1969年のイギ リス映画『空軍大戦略』(原題:"Battle of Britain”)の音楽は当初、イギリスの現代音楽作曲家で映画音楽にも戦前から傑作の多くを持つウィリアム・ウォルトンが担当していた。ウォルトンを 推薦したのはこの映画の出演者の一人であるロレンス・オリヴィエだった。ウォルトンはオリヴィエの『ハムレット』の音楽を過去に担当していた。

『空 軍大戦略』は第二次世界大戦の英独戦で天王山となった「英国の戦い・バトル・オブ・ブリテン」を映画化した作品だ。英国本土に侵攻するための制空権を得る ためにドイツ空軍が圧倒的な航空兵力で英本土を空爆するのに対して英国空軍が明らかに兵力、人員不足のまま迎え撃ち最後には撃退してしまうまでを描いた大 作だった。

ウォルトンの映画音楽は常に英国の気品あふれる「クラッシック音楽」である。
彼はこの映画のためにスコアを書き、録音までされた。
ドイツ軍を描写する音楽にはワーグナーやシュトラウスの旋律やナチ党党歌のホルスト・ヴェッセルのメロディを用い、英空軍の描写は壮大で華やかなプレリュード風の曲が付された。
ウォルトンの"Battle of Britain”スコアは映画音楽というより一つの交響組曲で実に素晴らしい作品だった。この楽曲は録音も済まされて映画に使用されるのを待つだけだった。
しかし、監督のガイ・ハミルトンはウォルトンの音楽に難色を示し、映画音楽作曲家のロン・グッドウィンに作曲を再依頼した。

グッドウィンの音楽は組曲ではなく、画面とシンクロした劇伴音楽として作曲された。ハミルトンは映画作りの職人として音楽にも芸術的な色よりも職人技を求めたのだろう。
こうしてウォルトンが作曲した楽曲は映画本編では一曲しか使用されなかった。
ロン・グッドウィンの楽曲も素晴らしく、完成した映画を観るとウォルトンの楽曲を使わずグッドウィンの楽曲にしたことは結果的には正解だったと誰もが思うだろう。
何故ウォルトンの音楽が敬遠されたのか。
それについては記録がないがある程度の推測はできる。
監 督のガイ・ハミルトンはこの映画『空軍大戦略』であるトラブルを起こしている。ドイツ空軍側の監修者として第二次大戦中のドイツ空軍のエースパイロット だったアドルフ・ガーランド元少将が招かれていたが、ハミルトンのドイツ空軍描写での凝ったナチ演出にガーランドが怒り、監修を映画撮影中に辞してドイツ へ帰国してしまったのである。
問題の発端は劇中、ゲーリング国家元帥にドイツ空軍の司令官の一人であるケッセルリンクがナチ式の右手を高く掲げた敬礼をするという場面である。
ガーランドは空軍はナチではないのでこうしたナチ式敬礼はしないと抗議したが、ハミルトンは折れることなくその演出を通したのだ。
ハミルトンは自国の英空軍を幾分、惨めに描写してドイツ空軍を徹底的に折り目正しいプロイセン的あるいはゲルマン的に格好よく演出した。そのカラーははっきりしている。
ウォ ルトンの音楽はそれに反するかの様にイギリス側を壮麗で荘厳に誇り高く描いた。ドイツ軍を表現する音楽はワーグナーの楽劇「ラインの黄金」(ヒトラーは ワーグナーの信奉者だった)とシュトラウスの「歌劇こうもり」(ヒトラーはオーストリア出身だった)そしてナチ党の党歌ホルスト・ヴェッセルの歌をモ ティーフにしてナチが寄せ集めの借り物文化的な所産であることを仄めかした皮肉たっぷりなものとして完成した。
ガイ・ハミルトンが追加発注したロン・グッドウィンの楽曲はドイツ空軍を壮麗なパレードマーチを主題として、そのマーチのトリオ部分のモティーフよる変奏曲でドイツ側を華やかに表現した。
近 年、発売された『空軍大戦略』のDVDでは没になったウォルトンの音楽設計によるバージョンが再現されたが、このバージョンでは全くドイツ軍側の華やかさ は表現されていない。ドイツ軍の場面には殆ど音楽が付されてはいないのである。これに対してロン・グッドウィンの音楽設計はドイツ側の画面には徹底的に華 やかで荘厳華麗な音楽が常に付されている。
ハミルトンは劇中の演出だけでなく音楽においてもドイツ軍を格好よく演出することを望んだに違いない。
そのためにはウォルトンの音楽設計では成し得なかったのだろう。
対するウォルトンはドイツを賛美する音造りよりも英国を荘厳に描きたかった事は楽曲を聴けばよく分かる。
ここにはウォルトンの愛国者としての姿がある。
ハミルトンのドイツ人の意見まで退けてドイツをよりドイツ的に描こうとした異様なまでのドイツ偏執ぶりとウォルトンの祖国である英国への愛国の思想には相反するものが最初から存在していたに違いない。

