ケアマネジメントが目指す目標

を探すシリーズ、今日から

新たな視点・論点を示して

みたいと思います。


「自立支援」という言葉は「身体面」

「生活の質」という言葉は「社会面」

と、それぞれ、身体・社会に関する

ところの割合が多くなる結果と

なりました。


それでは、

身体・社会とあとひとつの要素、

「精神はどうか?」という話です。



「自立支援できた例」という問いに、

「身体面」をあげたケースが56%。

「社会面」をあげたケースが20%。

では「精神面」は、というと、17%。


同じように

「生活の質が向上した例」では、

「社会面」を上げたケースが43%

「身体面」を上げたケースが23%

そして「精神面」は24%


「生活の質」への答えは

わずかに「身体面」を上回ったにしても

「精神面」を上げた人はそう多くなかった。


「心のケア」だとか、「精神面のケア」

とかいう言葉もよく言われているのに

この結果は正直ビックリでした。




「精神面」に関するキーワードは、

⑩意欲

⑪表情の変化

⑫BPSD(周辺症状)

⑬自信

でした。


「意欲が向上した」

「自信が戻った」

「笑顔が増えた」なんて、

とっても大切なことですよね。


でも、数としては少なかった。

いったいどういうことでしょう。


言葉にしにくかったのか、

思い出しにくい、印象に残りにくい

ことなのか。




「精神面」って、そんなに

重要視しなくても良いのか。


そういったところを

考えてみたいと思います。

「自立支援」と「生活の質」シリーズを

続けているところですが、

どうしても書きたい話があったので…。




昨日、妻に言われてPTA研修会、

「人権について」というのに出てみた。


学校の先生のお話では、

数ある人権の中には

「高齢者の人権」ってもんが

あるんだそうだ。




最近、「自立支援」のシリーズを書いていて

ひねくれた思考回路になってしまっている

私はグループワークでこんな話を持ち出した。


「私は、高齢者関係の仕事をしていますけど、

よく『高齢者の人権が守られていないこと』って

たくさん見るんですよね」


「老人ホームに入る人の人権って

守られていないように思うんですよね。

家族の都合で入る人って多くて」




言葉に詰まる司会者。

そばにいた主催者側の保護者が

(この場は俺に任せとけ)みたいに

こんなことを言った。


「老人ホームに入るのがしかたがない場合もあるし、

『お金さえ払っとけばいいか』みたいな場合もある。

後者だったらダメだけど、前者だったら面会に

頻繁に行くとか、いろんな方法があるんじゃない?」


私は間髪いれずにこんなことを言ってしまった。

「私が思うのは、その人がどうしたいのか、

というのを守るのが人権でしょ。

それはその人の尊厳を守る、ってことになる。

『家で暮らしたい』という意思が尊重されないことは

尊厳が侵されるっていうことじゃないです?」


思った以上に場が凍りついた(笑)




そのあと、舅を施設に入れていた

先生が「それを聞いてハッとした」

といったので、初めて自分が

(不味いことを言った)と気づきました(笑)


人権研修会なんて、いつもありきたりの

話で終わってしまうので、ちょっとした

話題提供をしようとサービス精神を出したのが

大いなる失敗に終わりました。




さて、

「高齢者を老人ホームに入れること」は

人権を侵すことになるのか。


それについては賛も否もあると思うので

はっきりした意志は表明しませんが、

人権っていうのは、いとも簡単に

脅かされたり、侵されたりするもんだと

私は思っています。


人と人とがごった煮で暮らしている以上、

Aさんの権利とBさんの権利が

相反することなんて日常茶飯事。


施設に入れたと言われた先生は

「認知症で暴力があったから」と

説明されましたが、舅が家にいたら

おばあさんの安全に暮らす権利が

脅かされていたわけです。

その権利を守るために、

おじいさんの自宅で暮らす権利を

奪ったということになるわけで。




この研修会では、わが子の人権学習で

学んだノートが保護者に配られていました。


これって、子供の許可はとったのか?

「親に見せても良いですか?」って

断ったのか?

「読まれたくない」子供の権利を

ないがしろにしていないか?


私は親だから見ても良いと思っています。

「わが子の学んだことを知る」権利は

親だから、あってしかるべきです。




ほ~らね、やっぱり権利は

いとも簡単に侵害されてしまうでしょ。




だから、

「人権は大事です。

誰にも侵害する権利はありません。

他人を大切にすることは、

自分を大切にしてもらうことです。」

なんてこと言っても、どうなの?


「ウソじゃないの?」までは言わないけど、

「そんなこと言ってて何か利益になるの?」

って思ったわけです、身も蓋もないことを。




それを言うなら、もっと現実的に

「人権を奪うことは日常茶飯事です。

ほら、こんなことがあるでしょ。だから、

自分の行動に注意して生活しましょう」

のほうがいいんじゃないかな?


そのほうが、毎日の生活を

謙虚に振り返りながら

送ることができるんじゃないかな。


(今のはまずかったかな?)って

謙虚に振り返ることは、そのとき

同時に相手がどう思ったか、

推し量ることになるわけですから。


(相手のことを思う)ってのは、

こういうことじゃないかなって

思うんですよ。


「人権学習を山ほどやった。

だから、自分の行動に間違いはない。

大丈夫」って傲慢に、ではないけど、

振り返りもしない生活を送ってしまう

ことになるんじゃないか。






…なんてことを帰って妻に言ったら

「”ウザ”って思われるだけだよ」って

言いやがった。




PTAの研修会なんて

もう行かない(笑)

「自立支援できた」と感じた例、

「生活の質が上がった」と感じた例、

そのそれぞれを「身体」・「精神」・「社会」に

振り分けていった結果、


「自立支援」については「身体面」に

「生活の質」については「社会性」に

重心が移っていった結果となりました。




この結果の意味を

私はこうとらえました。


「ケアマネのあり方検討会」で

「自立支援の理念が共有されていない」

と指摘していたのは、実はその結論は

0点ではないが100点でもない。

50点の答えなんじゃないかと思いました。


ケアマネジメントの目標は、

「自立支援」だけにすえられても、

その網から漏れてしまう人がいる。


それがターミナル期の人であり、

難病の人でもあります。

また、麻痺した部分のように

障害が完治しない場合も

それにあたるかと思います。


そういった人たちの目標になるのは

「生活の質を落とさない、向上させる」

という視点であり、それは「社会関係」

が保たれる、復活する、新たに生まれる

ということで可能になるのではないか、

ということです。




同じ病を患った者どうしが出会い、

おたがいの生きにくさ、苦労を語り、

(自分だけではないんだ)と思えること。


また、できなくなった部分を助けてくれる人がいて

今までと変わらない生活が送れること。


臨終の祭には家族、親族、友人たち

多くの人に惜しまれながら逝くこと。


身体面が「自立」できなくても、

その人の社会関係があれば、

「生活の質」は保たれると思うのです。




もっというと、

身体的にはすべてにおいて自立していても、

社会関係が築けていない状態では、

その人の「生活の質」は高いのか、

甚だ疑問です。


定年まで頑張ってきたお父さんが

1日自由に過ごせるのに

出かけるご近所もない、

家族からも相手にされない。

そんなお父さんの「生活の質」は

いったいどう評価されますでしょうかね?









俺もあぶねえな(苦笑)





ということで、まずひとつの結論は

そういうことです。


次回はちょっと視点を変えて問題提起をします。