大宝律令は唐(今の中国)の律令制度に習い、

日本で初めて法律を整え、体系化した法典です。

 

大宝律令は大陸の思想に影響を受けながらも

古代から伝わる日本社会の思想を織り込み、

つくり上げたものです。

 

例えば「家父長制(最年長の男性を家長とし、

家で絶対的な権力を持つ考えかた)」は大陸の

古代からの思想で「父系社会(父から息子へ財産や

地位を継承する)」と密接した関係です。

 

大宝律令も家父長制の考え方に影響を受けて

家族の運営から国家の体制まで男子優先と

読める条文がありますが、大陸のようにそれを

徹底したものではなく、日本の思想に合うよう、

柔軟になっています。

 

例えば前回紹介した継嗣令第一条には、

 

凡そ皇(天皇)の兄弟(姉妹を含む)、皇子(皇女を含む)をば、

皆親王(内親王を含む)と為す。(女帝の子も亦同じ。)

(※内親王は女子の親王のこと。)

 

必ず男子絶対ではなく、女子も男子と同じ立場であることを

示しています。これは大陸では到底受け入れられない思想です。

 

ここで分かることは、大宝律令が作られる前は

「父系社会」ではなく「母系社会」だった、

ということでしょう。

なぜなら、古代日本が「父系社会」であれば大陸の思想を

そのまま受け継げばよいだけなのに、「母系社会」だからこそ、

大陸の思想との折り合いをつける工夫、ととれるからです。

明治22年に制定された皇室典範。

皇室典範では皇位継承は「男系の男子」に規定され、

女子には継承権がない、とされています。

「男系男子が皇統の伝統である」と声の大きい国会議員たちは

主張していますが、そのままでは実質的な皇位継承者は

悠仁親王親王殿下だけになってしまいます。

 

ところで、皇室典範策定以前、次の天皇はどう決めていたか、

ということが気になります。

 

皇室典範以前をさかのぼると、

701年に策定された「大宝律令」があり、その後、

718年に大宝律令の改訂版といわれる「養老令」が策定され、

そこには皇族に関する規定が定められています。

 

継嗣令(養老令の一法律)第一条(皇兄弟子条)

凡そ皇(天皇)の兄弟(姉妹を含む)、皇子(皇女を含む)をば、

皆親王(内親王を含む)と為す。(女帝の子も亦同じ。)

以外は並に諸王(女王を含む)と為す。
親王より五世は、王の名を得ると雖(いえど)も、

皇親の限に在らず。

 

簡単に言えば、天皇のきょうだい、その子供、

ほか5世までは皇族とするが、

6世以上離れると皇族ではない、ということ。

 

皇族が際限なくふえていくことを防ぐために

この決まりが作られたそうです。

 

では、皇位継承に関してはどうしていたかというと、

令には書かれていません。

ChatGPTによると、当時の皇位継承に関しては

慣習と皇室内で話し合われた、とされています。

 

皇室典範のように「男系男子に限る」と明記されている

ものはないようです。

 

では、当時の慣習としてはどうなのか?

ということですが、それは大宝律令の成り立ちを

知ると分かってくると思います。

皇室典範は明治22年(1889年)につくられ、

皇位継承については第1条に「男系ノ男子之ヲ継承ス」

されています。このため、女性である愛子様は皇位を

継承する立場にあらず、結婚すると民間に下ります。

 

国会議員の声の大きい人たちは、この皇室典範を根拠に

「日本の皇室は古来から男系の男子で継いできた」と

信奉しています。

 

さて、皇室典範が成立した経緯ですが、この時代は

自由民権運動の大きなうねりの中であり、

皇室典範を策定するにあたり女性天皇も認めるか、

ということも大きなテーマでした。

 

この中で大きな役割を果たしたのが、法制官僚の

井上毅(こわし)。井上は、伊藤博文の皇位継承は

女性でも良しとする草案に対して、

 

「男を尊び、女を卑しむの慣習、人民の脳髄を支配する

我国に至ては、女帝を立て、皇婿を置くの不可なるは、

多弁を費やすを要せざるべし」

 

”男尊女卑が浸透しきっている日本において、

女性天皇を認めるかどうか議論するまでもない”

 

これが決定打となって、現在の皇室典範にも

その意思が受け継がれています。

 

さて、この井上の考えが本当だったのか、

また、声の大きな国会議員の主張する

「日本の皇室は古来から男系の男子で継いできた」

が本当だったのか、ということを見ていきたいと思います。