素晴らしい組曲であるのにも関わらずウォルトンの"Battle of Britain”は日の目を見ずに消えてしまった。
後に『空軍大戦略』のオリジナル・サウンドトラックCDでウォルトンの"Battle of Britain”は全曲収録され、またウォルトンの作品全集のCDにも収められた。
使われることのなかった主題曲は英国空軍軍楽隊でも演奏されるナンバーになっている。

映画ファンの視点から言えば映画『空軍大戦略』の音楽はウォルトンよりもグッドウィンが良かったのではないかと思う。
ただ、このウォルトン版の『空軍大戦略』は音楽としては捨て置くにはあまりにも惜しい作品である。


執筆:永田喜嗣





ドイツで発売されたCD全集Schlager der Kriegsjahre(戦時歌謡)は10枚組で1939年から1945年までのドイツ戦時下の歌謡曲200曲が収録されている。

ナチスは人種主義と退廃芸術の規制という立場からJAZZを「ニグロ音楽」として規制した。
だが、このCD全集で聴けばアメリカに宣戦布告した1941年以降も、また終戦までクラッシック音楽的なあるいはドイツリート的なメロディよりも圧倒的にJAZZ的音楽が多い。

一方でJAZZを隠れて聴くことでナチスの青少年規 制(ヒトラーユーゲントの加入義務化など)に対して抵抗するギムナジウムの学生たちが自然発生的に組織したSwing-Jugend(スウィング青年団) などが存在していた。

JAZZの規制をしながらラジオやレコードではJAZZ音楽(歌詞はあくまでもドイツ語だが)公然と流れているのに公式にはJAZZ は禁止。不思議な現象だ。

文化統制なんて民衆の趣向の前では有名無実になるということだろうか。



執筆:永田喜嗣



世間で言う「佐村河内守事件」でどうしてもわからない点がいくつかある。
私自身の問題として考えてみれば、私は音楽家ではないが文字を書く事を生活の大半に費やしている。
現在まで小説、詩、戯曲、エッセイ、評論、論文とずい分たくさん書いてきたが、ただの一度も他人の書物を拝借したこともなければ他人に書いてもらったこともない。
もちろん、佐村河内守氏のような大きな舞台で活躍をしたり、物書きとして華々しく活躍する様な機会には恵まれたことはないが、自分の作品は自分の頭と手で生み出し続けて来た。

佐村河内守氏のようにゴーストライターの手によって「自作品」を生み出すなどという行為は到底理解できない。
それは創作として喜びを得られる行為ではないのは明らかだ。
売れない物書きでも私は私自身の個性を持った作品を生み出せることに幸福と感謝を常々感じている。
誰しもがそうだと思う。

ならば、佐村高知氏が求めたものは何であろうか。
経済的成功か?
あるいは名声を得ることだろうか?
それは佐村河内氏にしかわからないことである。
少なくともそんなことをしてまで経済的成功や名声を欲しいとは私は思わない。
それが普通の感覚だろう。
佐村高知守氏はすでに多くの「嘘」を行ってきた。

