★ダーティハリー、正続作品
『ダー
ティハリー2』はドン・シーゲル監督、クリント・イーストウッド主演の映画『ダーティ・ハリー』のヒットを受けて制作された続編だ。脚本は『サンダーボル
ト』でみずみずしくも乾いた演出を見せた、イーストウッドとは相性もいいマイケル・チミノ。ベトナム戦争への反戦思想などチミノには社会的な視点もある。
だけど、『ダーティハリー2』は世界観を完全に前作から引き継いだのに『ダーティハリー』程の凄みが無かった。
『ダーティハリー2』自体は社会派サスペンスとしてはよく出来ている。原題は"Magnum Force"「マグナム軍団」とで訳したらいいか。マグナムとは大口径の拳銃の弾薬を指す。ハリーの愛銃とこの映画に登場する白バイ警官たちの銃の弾薬に因んでいる。
法律では裁けない巧妙で権力を持った悪に対し、超法規的に即暖で死刑宣告し、殺害してゆく白バイ警官たち。
それを追い詰めてゆくのがハリー・キャラハン刑事(クリント・イーストウッド)。
この狂気の死刑執行人に普段は横紙破りだと嫌われているハリーが法の名のもとに彼らに対決する。法とは何か?封建力とは何か?『ダーティハリー2』は十分テーマ性に溢れた作品だった。
にもかかわらず前作には及ばなかった。
『ダーティハリー』に比べると『ダーティハリー2』は気が抜けたビールの様だった。
私は劇場で先に『ダーティハリー2』を観た。
十分にインパクトがあり、よく出来た映画だと思ったし、『ダーティハリー』がヒットしたことがよくわかった気がしたものだ。
ラロ・シフリンの音楽もいい。
だが、翌年、二番館で『ダーティハリー』を観た私は『ダーティハリー2』の評価を変える他ない更なる衝撃を受けたものだった。
それは二作目は一作目より劣るなどという定石的な説明で終わらせられるようなものではないと感じた。
『ダーティハリー』と『ダーティハリー2』は何か根本的な違いを持っているに違いない。
『ダーティハリー2』自体は決して二番煎じ作品でもなければ駄作でもなかったから。
ストーリー自体に大差はない。
ハリーが相手にするのは法に敵対する常軌を逸した殺人者である。
第一作目では偏執狂の殺人鬼スコーピオンであり二作目では死刑執行人を気取る白バイ警官たちだ。
ハリーはダーティだという周囲の排斥の中でダーティなままこれらの悪に立ち向かう。
主題は同じである。
なら、『ダーティハリー2』が持っていなかった『ダーティハリー』の凄みの正体とはなんだろうか。
★『ダーティハリー』の冒涜性
結論から述べると『ダーティハリー』が持っていて『ダーティハリー2』が持っていなかったものは冒涜的な性格だ。
反キリスト教的冒涜である。しかし、それは一見冒涜的と見える冒涜である。
それを最も象徴しているのは映画の序盤で巨大な真っ白な十字架のモニュメントの真下で犯人スコーピオンとハリーが血みどろの闘いを行うシーンだ。
このシーンを単に冒涜的と観るのは早計である。
ドン・シーゲルのこの場面の仕掛けは実はこの映画全体の構造を表していると見るべきだ。
冒涜的なのは犯人スコーピオンである。
ス
コーピオンはサンフランシスコ市と市長を脅迫するために何の関係もない女性を狙撃して殺し、更に次のターゲットとしてモスレムらしき黒人の青年を見つける
や嬉々として射殺しようとし、白人の少女を誘拐して殺害し、裸体のまま遺棄する。少女がロングショットで全裸のまま発見されるのはもちろん、少女がスコー
ピオンにレイプされたであろうことを暗黙に伝えている。
スコーピオンは最後にはスクールバスを乗っ取り、サンフランシスコ市に身代金を要求する。
子どもを殴り付け歌を歌わせるスコーピオン。この狂気の犯人は最初から最後まで反キリスト教的悪魔だ。
対するハリー・キャラハン刑事は他の人物とは著しく異なっている。
署
内で「ダーティハリー」と呼ばれるこの人物は、捜査中に偶然、双眼鏡で売春の現場を目撃すると「俺は世の中の汚さを見過ぎている」と呟く。ハリーは人種差
別をしない。何故なら彼は全ての人種を憎んでいるからである。ハリーは絶えず人間社会に影響されす公正な立場にいる奇妙な人間である。
こうしたハリーの視点は人間のそれではなく、神の側に近い。
彼はホットドッグを食べながら、偶然、出くわした銀行ギャング事件で銀行から飛び出した犯人たちを銃で全員、打ち倒す。
彼にとっての正義は一般に通用している法正義ではない。
