京のナチス党部会(オルツグルッペ) のメンバーでもあった。反ユダヤ主義を掲げるナチス党の党員でありながらラーベは国際感覚を持った博愛主義者で、南京国際安全区委員会の委員長役を引き受 け、市民を戦火から守るべく奔走した。ラーベたちの活躍により実に20万人もの中国人たちがその命を守られた。

ラーベは二巻からなる日記を残しており、この映画はその日記から着想されて制作された。(ラーベの日記はこの映画の原案であって原作ではないことに注意が必要)

書 きたいことはいくらでもあるが、筆者がジョン・ラーベについて書き出したら止まらなくなるのと、映画のネタばらしにもつながるので、ここでは詳しく述べな い。あとは映画を観ていただいて、日本語にも翻訳されているラーベの日記(講談社刊『南京の真実』)をぜひ読んでいただきたいと思う。

上映会での第一回上映には特別シンポジウムも開催され、筆者もパネリストを務めさせていただく予定だ。

恐らく今回の上映を逃せばこの映画を観る機会はなかなか巡っては来ないと思う。

この機会に幻の本作を多くの人に鑑賞していただきたいと願っている。

『ジョン・ラーベ 南京のシンドラー』公式HP


筆者:永田喜嗣








スタンリー・キューブリック監督の『博士の異常な愛情』におけるストレンジラブ博士の名前の由来について・・・。
ピーター・セラーズが演じるこのマッドサイエンティスト(セラーズはこの映画で大統領、英国空軍将校、ストレンジラブ博士と一人三役で出演)はドイツ人で戦後、米国に亡命して帰化したという設定になっている。
頭脳明晰で天才だが奇行が目立つ。
思わず右手を上げてハイル・ヒッ・・・・と叫んだり。右腕のコントロールを失っていて自分の右手に絞め殺されそうになったりする。
彼はヒトラーのブレインだった。
その癖が抜けず、大統領に向かって、Mein Fuehrer...(総統閣下)などと呼んでしまう。



彼の名前はストレンジラブ。Strangelove. この奇妙な名前は彼がアメリカに帰化した際にドイツ語の名前をそのまま英語に訳したからだと作戦鍵室で大統領の隣に座るスティンズ(ジャック・クレリー) がタージドソン将軍(ジョージ・C・スコット)に語る。その元のドイツ語名はどの作品解説を読んでも "Merkwürdigliebe" となっている。merkwürdigはドイツ語で奇妙な独特で奇異なを意味する形容詞だ。Liebeは「愛」だから、奇妙な愛=Strangeloveと なるわけだ。
ところが映画のオリジナルテキストは 実は"Merkwürdigliebe" ではない。 "Merkwurdichliebe" となっている。スティンズも元の名を英語式に「メアクウリュディックリーベ)と発音している。merkwurdichという単語はドイツ語には存在しな い。奇妙なを意味するドイツ語はmerkwürdigだ。
おそらくはオリジナル英語テキストでは間違えてmerkwurdichとしたのかもしれない。

あるいはMerkwurdichliebeが正解で、ストレ ンジラブ博士自身が帰化するときに出来るだけ英語に訳せる単語に自分の本当の名前を現存する類似したドイツ語単語に置き換えたという設定であったかもしれ ない。キューブリックがミスをするとも思えないので、後者が当たっているのではないかと思う。
映画解説をする者たちがMerkwurdichliebeを修正してMerkwürdigliebeに変えて伝えているのだろう。
ドイツ語版の『博士の異常な愛情』ではストレンジラブ博士はSeltsam博士という名前になっている。seltsamとは奇妙な、珍しいという意味の形容詞だ。

ドイツ版ではSeltsam博士の元の名はMerkwürdigだったとされている。
ドイツ版ではMerkwurdichliebeのMerkwurdichの部分を正しいドイツ語のMerkwürdigに置き換えているのである。

後世の映画解説者がオリジナルテキストのMerkwurdichliebeという名前に修正変更してMerkwürdigliebeと伝えていても特に問題とは言えないかもしれない。
しかし、ストレンジラブ博士が英訳不能のドイツ名Merkwurdichliebeを、意味としてドイツ語のMerkwürdigliebeに当てはめた 上、さらにそれを無理やり英語訳にしてStrangeloveになったという設定がオリジナルとするなら、

ストレンジラブ博士のマッドさが更に強調されて いて観る側にとっては更に納得という美味しさが失われるかもしれない。

その辺はみんなでキューブリック氏に確認しておくべきだったことだと思うのだが、いかがなものか?