作曲が自作ではなかったこと。
「現在も全聾」がそうではなかったこと。

氏の自伝『交響曲第一番』も虚偽に溢れている事は明らかだ。

どうしてここまで多くの「嘘」を必要としなければならなくなったのだろうか。
それは簡単に言えば人間の弱さなのかもしれない。

しかし、だからといって世間や人を欺くことは許されない行為だ。

特に身体障害者を装った(新垣隆氏の証言で佐村高知氏が通常に耳が聴こえていたとする証言が真実だとすれば)ことなどは許されることではないのだ。

どうして、彼は身体障害者を装うと考えたのか。
それが大きな疑問である。

佐村河内守氏が全聾であると偽った理由は世間では身体障害者で作

曲家であることが有利に働くという計算からであると見るのが有力
だ。
しかし、氏の自伝『交響曲第一番』を読むと実は最初はそうではな
かったのではないかと思える節がある。
自伝では全聾になって音が聞こえないので録音された音を聞いて録
音したりすることが出来ないため、信頼のできる助手を伴ってスタ
ジオへ行き助手に任せて自分はそれを監視して黙って座っていたと
ある。その理由は全聾であることが露見することを恐れたためだと
も書いてある。
ゲーム音楽「バイオハザード」の録音現場である。
また、ゲーム「鬼武者」の音楽「交響組曲ライジング・サン」の初演時には全聾であることを開示していたが、指揮者とは筆談で打ち合わせをしたとある。この指揮者とは「週刊文春」によるとゴーストライターだった新垣隆氏のことである。
自伝には書かれていないが、「交響曲第一番HIROSHIMA」の演奏のための指揮者との打ち合わせは耳が聞こえないこ
とを理由に指揮者に一任していたという話もある。
こうした事柄を繋いでゆくと、佐村河内氏が全聾を装ったのは音楽
知識や技術がないために専門的な話や打ち合わせを避けるためでは
なかったと思われる。
ゴーストライターである新垣氏に曲を書いてもらい、その曲に関して専門的な打ち合わせが関係者と行われた場合に対処できないため、耳が聞こえないとし始めたのではないかと考えられるのだ。

やがてその嘘は美談を呼び二重の効果を生む。
だが、その最初の嘘に辻褄を合わせるためにどんどんと嘘を抜き重
ねなければならなくなる。
今では「現在も全聾である」ことが嘘であったと告白せねばならな
くなった。もう誰も信用しないだろう。

嘘が嘘を呼ぶ・・・。

自分の能力を超えた能力を見せようとしたために嘘をつかなくては
ならなくなった・・・これはいったい何なんだろうと思う。



執筆:永田喜嗣







問題の作曲者詐称の人物、佐村河内守氏のドキュメンタリーを制作したのはNHKである。そのディレクター古賀淳也氏とNHK取材班による取材の記録をした本がこのNHK出版の『魂の旋律-佐村河内守』である。

この本を読むに連れ、私はこの本が震災によるPTSDを抱えた少女を作曲という虚構を背景に虐待とも言える行為を行った恐るべき記録であることを感じずにいられない。

これは人間の尊厳に対する冒涜である。

テレビ番組『NHKスペシャル・魂の旋律~音を失った作曲家』でも見られたが、佐村河内守氏は被災者のためのレクイエムを作曲するために被災者とコンタクトすることを想起し、3.11で母親を亡くした少女を見つけ、彼女に震災の話を聞くことにする。
佐村河内氏はNHKのスタッフと共に宮城県石巻市に向かう。
そこで彼らは少女が被災した現場へ連れてゆき、母の思い出を語らせるという行為に及ぶ。
もちろん、もうお分かりだと思うが作曲など行っていない佐村河内守氏にとってこれは全く意味のない行為である。

本書から引用してみよう。

辛い経験をした場所に子どもを連れて行き、話を聞くことに疑問を持たれる方もいると思います。後日、私も佐村河内さんにこの点について、ためらいはないのかと聞いたことがあります。佐村河内さんの答えは次のようなものでした。

「ためらいはないですね。話を聞かなかったとしても母親の希久美さんが帰ってくるわけではありません。その場所に行き、当時を思い出すことはとても苦しい ことだと思うし、残酷なことだと思いますけど、逆にちゃんと話を聞いてあげないといけない。僕は逃げることなく彼女の闇に向き合い一緒に背負いたい。その 覚悟があったから、彼女の気持ちを思うと辛かったですけど、迷わず聞くことができました。」
(古賀淳也『魂の旋律-佐村河内守』NHK出版、2013年、p81)

佐村河内守氏も古賀淳也氏もこの行動が「残酷」な行為だと理解している。にもかかわらず、レクイエムの「作曲」のためにその行動を正当化し、少女に被災地で亡くなった母親について語らせるという行為をさせるのである。
少女は子供である。
大人ではないのでこの大人たちを信じて促された行動へ素直に応じる。
彼女は判断能力が大人と同等ではない子供なのだ。

