
1969年のイギ リス映画『空軍大戦略』(原題:"Battle of Britain”)の音楽は当初、イギリスの現代音楽作曲家で映画音楽にも戦前から傑作の多くを持つウィリアム・ウォルトンが担当していた。ウォルトンを 推薦したのはこの映画の出演者の一人であるロレンス・オリヴィエだった。ウォルトンはオリヴィエの『ハムレット』の音楽を過去に担当していた。
『空 軍大戦略』は第二次世界大戦の英独戦で天王山となった「英国の戦い・バトル・オブ・ブリテン」を映画化した作品だ。英国本土に侵攻するための制空権を得る ためにドイツ空軍が圧倒的な航空兵力で英本土を空爆するのに対して英国空軍が明らかに兵力、人員不足のまま迎え撃ち最後には撃退してしまうまでを描いた大 作だった。
ウォルトンの映画音楽は常に英国の気品あふれる「クラッシック音楽」である。
彼はこの映画のためにスコアを書き、録音までされた。
ドイツ軍を描写する音楽にはワーグナーやシュトラウスの旋律やナチ党党歌のホルスト・ヴェッセルのメロディを用い、英空軍の描写は壮大で華やかなプレリュード風の曲が付された。
ウォルトンの"Battle of Britain”スコアは映画音楽というより一つの交響組曲で実に素晴らしい作品だった。この楽曲は録音も済まされて映画に使用されるのを待つだけだった。
しかし、監督のガイ・ハミルトンはウォルトンの音楽に難色を示し、映画音楽作曲家のロン・グッドウィンに作曲を再依頼した。
グッドウィンの音楽は組曲ではなく、画面とシンクロした劇伴音楽として作曲された。ハミルトンは映画作りの職人として音楽にも芸術的な色よりも職人技を求めたのだろう。
こうしてウォルトンが作曲した楽曲は映画本編では一曲しか使用されなかった。
ロン・グッドウィンの楽曲も素晴らしく、完成した映画を観るとウォルトンの楽曲を使わずグッドウィンの楽曲にしたことは結果的には正解だったと誰もが思うだろう。
何故ウォルトンの音楽が敬遠されたのか。
それについては記録がないがある程度の推測はできる。
監 督のガイ・ハミルトンはこの映画『空軍大戦略』であるトラブルを起こしている。ドイツ空軍側の監修者として第二次大戦中のドイツ空軍のエースパイロット だったアドルフ・ガーランド元少将が招かれていたが、ハミルトンのドイツ空軍描写での凝ったナチ演出にガーランドが怒り、監修を映画撮影中に辞してドイツ へ帰国してしまったのである。
問題の発端は劇中、ゲーリング国家元帥にドイツ空軍の司令官の一人であるケッセルリンクがナチ式の右手を高く掲げた敬礼をするという場面である。
ガーランドは空軍はナチではないのでこうしたナチ式敬礼はしないと抗議したが、ハミルトンは折れることなくその演出を通したのだ。
ハミルトンは自国の英空軍を幾分、惨めに描写してドイツ空軍を徹底的に折り目正しいプロイセン的あるいはゲルマン的に格好よく演出した。そのカラーははっきりしている。
ウォ ルトンの音楽はそれに反するかの様にイギリス側を壮麗で荘厳に誇り高く描いた。ドイツ軍を表現する音楽はワーグナーの楽劇「ラインの黄金」(ヒトラーは ワーグナーの信奉者だった)とシュトラウスの「歌劇こうもり」(ヒトラーはオーストリア出身だった)そしてナチ党の党歌ホルスト・ヴェッセルの歌をモ ティーフにしてナチが寄せ集めの借り物文化的な所産であることを仄めかした皮肉たっぷりなものとして完成した。
ガイ・ハミルトンが追加発注したロン・グッドウィンの楽曲はドイツ空軍を壮麗なパレードマーチを主題として、そのマーチのトリオ部分のモティーフよる変奏曲でドイツ側を華やかに表現した。
近 年、発売された『空軍大戦略』のDVDでは没になったウォルトンの音楽設計によるバージョンが再現されたが、このバージョンでは全くドイツ軍側の華やかさ は表現されていない。ドイツ軍の場面には殆ど音楽が付されてはいないのである。これに対してロン・グッドウィンの音楽設計はドイツ側の画面には徹底的に華 やかで荘厳華麗な音楽が常に付されている。
ハミルトンは劇中の演出だけでなく音楽においてもドイツ軍を格好よく演出することを望んだに違いない。
そのためにはウォルトンの音楽設計では成し得なかったのだろう。
対するウォルトンはドイツを賛美する音造りよりも英国を荘厳に描きたかった事は楽曲を聴けばよく分かる。
ここにはウォルトンの愛国者としての姿がある。
ハミルトンのドイツ人の意見まで退けてドイツをよりドイツ的に描こうとした異様なまでのドイツ偏執ぶりとウォルトンの祖国である英国への愛国の思想には相反するものが最初から存在していたに違いない。
素晴らしい組曲であるのにも関わらずウォルトンの"Battle of Britain”は日の目を見ずに消えてしまった。
後に『空軍大戦略』のオリジナル・サウンドトラックCDでウォルトンの"Battle of Britain”は全曲収録され、またウォルトンの作品全集のCDにも収められた。
使われることのなかった主題曲は英国空軍軍楽隊でも演奏されるナンバーになっている。
映画ファンの視点から言えば映画『空軍大戦略』の音楽はウォルトンよりもグッドウィンが良かったのではないかと思う。
ただ、このウォルトン版の『空軍大戦略』は音楽としては捨て置くにはあまりにも惜しい作品である。
執筆:永田喜嗣