執筆:永田喜嗣


2014年4月15日 2:29

チャーリー・チャップリンが演じる独裁者ヒンケル。

最もヒトラーに似ていないが、最もヒトラーの本質を捉えていたのがチャップリンの『独裁者』だ。

『独裁者』はチャップリンにとって初の完全トーキー作品だった。

映画作品として決して完成度が高いとは言い難い。

サイレントとトーキーの狭間に揺れて時折、さ迷っている様にも見える。サイレント喜劇なのかトーキー喜劇なのかはっきりしない。

チャッ プリンのサイレント喜劇的な描写では俄然、リズムがよくなるがトーキーになるとそれは途端に緩慢になる。こうした弱点を持ちながらも、この映画は強い力を 持っていた。前半、チャップリンが演じる独裁者ヒンケルの演説シーンはまずこの映画の秀逸なシーンだと言えるだろう。延々とワンカットで撮ったチャップリ ンのヒトラー風の演説は全くもって意味不明である。

時折、英語で通訳が入るので観客はヒンケルが何を話しているのかを理解することができる。



ヒンケルはヒトラーを思わせる人物で、ヒトラーの様な演説をする。

彼が演説で使用している言語はヒトラー風の言語である。英語圏のドイツ語を理解しない観客はこれが或いはドイツ語だと思うかもしれない。

しかし、これはドイツ語ではない。チャップリンによって再現されたヒトラーのオーストリア訛りのドイツ語風言語なのだ。一つの有意味なドイツ語の単語は含まれない意味不明な言語なのだ。(一部ヴィナーシュニッツェル:ウイーン風カツレツの意:と聞こえる部分はある。)

英語圏の人々はヒンケルがドイツ語で演説をしているのだと思えばこの部分はヒトラーと同じドイツ語だとすることが出来る。

しかし、ドイツ語圏の人々は英語部分をドイツ語に吹き替えられた『独裁者』を見るとき、ヒンケルの言葉が全く意味不明だと英語圏の人々よりも感じ取るのである。

つまりヒンケルが演説を聞いたところで世界中の誰一人として、これを直接理解できる者はいない。

英語の通訳を介して初めて人はそれを知るのである。

ヒトラー風のドイツ語風演説というチャップリンのモノマネが素晴らしい。

しかも、延々とこれを5分間にわたってカメラの前でやるのだから大したものである。

実際のヒトラーの演説も全く意味不明とまではいかないが、ドイツ人にとっても聞き慣れない奇妙なドイツ語による言語である。

それはヒトラーのドイツ語が酷いウィーン訛りである事に起因している。

同じく演説の天才であったヨーゼフ・ゲッベルスは多少の訛りのあるドイツ語であったにせよ、言葉は明瞭であり理解しやすい。

映画『独裁者』におけるゲッベルスにあたる人物ガービッチ博士の演説は英語であり、映画を観る観客にはその意味が全てわかる趣向になっている。


これは実際の第三帝国におけるヒトラー言語の意味不明さと側近のそれの明確さを見事にトレースしているとも言えるだろう。


ヒトラーの言語の意味不明さと無意味さを強調したチャップリンの演出は、1943年に公開されたディズニーの反ナチ宣伝アニメ映画"Education for death, making of the Nazi"の中にも引き継がれている。

この作品の中に登場するヒトラーも全く意味不明な言語で演説を行うのである。



ヒトラーのドイツ語による演説は兎角聞き辛いものだ。


彼の演説を聞くものでその言葉を100%聞き逃さずに理解して吸収しているものは果たしていただろうか。チャップリンによるヒンケルの演説はこうした観点からも、ヒトラーの本質にこの時代にして見事に読み取っていた事になる。


ヒンケル演説の意味不明さと無意味さが更に際立つのはヒンケルと入れ替わった床屋(チャップリンによる二役)が演説をするシーンだ。


この伝説的なチャップリンによる反ファシズム、民主主義理想の演説は完全な英語ではっきりと観客にその意味を伝える。



床屋の演説を最後に聞いた観客は独裁者ヒンケルの言葉が如何に意味不明で滑稽で無意味だったのだという事実をさらに確認するだろう。


それはヒンケルのモデルであるヒトラーへとそのままスライドされる。


ヒンケルの無意味さはヒトラーの言っていることの無意味さへと入れ替わるのだ。


チャップリンが演じるヒンケルはチャップリンであり、ヒトラーに似ているとは言い難い。


はっきり言ってしまえば似ていない。


むしろ、そのチャップリンのヒンケルを真似て、それをヒトラーへと還元したのはメル・ブルックスだった。


しかし、チャップリンはヒトラーに似ていなかった以上にヒトラーの本質を掴んでいた。


チャップリンの天才ぶりはヒトラー言語とその言語を使って、反対に本当に民衆に伝えるべき言葉を伝えるという仕事を成し遂げたのだ。


恐らくこの点において『独裁者』は未だにヒトラー映画の最高峰であり、反ファシズム映画の最高峰だとも言えるのではないだろうか。


 