さらに本を読み進めると番組には出てこなかった件が出てくる。
石巻から自宅へ帰った佐村河内守氏は作曲に行き詰まり、もっとこの少女から話を聞く必要があると言い、彼女を再度連れ出して、今度は母親が亡くなった現場で話を聞き出そうとする。
古賀純也氏ははっきりとこの本に書いている。

私は真奈美ちゃんの身に起きるかもしれない、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のことも考え、母親が亡くなった場所に真奈美ちゃんを連れて行くことに戸 惑いを覚えました。しかし、私も、既に真奈美ちゃんは佐村河内さんに心を開いていると感じていましたし、佐村河内さんは真奈美ちゃんの思いを一切逃げるこ となく受け止めてきました。(中略)私は成り行きを見守ろうと思いました。
(前掲書p139-p140)

古賀氏ははっきりとこの行動が少女に精神的負担を与えることを認識しているのである。
仮に佐村河内守氏が本当に作曲を自身で行う芸術家であったとしてもこうした行為は許されるのであろうか。
私は激しい怒りを感じるのである。

結果として佐村河内守氏の作曲は別人が行っていた事が露見した。
彼は作曲のために苦悩などしていなかったのである。
にもかかわらず二度にわたって少女に対するこの無意味な行為を行った。
これは許されることではない。
もちろん、同行した古賀淳也氏もNHKスタッフにも重い責任があるのではないか。

少女はあるいは今回の騒動を知っているかもしれない。
テレビ番組で晒され、本で晒され、トラウマを抑えて亡くなった母の思い出を語らされたこの少女が今回の虚偽騒動を知れば更にトラウマを抱えるのではないか。

この本の持つ罪の大きさを私は考えて止まない。

この罪は、音楽家や企業、消費者を欺いた行為よりも重いのではないか。
被害者はトラウマを抱えた子供達なのである。

私はこの本を読むことで激しい怒りを感じた。
恐ろしい虐待の記録である。

佐村河内守氏はもちろんのこと、古賀淳也氏やNHKはこの問題についてはっきりと説明するべきであり、NHKは加担した行為について番組や本で欺かれた子供達やその家族に謝罪すべきである。

私のこの記述を読んだ方々もこの問題について是非、考えていただきたいと思う。

執筆:永田喜嗣

作曲家の天野正道氏は『ジャイアントロボTHE ANIMATION』の劇伴音楽を作曲するとき、恣意的にエルガーの「威風堂々」、モーリス・ジャールの「パリは燃えているか」、モーツァルトの「レクイエム」をそれと分かるアレンジで盛り込んだ。それをもっていして天野氏のこの映画音楽が無価値だとは到底思えない。ワルシャワ・フィルに演奏させたそのサントラ盤は今なお人気があり評価も高い。
佐村河内守作曲名義である新垣隆氏作曲の『交響曲第1番』(あえて私はこの曲をHIROSHIMAとは呼びたくはない)は作曲家の野村剛夫氏が指摘したようにショスタコーヴィッチやマーラーなどの作風が随所に導入されている。その点においては天野正道氏の『ジャイアントロボTHE ANIMATION』と変わりがない。
確かにその導入はクラッシ
ックの専門家が検討しなくともクラッシック音楽を愛好するものなら誰にでも判別できる程度のものである。オリジナリティ溢れるかと言われればそうとも言えない。新垣隆氏は週刊誌の取材でも明らかにしているように『交響曲第1番』は自分の本流ではない息抜きであったことや、この曲が売れるとは考えていなかったと言っている。だから他の作曲家も作風の導入も気にはしていなかっただろう。
『交響曲第1番』はツギハギ感が拭えない。
だからといってこの曲
を無価値とするのは早計であるかもしれない。
世間的には佐村河内守氏の虚偽からこの楽曲の評価まで否定する向きが多い。
マーラー愛好家である私の知人は『交響曲第1番』における露骨なマーラーの模倣に怒りを隠しきれない様子だった。確かに映画音楽ではないクラッシックで露骨な他作曲家の作風の導入は怒りを買いやすいのも分かる。
その点で『交響曲第1番』は問題のある楽曲だとしても、他の作品、例えば『吹奏楽のための小品』であるとか、今話題になっている『ヴァイオリンのためのソナチネ』などは楽曲としては独自性があり素晴らしい作品だと私は思っている。
こうした新垣隆氏の楽曲は忌まわしい状況で生まれたとしても、楽曲としての価値には左右されない。もちろん、新垣隆という一音楽家の才能を左右するものでもない。
佐村河内守氏は一日も早くこの問題を自ら釈明し、決着を付けてもらいたいものである。その上で新垣隆氏の楽曲が「佐村河内守」という虚像のレッテルから解き放たれて人びとの耳に触れる機会を得られることを私は祈っている。
新垣隆氏が佐村河内守氏に提供した調性音楽の数々の音源は是非とも保管されるべきであり将来は再び浄化されてリリースされるべきであると私は思う。