彼の正義は神が下す正義であり、正義であるか悪であるかを判断し、処断するのはハリーの役目である。
十字架の下の闘いでハリーはスコーピオンの足にナイフで重症を与える。しかし、ハリーはここで犯人を逮捕できず、逆に倒されてしまう。神を象徴する十字架の下で神の正義を執行する神の使いであるハリーは敗れるのである。
その後、少女誘拐でハリーは法手続きなしにスコーピオンを追い詰め、十字架の下で傷を負わせたその足に拳銃弾を撃ち込み、更にそれを踏みにじって拷問をする。
ここには法が執行する正義はない。
ハリーは十字架の下で果たせなかった正義の行使をここで行うのだ。
しかし、ハリーの行為は違法行為として退けられスコーピオンは釈放されてしまう。
スクールバスの乗っ取りに、サンフランシスコ市と警察はスコーピオンに身代金と逃走用飛行機を準備しようとする。反対するハリーには何もするなと厳命するサンフランシスコ市長。
ハリーは単身スコーピオンに挑み、バスに乗り込む。
最後にはハリーはスコーピオンを追い詰め、正当防衛を装ってこれを射殺する。
事件は全て終わったが、ハリーはバッジを捨て去る。
ハリーは常に人間の世界を支配する法の正義には従わず、法の番人でありながら神の法を優先させる。
ハリーは神の代理人なのである。そのハリーを人間の世界ではダーティという称号を与え排斥しようとする。
ハリーは最後には神の裁きを悪魔の犯人スコーピオンに下すが、彼はバッジを捨て去る。彼は神のために働いたにもかかわらず堕天使として神からも見放される。
ダーティハリーは最後には神の不在のまま完全にダーティハリー(堕天使)になるのだ。
『ダーティハリー』の冒涜性は最初からキリスト教が崇める神など存在していなかったし、神は沈黙したまま何もしないし、神の法のために働いた人間も救わないのだという「神の不在」を基底においている。
ハ
リーの行動は神の正義を実行し、あの巨大な白い十字架の体面を保つに足る成果を上げたものの、その結果は何も生まないのである。それはハリーの人間社会で
の喪失しか生まないのだ。『ダーティハリー』の恐ろしさはこの無神論的な神の不在という虚しさと、神の正義の実行が正義を貫き通せないという痛烈な皮肉な
のだ。
★堕天使ハリーの消失
対して『ダーティハリー2』では設定はそのままだが、ハリー自身の設定は著しく変化してしまった。
彼の神の使い、神の正義の執行者としての堕天使性は「彼が暴力的であるが故に面倒な警官である」というダーティの意味にすり替えられてしまった。
ハリーの敵対者となる殺人白バイ警官たちは法正義を無視した正義の執行者で、これは前作『ダーティハリー』におけるハリーの立場そのものである。
彼らの正義は前作で言うところの巨大な白い十字架の体面を保たせるに足る行為なのだ。
白バイ警官たちを操る黒幕の警部がハリーに仲間に入れと言うのに対し、ハリーは完全と断った上で、警部に法正義の正論を解く。これは明らかに『ダーティハリー』のハリーとは矛盾する点であり、ハリーが堕天使からただの人間社会の一員になってしまった瞬間でもある。
この時点で我々はハリー・キャラハンという特異な刑事を失ってしまったのだ。
以後、ハリーは続くシリーズの中ではドン・シーゲルが紡ぎ出した『ダーティ・ハリー』のハリーではなくなり『ダーティハリー2』のハリーで登場し続ける。
第一作目の作品思想は完全に二作目以降は失われてしまうのだ。
『ダーティハリー2』では神の正義の執行者を敵の設定した時点で、もうダーティハリーの世界は保てない。
しかし、これは誤算ではなく意図的であったのかもしれない。法の正義を守らずに正義を執行しようとする人物を主人公に置くこと自体がアメリカの法治国家としての民主主義の根幹を否定するものである。
しかし、逆にアングロサクソンのアメリカ人が最も信頼し崇めるキリスト教文明の神の正義の使者を否定してしまうという矛盾がそこにある。
『ダーティハリー2』は結局前作『ダーティハリー』における弱腰なサンフランシスコ市長や市警察の署長の立場を支持してしまっているのである。
『ダーティハリー2』とそれ以後の作品から『ダーティハリー』は完全に切り離されて宙に浮いたままになっている。
それゆえに『ダーティハリー』はアメリカ民主主義の矛盾(それは神との関係も含めて)を突く傑作として記憶され続けているのではないだろうか。
執筆:永田喜嗣