 

1957年公開の西ドイツ映画『撃墜王アフリカの星』(Der Stern von Afirika) は第二次世界大戦の実在のドイツ空軍の撃墜王、ヨアヒム・マルセイユのつかの間の青春と半生を描いた映画。

この映画でマルセイユを演じた俳優、ヨアヒム・ハンゼンはこれが本格的映画デビューとなった。

映画は世界的なヒット作となり、主題曲「アフリカの星のボレロ」は現在でもスタンダードナンバーとして残る名曲となった。ヨアヒム・ハンゼンはデビューとは思えない確実な演技で世界からも高く評価された。

世界に名を残す国際俳優とはならなかったものの、ハリウッドやイギリス映画にも繁盛に顔を見せていた。

『撃墜王アフリカの星』と続く主演作『最後の戦線』の印象が強かったためか、ハリウッドでは主にドイツ軍将校を演じることが殆どだった。

 

『撃墜王アフリカの星』の最初の部分で、飛行学校候補生のマルセイユが軍服で街を歩いているシーンがある。通りがかりの陸軍の将校がマルセイユを呼び止める。

将校はマルセイユが軍帽を真っ直ぐ被っていないことを注意する。

マルセイユは姿勢を正して「了解しました!」と軍帽を真っ直ぐ被りなおすが、将校が行ってしまうとニヤリのとしながらまた軍帽を右上がり斜めに被り治す。印象的なシーンだ。(この場面は日本で発売されているDVDでは何故かカットされている。)

マルセイユの若さゆえのやんちゃ気質と軍隊の厳粛さへの小さな抵抗である。この映画においてマルセイユは最後まで軍帽を斜めに歪めて被り続ける。

 

 

マルセイユを演じたヨアヒム・ハンゼンはその後、スターリングラードの凄惨な闘いを描いた1959年の作品『最後の戦線』(Hunde, wollt ihr ewig leben)に出演した際もマルセイユの様に軍帽を傾けて被っていた。

他の俳優が真っ直ぐ軍帽をかぶっているのにハンゼンだけが斜め被りなのだ。

1969 年のアメリカ映画『レマゲン鉄橋』でドイツ軍工兵隊の指揮官バウマン大尉を演じたハンゼンはここでも軍帽の斜め被りをしている。ロバート・ヴォーンやクリ スチャン・ブレヒが演じる他のドイツ軍将校は真っ直ぐ軍帽を被っているがハンゼンだけ最初から最後まで右上がりに斜め被りをしている。

 

1971 年のテレビドキュメンタリードラマ"Operation Walkuere"でハンゼンはヒトラー暗殺を企てるクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐を演じたが、この時も軍帽を斜めに被っていた。この時は ハンゼンが楽屋でシュタウフェンベルク大佐の衣装を身につける様子も挿入されるのだが、そこでハンゼンが鏡を前に軍帽を意識的に斜めに被る様子が映し出さ れている。

続くフランス映画『追想』のSS将校、アメリカ映画『鷲は舞い降りた』のSS将官でも軍帽の被り方は相変わらず同じだった。

 

ヨアヒム・ハンゼンはどうして常に軍帽を斜めに被ったのだろうか。どの映画でもこの点に注意深く観察すると、目深く真っ直ぐに被る他の俳優たちとは明らかに軽い違和感が感じられる。映画やテレビドラマの演出家もこの点については気づいていた事は容易に察せられる。

 

ヒトラー暗殺事件の立役者、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐の様な上級将校になると、この様な「粋」で「ラフ」な軍帽の被り方は公的な場面ではしなかっただろう。しかし、ハンゼンはこの様な役でも常に斜めに被っているのだ。

 

もちろん、これはハンゼンの個人的な演出だったのは確かだ。そういう帽子の装着が格好よく見えることを知っていたのかもしれない。それは本人でないと分からない秘密でもある。(ヨアヒム・ハンゼンは2007年に他界している)

 

いずれにしてもハンゼンの軍帽装着法はデビュー作『撃墜王アフリカの星』から始っていることは確かだ。この映画では軍帽の被り方で軍隊の権威主義や統一支配への抵抗という態度を示していた・・・そういう演出であったことは確かだ。

 

戦争映画における軍帽というものは軍隊の権威や権力を示す小道具として機能する。

例 えばサム・ペキンパー監督の戦争映画『戦争のはらわた』では軍隊組織やナチに対してはウンザリしている将校、キーゼル大尉(デヴィッド・ワーナー)は映画 の最初から最後まで全く軍帽を被らなかったが、対する軍隊の権威に生きがいを感じているストランスキー大尉(マクシミリアン・シェル)は最初から最後まで 軍帽かヘルメットを被っているのである。