執筆:永田喜嗣


佐村河内守氏が別人に作曲させていたとして問題になっている一連の騒動。週刊誌やゴーストライターであった新垣隆氏の会見、佐村河内守作曲名義の楽曲、騒動以前の報道番組などに接しながらこの問題を考えている。
中でも問題に感じたのはNHK制作の「NHKスペシャル・魂の旋律 」である。
騒動が起こった後にこの番組の動画を入手して視聴してみたが露骨な演出が非常に不快な印象を与えるものだった。
私は以前の仕事でよくNHKの報道ドキュメンタリー番組に関わったことがあったが、「やらせ」をやらせようとする制作者の態度は何度も体験してきた。だから今更ながらにこの番組の中で行われているであろう「やらせ」もあって当然だと思うが、それにしてもこれは露骨だと思わずにはいられない。
特に後半の被災地の母親を震災で亡くした少女と佐村河内の交流を撮った件は酷い。
少女を震災に遭遇した学校の教室へ連れてゆき、そこで佐村河内から母への想いを聞き出そうとさせるところなど、ここまでする必要があったのかと思わずにいられない。少女は就寝の際も未だに祖母と腰紐で繋がれていないと不安で眠れないという状況である。震災と母を喪ったことにトラウマを持っていないと誰が断言できるだろうか。
その少女を震災に遭遇した場所へ連れてゆき亡くした母について語らせるという残酷さ。この少女を使って佐村河内の「命を削る音楽の創造」へのモーティベーションを強化して描き出そうというものだろうが、当時、この番組を観た視聴者はこの虐待性を見抜けなかったのだろうか。
ラストの少女と佐村河内が手をつないで慰霊碑に音楽完成の報告にゆくシーンも如何にも「お涙頂戴」的な演出だ。
弱者である子供まで巻き込んでこの様な「感動作」を作る必要があったのだろうか。
この一連の演出はディレクターによるものなのか佐村河内守氏によるものかはわからない。しかし、NHKのカメラは残酷なその演出の間近で回っていたのだ。
そして、この番組の視聴者たちはプログラム通りに「感動」して偽ブランドに帰依していったのだ。
佐村河内守の虚偽発覚でこの番組の虚構性が露呈したわけだが、こうして観ているとNHKの番組制作スタッフの制作態度も恣意的で作為的に見えてしまう。
一連の騒動は音楽家や評論家たちが佐村河内守作曲名義の楽曲を礼賛したことから始まっている。しかし、その最も忌ましむべき「お涙頂戴物語」を喧伝し、補強して音楽的価値の外側の傍流と偽ブランドを強化して増長させたのは明らかにこの作為的なNHKのドキュメンタリー番組であると私は思う。
この点、騙されたプロモーターやCD販売会社、音楽家や楽団の立場とNHKのそれは全く違っている。
NHKは佐村河内氏の嘘が見抜けなかった被害者として誤報を謝罪しているが、事はそんな単純な問題ではない。
佐村河内守氏と共に国民を騙したのはNHKだと思うは私だけであろうか。
ディレクターの古賀淳也氏は週刊文春の取材も拒否したそうだが、受信料を受け取って公的番組を制作しているNHKと番組ディレクターはこの番組についての釈明を自社の番組の中で行う責任があるのではないかと私は強く感じるのである。


