チャーリー・チャップリンが演じる独裁者ヒンケル。
最もヒトラーに似ていないが、最もヒトラーの本質を捉えていたのがチャップリンの『独裁者』だ。
『独裁者』はチャップリンにとって初の完全トーキー作品だった。
映画作品として決して完成度が高いとは言い難い。
サイレントとトーキーの狭間に揺れて時折、さ迷っている様にも見える。サイレント喜劇なのかトーキー喜劇なのかはっきりしない。
チャッ プリンのサイレント喜劇的な描写では俄然、リズムがよくなるがトーキーになるとそれは途端に緩慢になる。こうした弱点を持ちながらも、この映画は強い力を 持っていた。前半、チャップリンが演じる独裁者ヒンケルの演説シーンはまずこの映画の秀逸なシーンだと言えるだろう。延々とワンカットで撮ったチャップリ ンのヒトラー風の演説は全くもって意味不明である。
時折、英語で通訳が入るので観客はヒンケルが何を話しているのかを理解することができる。
ヒンケルはヒトラーを思わせる人物で、ヒトラーの様な演説をする。
彼が演説で使用している言語はヒトラー風の言語である。英語圏のドイツ語を理解しない観客はこれが或いはドイツ語だと思うかもしれない。
しかし、これはドイツ語ではない。チャップリンによって再現されたヒトラーのオーストリア訛りのドイツ語風言語なのだ。一つの有意味なドイツ語の単語は含まれない意味不明な言語なのだ。(一部ヴィナーシュニッツェル:ウイーン風カツレツの意:と聞こえる部分はある。)
英語圏の人々はヒンケルがドイツ語で演説をしているのだと思えばこの部分はヒトラーと同じドイツ語だとすることが出来る。
しかし、ドイツ語圏の人々は英語部分をドイツ語に吹き替えられた『独裁者』を見るとき、ヒンケルの言葉が全く意味不明だと英語圏の人々よりも感じ取るのである。
つまりヒンケルが演説を聞いたところで世界中の誰一人として、これを直接理解できる者はいない。
英語の通訳を介して初めて人はそれを知るのである。
ヒトラー風のドイツ語風演説というチャップリンのモノマネが素晴らしい。
しかも、延々とこれを5分間にわたってカメラの前でやるのだから大したものである。
実際のヒトラーの演説も全く意味不明とまではいかないが、ドイツ人にとっても聞き慣れない奇妙なドイツ語による言語である。
それはヒトラーのドイツ語が酷いウィーン訛りである事に起因している。
同じく演説の天才であったヨーゼフ・ゲッベルスは多少の訛りのあるドイツ語であったにせよ、言葉は明瞭であり理解しやすい。
映画『独裁者』におけるゲッベルスにあたる人物ガービッチ博士の演説は英語であり、映画を観る観客にはその意味が全てわかる趣向になっている。
これは実際の第三帝国におけるヒトラー言語の意味不明さと側近のそれの明確さを見事にトレースしているとも言えるだろう。
ヒトラーの言語の意味不明さと無意味さを強調したチャップリンの演出は、1943年に公開されたディズニーの反ナチ宣伝アニメ映画"Education for death, making of the Nazi"の中にも引き継がれている。
この作品の中に登場するヒトラーも全く意味不明な言語で演説を行うのである。
ヒトラーのドイツ語による演説は兎角聞き辛いものだ。
彼の演説を聞くものでその言葉を100%聞き逃さずに理解して吸収しているものは果たしていただろうか。チャップリンによるヒンケルの演説はこうした観点からも、ヒトラーの本質にこの時代にして見事に読み取っていた事になる。
ヒンケル演説の意味不明さと無意味さが更に際立つのはヒンケルと入れ替わった床屋(チャップリンによる二役)が演説をするシーンだ。
この伝説的なチャップリンによる反ファシズム、民主主義理想の演説は完全な英語ではっきりと観客にその意味を伝える。
床屋の演説を最後に聞いた観客は独裁者ヒンケルの言葉が如何に意味不明で滑稽で無意味だったのだという事実をさらに確認するだろう。
それはヒンケルのモデルであるヒトラーへとそのままスライドされる。
ヒンケルの無意味さはヒトラーの言っていることの無意味さへと入れ替わるのだ。
チャップリンが演じるヒンケルはチャップリンであり、ヒトラーに似ているとは言い難い。
はっきり言ってしまえば似ていない。
むしろ、そのチャップリンのヒンケルを真似て、それをヒトラーへと還元したのはメル・ブルックスだった。
しかし、チャップリンはヒトラーに似ていなかった以上にヒトラーの本質を掴んでいた。
チャップリンの天才ぶりはヒトラー言語とその言語を使って、反対に本当に民衆に伝えるべき言葉を伝えるという仕事を成し遂げたのだ。
恐らくこの点において『独裁者』は未だにヒトラー映画の最高峰であり、反ファシズム映画の最高峰だとも言えるのではないだろうか。