この映画における主人公、シュタイナー(ジェームズ・コバーン)が率いいる小隊のクリューガー(エ ルンスト・ルビュッチュ)などは敵方のソ連軍の戦闘帽を被っているし、シュタイナーも帽子を被っていない場面が多い。軍隊という権威主義に精神的に抵抗し ている人物を表現するには制服の着崩しよりも、まず、軍帽をぞんざいに扱うことが効果的な演出となる。

 

ヨアヒム・ハンゼンがドイツ将校を演じるときに必ず『撃墜王アフリカの星』のマルセイユの様に軍帽を斜めに被ったのは彼の戦争や軍隊に対するちょっとした抵抗の現れだったのではないかと私は思う。

何故なら、ハンゼンは『撃墜王アフリカの星』においてマルセイユが常に軍帽を斜めに被るという演出意図(軍隊規律への抵抗)をよく理解していたはずだからだ。

その後も出演する全ての作品で同様の演出を個人で行うということは意図的であったと考えられる。

少なくとも、他のドイツ人将校を演じてもそこに『撃墜王アフリカの星』のマルセイユ的抵抗を個人演出として持ち込んでいた事は間違いない。

 

もちろん、ハンゼンが反戦抵抗的な意図を持って、そこまで行っていたとは断言は出来ない。

しかし、一人の俳優が最初に出演したデビュー作である反戦映画の小さな演出を個人で自分の役に最後まで取り入れ続けたという拘りには敬服してしまう。いや、感動的でもある。

 

日本では殆ど名の知られないヨアヒム・ハンゼンというこのドイツの名優の知られざる業績の一つとして私はこの軍帽の斜め被りをあげたいと思う。そこに神々しい役者の魂を感じてやまないのだ。

 




執筆:永田喜嗣


 

★ダーティハリー、正続作品

 

『ダー ティハリー2』はドン・シーゲル監督、クリント・イーストウッド主演の映画『ダーティ・ハリー』のヒットを受けて制作された続編だ。脚本は『サンダーボル ト』でみずみずしくも乾いた演出を見せた、イーストウッドとは相性もいいマイケル・チミノ。ベトナム戦争への反戦思想などチミノには社会的な視点もある。 だけど、『ダーティハリー2』は世界観を完全に前作から引き継いだのに『ダーティハリー』程の凄みが無かった。

 

『ダーティハリー2』自体は社会派サスペンスとしてはよく出来ている。原題は"Magnum Force"「マグナム軍団」とで訳したらいいか。マグナムとは大口径の拳銃の弾薬を指す。ハリーの愛銃とこの映画に登場する白バイ警官たちの銃の弾薬に因んでいる。

法律では裁けない巧妙で権力を持った悪に対し、超法規的に即暖で死刑宣告し、殺害してゆく白バイ警官たち。

それを追い詰めてゆくのがハリー・キャラハン刑事(クリント・イーストウッド)。

この狂気の死刑執行人に普段は横紙破りだと嫌われているハリーが法の名のもとに彼らに対決する。法とは何か?封建力とは何か?『ダーティハリー2』は十分テーマ性に溢れた作品だった。

にもかかわらず前作には及ばなかった。

 

『ダーティハリー』に比べると『ダーティハリー2』は気が抜けたビールの様だった。

私は劇場で先に『ダーティハリー2』を観た。

十分にインパクトがあり、よく出来た映画だと思ったし、『ダーティハリー』がヒットしたことがよくわかった気がしたものだ。

ラロ・シフリンの音楽もいい。

だが、翌年、二番館で『ダーティハリー』を観た私は『ダーティハリー2』の評価を変える他ない更なる衝撃を受けたものだった。

それは二作目は一作目より劣るなどという定石的な説明で終わらせられるようなものではないと感じた。

 

『ダーティハリー』と『ダーティハリー2』は何か根本的な違いを持っているに違いない。

 

『ダーティハリー2』自体は決して二番煎じ作品でもなければ駄作でもなかったから。

 

ストーリー自体に大差はない。

ハリーが相手にするのは法に敵対する常軌を逸した殺人者である。

第一作目では偏執狂の殺人鬼スコーピオンであり二作目では死刑執行人を気取る白バイ警官たちだ。

 

ハリーはダーティだという周囲の排斥の中でダーティなままこれらの悪に立ち向かう。

主題は同じである。

なら、『ダーティハリー2』が持っていなかった『ダーティハリー』の凄みの正体とはなんだろうか。

 

★『ダーティハリー』の冒涜性

 