2月6日付で大阪交響楽団が以下のようなメッセージをウェブサイ
トに告知した。

「作曲家(と言って良いのかすら、今はためらいを覚えています)
 佐村河内守氏について、連日にわたりマスコミ報道されておりま
す。
弊団は佐村河内氏の交響曲第1番「HIROSHIMA」を201
2年10月24日の第170回定期演奏会(指揮:大友直人氏 於:ザ・シンフォニーホール)にて演奏いたしました。指揮者はも
とより、弊団事務局および楽団員の誰ひとりとして一片の疑いを持
つことなく、ただそこにある楽譜に込められたメッセージに忠実に
音楽を奏で、ご来場いただいたお客様に感動を伝えるべく真摯な態
度で演奏いたしました。
しかしながら、このような形で、私どもを含め善意の第三者の方々
、聴衆の皆さま方を欺いたこの行為は決して許されるものではなく
、この事実に大変衝撃を受けるとともに、強い憤りを感じております。
私ども大阪交響楽団は、今後とも変わることなく作品に真摯に向か
い合い、弊団のモットーである「聴くものも、演奏するものも満足
できる音楽を!」のもと、益々精進してまいりますので、変わらぬ
ご支援、ご声援を賜りますようお願い申し上げます。

                   一般社団法人 大阪交響楽団」

今回の騒動で佐村河内守氏作曲名義の楽曲を演奏した楽団にまでそ
の波紋は広がっているいることを示している。
大阪交響楽団のこの告知は謝罪ではなく、楽団もまた観衆と同じく
欺かれた被害者なのであるという姿勢を明らかにしている。
もちろん、楽団としては虚偽があったことを知らなかったこと、佐
村河内守氏の虚偽には加担していなかったということを社会的に明
らかにしておかないといけないという考えもあったであろう。
大阪交響楽団より先に演奏を行った東京交響楽団(つい数日前まで
発売されていた日本コロムビアのCDも東京交響楽団の演奏である
)のウェブサイトでは特に今回の騒動に関する楽団からの声明は現
在のところない。
楽団は現存する楽曲をただ選曲して演奏したにすぎなのいのだから
わざわざ声明を出す必要もないのではないかとも私は考える。だか
ら、東京交響楽団の態度について私は何も思わない。
この二つの楽団の対応は今回の騒動に関与してしまった多くの専門
家たちのその後の対応を象徴しているかのように思う。

果たして、専門家や音楽家に責任はあるのだろうか。
インターネット上では過去に佐村河内守氏とその作品を礼賛した著
名人や専門家がその言葉と共に公に晒され始めている。
作家の五木寛之氏、作曲家の吉松隆氏、三枝成彰氏、指揮者の大友
直人氏などなどである。
こうした過去に礼賛した人の中には自身のブログなどで釈明や回顧
をしている人もいる。
これらの人たちが佐村河内守氏の楽曲や芸術性について礼賛してい
たことが今日の騒動での責任はあるのだろうか。
佐村河内守氏の虚偽を見抜けなかった事は事実だが、インターネッ
ト上に晒されている過去のこうした著名人の礼賛のコメントをよく
読めば、音楽関係者に関する限り、私は責任があるとは思わない。
特に『交響曲第1番HIRISHIMA』を強く支持していた三枝
成彰氏は自身のブログを拝見する限りでは音楽性に限って礼賛して
いるのみである。
以前からロマン主義を掲げる三枝氏は古典的なスタイルを持った調
性音楽が一般には人気を呼ばない日本の現代音楽界に新しい未来を
拓くと期待していたようである。三枝氏はブログに下記のように記
していた。

「ロマンティシズムへの回帰」、そして「官能の海に溺れる音楽こ
そ、21世紀の新しき前衛」と提唱してきた私としては、彼のよう
な人が同じ世界にいて下さることに、とても勇気づけられるのだ。
(「勇気をもらった「交響曲第一番」」『三枝成彰のイチ押し!』
2009年7月12日)

また三枝氏は「それに私は、佐村河内さんが上述したようなバック
ボーンを持つ人だから「交響曲第一番」がよいと思ったわけではな
い。」とも書いている。
しかし、皮肉なことに大衆の大多数は三枝氏の意思とは逆に「被爆
二世」で「聴覚障害者」で「苦労を重ねてきた不世出の音楽家」と
いうバックボーンに流され音楽には注目しなかったのである。

過去に佐村河内守氏と作品を礼賛した著名人、音楽家、演奏家、楽
団をインターネットで否定的に晒すもの自由だが、その初心はきち
んと見て振り分けてもらいたいと私は強く思う。

執筆:永田喜嗣


数日前の騒動から佐村河内守氏作曲名義の楽曲「交響曲第1番HIROSHIMA」に対する評価が一変してしまった。
Amazonのカスタマー・レヴューを見るとこの騒動に関連した記述が圧倒的に増加している。今まで礼賛されていたこの交響曲に対する評価も酷いものになってきた。
そもそも、考えるに交響曲の評価と今回の事件は全く別物である。
佐村河内守氏が作曲していないとしても、彼が本当は耳が聴こえていたとしても、出来上がってCDとしてリリースされている楽曲の価値が左右されるものではないはずである。
「交響曲第1番HIROSHIMA」が良い曲がどうかはCDを買うリスナーが評価すべきだが、現在までクラッシックの一部のファン以外にこの楽曲に対する批評は表面的には殆ど見られなかった。
ところが、今回の騒動を機にこの楽曲までもがその価値を失ってしまったという感がある。
これは理解できるようで理解に苦しむ現象だ。
佐村河内守氏が全聾にもかかわらず闇の音で作曲をしていた、その作品であるという付加価値がこの交響曲の評価の大部分を占めていたということになる。
私の疑問はこの交響曲のCDを買ったリスナーの人々が一体何を聴いていたのだろうかということだ。
私はこのCDを初めて聴いたとき大きな落胆を感じた。
既存の名作曲家による名曲のエッセンスを切り貼りした作品だと感じたからだ。
一回聴いただけで二回目聴く気にもならなかった。
私にとって佐村河内守氏がどの様な人物かは全く興味がなかったので、純粋に「HIROSHIMA」と名付けられたこの楽曲にしか興味がなかった。
もちろんNHKのドキュメンタリーも観てはいないし、佐村河内守氏の自伝も読んではいない。
恐らく、多くの人も事前に作曲者に関する情報を聞いていなかったとしたら、このCDの音楽にそうれほど興味も示さなかっただろうし、聴いても心動かされなかっただろう。
日本の現代音楽のCDで18万枚も売れたというのは空前の出来事である。
私も30年来の現代日本音楽のファンの一人だがこの様な現象を未だかつて見たことがなかった。それだけにこの楽曲の人気を奇異に感じてならなかったのである。
一部の音楽評論家を除き、ほとんどの専門家も礼賛していた。
その影には「身障者」にもかかわらずここまで「作曲」が出来ることがすごいという、どこか歪んだ評価が付加されていたに違いない。
作曲者とされた人物が平凡な健常者だったらこの交響曲がここまで評価されたかどうかは甚だ疑問である。
では、この交響曲がここまで売れたのは何故かというと、「全聾の作曲家」あるいは「現代のベートーベン」という宣伝文句によって誘導されたに違いない。
しかし、虚偽が並んだ可能性が高い佐村河内守氏の自伝と比べて楽曲は音楽として完成している。その音楽の中には虚偽があるだろうか。
虚偽は佐村河内守氏が作曲してはいなかったということや、彼が耳が聞こえていたのではないだろうかという点のみであって、決してこの楽曲の中にそれが含まれているものではない。
楽曲は新垣隆氏という作曲の専門家によって創られた。
それが白日の下にさらされたとしても楽曲の価値は変わるものではないし、評価もまたそうである。
我々は騙されたのか。確かにそうである。
しかし、今、この交響曲を楽曲以外の外側に散りばめられた評価を持って価値がないとしてしまうならば、我々は更に騙されていることになる。
18万枚も売れたのだから、あるいは私のこの駄文を読んでくださっている人の中にもこの交響曲のCDを買った人もいることだろうと思う。
私たちは今一度、このCDに耳を傾け、一切の先入観を捨ててこの楽曲を評価してみる必要がある。
そして、この楽曲が「つまらない」と思えばそれがこの楽曲への最終的な評価となる。
逆もまた然りでなのである。

私も一回しか聴いたことがない、このCDをあらためて聴いてみようと思う。

執筆:永田喜嗣

『新潮45』に掲載された音楽家、野村剛夫氏の「全聾作曲家 佐
村河内守は本物か」をkindleで読む。

昨年12月に発表され

たこの短い評論がゴーストライターだった新垣隆氏に事実を公表す
る端緒となったという。
私は佐村河内守の「交響曲第1番HIROSHIMA」を2年前「
ショスタコービッチとウォルトンとブルックナーとマーラーに武満
フリカケをかけたような感じ」と評したが、野村氏もショスタコー
ヴィッチやマーラーの切り貼りであることを記している。素人の私
でもそれが分かったのだから、その辺はクラッシック音楽が好きな
人ならとっくに分かっていたことだろう。どうして我々はこのよう
に簡単に礼賛してしまったのだろうか。

野村剛夫氏は交響曲の題名を『HIROSHIMA』としたのは普
遍的に神聖化されているヒロシマと自身が「被爆二世」であるとい
うことを意識したとし、併せて「聴覚障害者」として、または病魔
を抱える身として、苦労をセールスポイントにして音楽を売ったとしている。
つまりはお金のためであったのではないかと。

もし、そうならば金銭のために「物語」を作って多くの人を欺いた
ことになる。それとも金銭のためではなく名声のために、だんだん
とこのループへと引きずり込まれたのだろうか?