結論から述べると『ダーティハリー』が持っていて『ダーティハリー2』が持っていなかったものは冒涜的な性格だ。

反キリスト教的冒涜である。しかし、それは一見冒涜的と見える冒涜である。

それを最も象徴しているのは映画の序盤で巨大な真っ白な十字架のモニュメントの真下で犯人スコーピオンとハリーが血みどろの闘いを行うシーンだ。

このシーンを単に冒涜的と観るのは早計である。

ドン・シーゲルのこの場面の仕掛けは実はこの映画全体の構造を表していると見るべきだ。

冒涜的なのは犯人スコーピオンである。

 

ス コーピオンはサンフランシスコ市と市長を脅迫するために何の関係もない女性を狙撃して殺し、更に次のターゲットとしてモスレムらしき黒人の青年を見つける や嬉々として射殺しようとし、白人の少女を誘拐して殺害し、裸体のまま遺棄する。少女がロングショットで全裸のまま発見されるのはもちろん、少女がスコー ピオンにレイプされたであろうことを暗黙に伝えている。

スコーピオンは最後にはスクールバスを乗っ取り、サンフランシスコ市に身代金を要求する。

子どもを殴り付け歌を歌わせるスコーピオン。この狂気の犯人は最初から最後まで反キリスト教的悪魔だ。

対するハリー・キャラハン刑事は他の人物とは著しく異なっている。

署 内で「ダーティハリー」と呼ばれるこの人物は、捜査中に偶然、双眼鏡で売春の現場を目撃すると「俺は世の中の汚さを見過ぎている」と呟く。ハリーは人種差 別をしない。何故なら彼は全ての人種を憎んでいるからである。ハリーは絶えず人間社会に影響されす公正な立場にいる奇妙な人間である。

こうしたハリーの視点は人間のそれではなく、神の側に近い。

 

彼はホットドッグを食べながら、偶然、出くわした銀行ギャング事件で銀行から飛び出した犯人たちを銃で全員、打ち倒す。

彼にとっての正義は一般に通用している法正義ではない。

彼の正義は神が下す正義であり、正義であるか悪であるかを判断し、処断するのはハリーの役目である。

十字架の下の闘いでハリーはスコーピオンの足にナイフで重症を与える。しかし、ハリーはここで犯人を逮捕できず、逆に倒されてしまう。神を象徴する十字架の下で神の正義を執行する神の使いであるハリーは敗れるのである。

 

その後、少女誘拐でハリーは法手続きなしにスコーピオンを追い詰め、十字架の下で傷を負わせたその足に拳銃弾を撃ち込み、更にそれを踏みにじって拷問をする。

ここには法が執行する正義はない。

ハリーは十字架の下で果たせなかった正義の行使をここで行うのだ。

しかし、ハリーの行為は違法行為として退けられスコーピオンは釈放されてしまう。

スクールバスの乗っ取りに、サンフランシスコ市と警察はスコーピオンに身代金と逃走用飛行機を準備しようとする。反対するハリーには何もするなと厳命するサンフランシスコ市長。

ハリーは単身スコーピオンに挑み、バスに乗り込む。

最後にはハリーはスコーピオンを追い詰め、正当防衛を装ってこれを射殺する。

事件は全て終わったが、ハリーはバッジを捨て去る。

 

ハリーは常に人間の世界を支配する法の正義には従わず、法の番人でありながら神の法を優先させる。

ハリーは神の代理人なのである。そのハリーを人間の世界ではダーティという称号を与え排斥しようとする。

 

ハリーは最後には神の裁きを悪魔の犯人スコーピオンに下すが、彼はバッジを捨て去る。彼は神のために働いたにもかかわらず堕天使として神からも見放される。

ダーティハリーは最後には神の不在のまま完全にダーティハリー(堕天使)になるのだ。

 

『ダーティハリー』の冒涜性は最初からキリスト教が崇める神など存在していなかったし、神は沈黙したまま何もしないし、神の法のために働いた人間も救わないのだという「神の不在」を基底においている。

 

ハ リーの行動は神の正義を実行し、あの巨大な白い十字架の体面を保つに足る成果を上げたものの、その結果は何も生まないのである。それはハリーの人間社会で の喪失しか生まないのだ。『ダーティハリー』の恐ろしさはこの無神論的な神の不在という虚しさと、神の正義の実行が正義を貫き通せないという痛烈な皮肉な のだ。

 

★堕天使ハリーの消失

 

対して『ダーティハリー2』では設定はそのままだが、ハリー自身の設定は著しく変化してしまった。

彼の神の使い、神の正義の執行者としての堕天使性は「彼が暴力的であるが故に面倒な警官である」というダーティの意味にすり替えられてしまった。

ハリーの敵対者となる殺人白バイ警官たちは法正義を無視した正義の執行者で、これは前作『ダーティハリー』におけるハリーの立場そのものである。

彼らの正義は前作で言うところの巨大な白い十字架の体面を保たせるに足る行為なのだ。

 