本日の新垣隆さんの会見で佐村河内守氏は「聴覚障害者」であるこ
とも虚偽ではなかったかとの証言もあった。
作品が自身で書かれたものではないことだけでなく、聴覚障害まで
虚偽であれば佐村河内守氏を巡る物語は全て虚構となる。
更にはその虚構から生まれた「物語」を安易に「神話」化して大衆
に与えてしまったマスメディアや音楽関係者の責任も重い。

2012年に私が見た大阪初演のスタンディング・オベーションの
異様な光景はまさにそうした「神話」化が生んだ結果だったののだ
から。

今回の騒動で我々が学んだことがあるとすれば、我々はマスメディ
アにはかくも簡単に騙されてしまうということだ。
一個人の壮大な虚偽をも見抜けないメスメディアを信じてしまう我
々自身の感覚を決して信じてはならないということなの
ではないだろうか。


以下は2012年9月20日に私が「青空帝国」に書いた感想だった


「佐村河内守(さむらごうちまもる)というすごい長い名前の作曲
家の交響曲『交響曲第1番HIROSHIMA』が大友直人指揮で
大阪初演されるとあって予習のためCDを聴く。大友さんは相当の
この作品が気に入っているようだ。なぜならショスタっぽい。印象
としてはショスタコービッチとウォルトンとブルックナーとマーラ
ーに武満フリカケをかけたような感じ。良いか?と言われれば、ち
ょっと答えられないなあ。なんとなく印象のないまま終わってしま
う感じ。僕としては何も残らない。
団伊玖磨の『HIROSHIMA』の方がインパクトあったかな?
まあ現代音楽としては聴き易い作品かも。」

このブログ記事に対する反応は厳しかった。コメント
で「産みの苦しみを知らないのか。」とか「身体障害を乗り越えて
頑張っている人の気持ちが分からいのか」あるいはヒドイもにになると「大阪公演に来な
いでください。」というものまであった。
この曲の作曲者佐村河内守氏が「聴覚障害者」
で「現代のベートーベン」という異名をとっている人だったからで
ある。

佐村河内守氏の作品、特に「HIROSHIMA」の場合、音楽評
論家の評論を読んでいると「聴覚障害者」であるという前提がどこ
かカッコ付きになっている印象があった。つまり困難を乗り越えて
来たその苦しみが作品に表れているという様な評価である。

大阪公演でも観客の多くがそういった感じで、それは佐村河内守氏

を特集した「NHKスペシャル」が影響していたのだと思う。私が
かつて経験しなかった通常のコンサートとは思えない異様な雰囲気
だった。コンサートが終わると作曲者が舞台にあげられスタンディ
ングオベーションを受けていた。
なるほど、私がブログ記事で酷く非難されたことも、その時よく理解できた

NHKスペシャルで佐村河内守氏の創作活動に感動したシンパたちがっちり
守っていたということだろう。

ところが、昨日、佐村河内守氏が作曲はゴーストライターがいて、
自分は書いていなかったと発表した。レコード会社もプロモーター
もCD発売中止や公演キャンセル払い戻しと大騒ぎとなっているようだ。

もしも、ゴーストライター氏の名義の作品だったらここまでこれら

の楽曲が注目され人気を呼んだだろうか。
私は疑問に思う。
ただでさえ、退屈だとか難解だと言われて敬遠される日本の現代音
楽である。それがCDが18万枚も売れるという人気を博したのは佐村河内守氏が「聴覚障害者」という音楽評価という枠外に付けられた「カッコ付き」が影響していなか
ったのか。
もしそうならば、私は残念に思う。

評論家にしても音楽的、芸術的価値を認めたなら、ゴーストライタ
ーであった新垣隆氏を稀有な才能を持った作曲家として変わらず評
価し続けなければならない。

果たしてそうなるだろうか。

評価とは?評論とは何か?

それがわからなくなる今回の出来事である。