白バイ警官たちを操る黒幕の警部がハリーに仲間に入れと言うのに対し、ハリーは完全と断った上で、警部に法正義の正論を解く。これは明らかに『ダーティハリー』のハリーとは矛盾する点であり、ハリーが堕天使からただの人間社会の一員になってしまった瞬間でもある。

この時点で我々はハリー・キャラハンという特異な刑事を失ってしまったのだ。

 

以後、ハリーは続くシリーズの中ではドン・シーゲルが紡ぎ出した『ダーティ・ハリー』のハリーではなくなり『ダーティハリー2』のハリーで登場し続ける。

第一作目の作品思想は完全に二作目以降は失われてしまうのだ。

『ダーティハリー2』では神の正義の執行者を敵の設定した時点で、もうダーティハリーの世界は保てない。

 

しかし、これは誤算ではなく意図的であったのかもしれない。法の正義を守らずに正義を執行しようとする人物を主人公に置くこと自体がアメリカの法治国家としての民主主義の根幹を否定するものである。

しかし、逆にアングロサクソンのアメリカ人が最も信頼し崇めるキリスト教文明の神の正義の使者を否定してしまうという矛盾がそこにある。

 

『ダーティハリー2』は結局前作『ダーティハリー』における弱腰なサンフランシスコ市長や市警察の署長の立場を支持してしまっているのである。

 

『ダーティハリー2』とそれ以後の作品から『ダーティハリー』は完全に切り離されて宙に浮いたままになっている。

 

それゆえに『ダーティハリー』はアメリカ民主主義の矛盾(それは神との関係も含めて)を突く傑作として記憶され続けているのではないだろうか。



執筆:永田喜嗣



増村保造の映画って好き嫌いが激しい。

嫌いだという人はこの人の冷めて突き放したような生々しい人間の描写に抵抗を感じるらしい。

逆にその描写が堪らないという人もいる。

私は後者だ。

 

増村保造作品の登場人物は全く得体がしれないロボットの様な印象を受ける。

表情のない台詞と表情のない演技。

淡々とドラマが進行してゆく。

そうした様にゾッとする冷たさや人間を感じる。

映画の悪魔主義を感じる。その人間の冷ややかなタッチは、その人間の持ち味ではない。

増村作品の登場人物がそのように見えるのはその人物を取り巻く環境にある。

その世界は極めて日本的な閉塞した世界だ。

 

その空間で登場人物は縛られ蠢く。

やがてその空間の閉塞感に耐えられなくなって最後に破裂する。

それは自滅であったり敗北であったりする。

ただ、奇妙なことに日本的環境下で明らかに敗北だと思われる登場人物たちの末路は、実のところは抵抗の果ての解放だと観客は感じる。

救いはないようで救われている。

これは増村作品の映画における人間観察の魅力の一つである。

 

増村保造は大映で人気を取った三つの映画シリーズの初作を手がけている。

これらの三作品は増村保造のテーマの一つである逃れえない日本的環境からの解放というもので共通している。「黒シリーズ」「兵隊やくざシリーズ」「陸軍中野学校シリーズ」である。

すなわち、その初作となったのは『黒の試走車』、『兵隊やくざ』、『陸軍中野学校』で共に増村保造監督作品である。

 

『兵 隊やくざ』は大宮二等兵(勝新太郎)と有田上等兵(田村高廣)は最終的には脱走の成功という勝利を収めるのだが、『黒の試走車』のサラリーマン朝比奈(田 宮二郎)と『陸軍中野学校』の中野学校一期生の椎名(市川雷蔵)は組織に取り込まれて最後には破壊され尽くされて敗れる。

 

それでも組織、軍隊も会社もビクともせず、ただ主人公が個人としてそこで敗北するのである。

どんなに頑張っても組織に飼われた兵隊か会社員。

そんな皮肉が映画の終幕に待っている。

この二本の映画は戦時と戦後における日本と日本人に抵抗した映画だ。

 

増村保造はデビューの当初の段階でこの様な題材に取り組んでいた。組織の中で順応し、抵抗して敗北する人物を描いた作品である。

それは『暖流』における日疋であり、『氷壁』における魚津でもある。

経営破綻間近の志摩病院のテコ入れに恩義になった病床の院長に請われて事務長になった日疋は反対勢力の中で抵抗し見事に病院を立て直すが、院長の死後は病院を追われて全てを失う。

『氷壁』の魚津も穂高の北壁でナイロン・ザイルが切れたか、故意に切られたのかという疑惑の中で、会社や社会を相手に孤立しながら「ザイルは切れた」と主張を続ける。

ここでも組織の中での個人の抵抗と敗北を描いていた。

『暖流』の日疋や『氷壁』の魚津は『陸軍中野学校』や『黒の試走車』の主人公像と極めて近い。

これらの主人公は抵抗者であり、精神的に勝利するが実質的には敗北しているというラストが共通している。

増村作品における抵抗者はどうやらこういう運命を辿るらしい。

 

『兵隊やくざ』の大宮と有田は抵抗の結果、精神的にも実質的にも勝利するのだがこれは増村作品では希な登場人物と言えそうだ。

宇津井健が正義のために戦う若手検事を演じた『黒の報告書』や大門正明のチンピラと関根恵子の女工さんの惨めな青春を描いた『遊び』、三島由紀夫がムショから出てきたしがないヤクザを演じた『からっ風野郎』・・・どれもこれも、主人公は最後には敗北する。

しかし、精神の上では勝利しているという図式だ。

 

増村保造作品は決して政治的ではなかったが絶えず「反日本的」であったことは確かだ。

彼 の作品の中における個人の抵抗が最大の魅力だったのだが、その魅力が最大限に引き出された『黒い試走車』、『兵隊やくざ』、『陸軍中野学校』の三作品はシ リーズ化されたのにもかかわらず、増村保造のメガフォンによる第一作目の様な気骨のある作風は他の監督たちの手に渡るや失われてしまった様に思う。

 

増村保造作品を観るとき「抵抗」というキーワードを付加してみるのも映画鑑賞として一興ではないかと思う。



執筆:永田喜嗣





★★★どうせ映画観るなら”ひねくれて”観ようじゃないか!★★★

 

 

1965年、マイケル・アンダーソン監督作品。『クロスボー作戦』は第二次世界大戦中、ドイツの秘密兵器、飛行爆弾V1号とロケットミサイルV2号の開発と実践への投入に対してイギリス政府と諜報機関が阻止せんとした史実に基づく戦記アクション映画だ。

ク ロスボー作戦とは正確にはクロスボー委員会というもので、イギリスの戦時内閣がドイツのロケット兵器開発がどのくらい進んでいるのかを探って評価する組織 の名前だった。映画では作戦名とされているが第二次世界大戦の作戦名辞典などで調べてみても"Operation Crossbow"という項目は見当たらないので、これは単に映画のために作られた言葉なのだろう。Wikipediaでは"Operation Crossbow"と紹介されているがこれは正確ではないと思う。

 

この映画、イギリス人のスタッフとキャストによって制作されているので一般的にはイギリス映画とされている。実は制作はイタリアである。

イ タリアの大物プロデューサーで大作を数多く制作したカルロ・ポンティがこの映画のプロデューサーである。ポンティは自分の細君であるソフィア・ローレンを とにかく出演させたがるので、イギリスとドイツの俳優ばかり(アメリカ人のジョージ・ペパードがいるが)の中、ソフィア・ローレンがただ一人イタリア人出 演者として顔を見せている。出演者はかなりすごい顔ぶれである。ジョージ・ペパード、トム・コートニー、トレヴァー・ハワード、ジョン・ミルズ、アンソ ニー・クウェール、リリー・パルマー、ジェレミー・ケンプ、ポール・ヘンリード、リチャード・ジョンソン・・・・。

まさにオールスター大作映画だ。

イギリス俳優としては地味な存在のリチャード・ジョンソンをダンカン・サンズ卿役にキャスティングしている事は意外だが、ジョンソンはポンティ制作のイタリアB級映画にイギリス人やアメリカ人役でよく出演していたので、その繋がりではなかったのだろうか。

 

さて、この映画、前半と後半ではかなりカラーが違っていてアンバランス。この点ではせっかく題材が面白いのに成功した映画だとは言えない。

前半はチャーチルからの特命で結成されたクロスボー委員会がドイツのロケット兵器開発を探ってゆくのと、ドイツ側が極秘に開発してゆくのを平行に描く歴史ドラマとしてはかなり面白い。

ドイツのロケット兵器開発は有り得ると考えるクロスボー委員会の委員長ダンカン・サンズ卿に対して断じて有り得ないと主張する物理学者フレデリック・リンデマン教授の確執など史実を基にしている面白い部分だ。

 

前半の歴史ドラマとしての面白さは後半のジョージ・ペパードとトム・コートニーが演じるスパイがドイツへ潜入し情報収集するというフィクションが主題となって一気に輝きを失い、単なるスパイ・サスペンス映画となってしまう。

この点が実に惜しいのだ。

後半でも飛行爆弾V1号攻撃が始まってロンドンを守るためにサンズ卿らクロスボー委員会が活躍する様は描かれるが、この歴史描写路線で最後まで通して欲しかったものだ。

歴史戦争映画として十分評価されてもいい作品だが『史上最大の作戦』とか『空軍大戦略』の様な戦記大作の序列に加えられることがほぼないのは後半の荒唐無稽なフィクション性にある。

 

本編ではイギリス側は英語、ドイツ側はドイツ語と言語を分け、双方の動きを見せる演出は見事だ。この辺りは4年後のイギリス映画『空軍大戦略』に影響を与えている。


さて、さて、この映画が歴史戦記映画として不完全な作品となったのは実は架空のスパイアクションの挿入だけではない。実は重要なポイントが脱落している。

イギリス側のクロスボー委員会と軍の動きは実在した人物を実名で多く配置して克明に描かれているのに対して、ドイツ側のV兵器開発側はかなりボヤかしてある。

実在したV兵器開発基地だったペーネミュンデの司令官、ヴァルター・ドルンベルガー将軍や、その後任者だったハンス・カムラーSS大将らしき人物は登場するのだが、名前は別名に変えられている。

ドイツ側で実在の人物で実名で登場するのはv1号飛行爆弾の有人飛行テスト飛行に参加した女流テストパイロット、ハンナ・ライチェ女史だた一人である。

 

最も描かれて然るべきのロケット兵器開発陣の実在科学者はただの一人も登場しない。まるで軍人たちがロケットを作ったかのような奇妙な印象である。

この辺には微妙な問題が存在する。

v2号ロケットミサイルの開発に当たっていたドイツ人科学者はこの映画が公開された時期、殆どがアメリカの航空宇宙局に席を置いていたのだ。

 

そ の中心人物は物理学博士、ヴェルナー・フォン・ブラウン。後のアポロ計画で人類を初めて月世界へ送った男である。フォン・ブラウンはドイツのロケットミサ イル開発に当初から参加しており、終戦時に米軍に投降してアメリカへ亡命した。その直後よりアメリカのユダヤ人社会などからは批判的に見られてきた。ナチ に協力したドイツ人であるからだ。

 

V2号生産に関しては強制収容所のユダヤ人たちが動員され、過酷で劣悪な労働環境で1万にも人命が失われている。映画『クロスボー作戦』では後半に地下秘密工場が登場するが、まさにそこではユダヤ人の囚人たちが酷使されていたのだ。映画ではその辺りは全く描かれていない。

 

フォン・ブラウンは近年、ナチ党員で親衛隊にも入隊していたことが明らかにされている。

V2号は非戦闘員であるロンドン市民を無差別に爆殺し、強制収容所のユダヤ人の大量死をもたらしたのである。

その開発の技術面で頂点にいた男がアメリカの航空宇宙局の責任者だったのだ。

そんなアメリカのお家事情からか『クロスボー作戦』ではフォン・ブラウンたちロケット兵器開発に携わった人物の影はない。

この映画、アメリカのMGM配給だ。

イギリス側ではサンズ卿とリンデマン教授の確執まで描いたのに、ドイツ側は反対に荒削りでリアリティがない訳だ。

ロンドンの市民を虐殺した兵器の開発者がアメリカで高い地位にいることは世界が知っていたけれども、それを事荒げて描くことは避けたのだろう。

 

こ の映画の公開前にMGMが『クロスボー作戦前史』という映画に引っ掛けた宣伝用の短編ドキュメンタリーを作っているのだが、ロケット開発に関しては肝心の フォン・ブラウンの名前も姿もなく、もっぱらアメリカのロケット開発者ゴダードの研究が描かれている。全く筋の通らない話だが、ここもナチ残党隠しが作用 していると見て間違いないだろう。

 

残念だが、この歴史戦記映画のバランスを欠いた点はここがいちばん大きい。

もしも、多少でもドイツ側のロケット開発陣が描かれていれば歴史戦争映画としては更に質が向上していただろう。

しかし、暗黙の内に実在するナチの残党を世間の目から遠ざけた訳だ。

フォン・ブラウンのナチぶりは近年、同じイギリスのBBCが米ソ宇宙開発競争を描いたドラマ『宇宙へ』(原題:"Space Race")で描かれていた。

 

関係者が死亡していなくなった時点でこの問題も解禁されたということなんだろう。

 

因みに『クロスボー作戦』は日本ではDVD化されていないために視聴は困難だ。VHSとレーザーディスクでは発売されていたこともあるが、ドイツ部分の字幕の翻訳に少々問題があった。英語からの重訳なので日本語部分で更に意味がずれてしまったのだろう・・・。


執筆:永田喜嗣