役割についてのお話を再開します。

こんなことを書いて終わっていました。




実は、

こんな”役割”というものがあることを、

とある本が教えてくれました。


~~~~~以下、引用


末期の親をもつ娘の正直な気持ち。世界中の母親たちに向かって言いたい言葉である。「ママが病気になって悲しくないといえば嘘になるけど。でも、ママは生きていてくれるだけでいいのよ」

私を抱きしめ、微笑みで安心させてくれた母。おしめを替えて、清潔に気を配ってくれた人だ。怖いときにしがみついた膝も、ご飯をつくって食べさせてくれたその手も懐かしい。その人が弱くなってしまい、もう何もできなくなってしまうのはとても悲しいことだった。でも、それでも生きていてほしかった。


~~~~~(『逝かない身体~ALS的日常を生きる』より)


ALSの母親を介護する娘の手記です。




寝たきりの人がどんな役割を

果たすことができるか、ということですが

引用したこの著書では、

寝たきりの母親が実娘に対して

立派な役割を果たしています。


「母親はいつまでも母親」。

母親にはけっしてなれない私は

時折、妻と子供の関係を嫉妬

することがあるのですが(苦笑)、

それはさておいて、この本の中の

母親は何かをしてくれる存在では

なくなっているのですが、

娘にとってはやっぱり母親のことを

大切にしています。


こういった関係は、

介護される母親と


介護する子供の中にだけある

ものではありません。


私のような男親でも当然

子供のことはとっても大事です。

子供が私に何かをしてくれるでも

ありませんが。

いなくなってしまうと、

途方にくれ、慟哭さえ

することでしょう。


ふとしたときに

いっしょに飲みに行く親友だって

そうです。いつもの私の日常の中に

いつも彼がいるわけではありませんが

どちらともなく声を掛け合い、

なんとなく過ごす時間が

自分にとってはとても大切だって

思うことがあります。


芸能人に元気をもらうって人も

いるんじゃないですか?

(あと1時間仕事に頑張って帰ってから

あの人の出てる映画を観るぞ)

みたいなことって。

芸能人が私に何かを

してくれるわけでもありませんが、

それで頑張れるってことも

あると思うんです。

新卒で社会人として初めて勤めた職場。

それがAさんのいた特養でした。


勤め始めて5年目にその職場を

去ったわけですが、

新しい施設に1年事務員として、

さらに別の施設に2年半、

さらにさらに別の施設に1年半。

そしてとうとう私はその社福法人を

退職することになります。


いろんな先輩たちがいましたが、

なかでもAさんから学んだことは

たくさんありました。


私が退職したときの施設と

Aさんの施設は別でしたが、

退職するその日、私はAさんに

やっぱり感謝の言葉を言いたくて

Aさんのところに訪問しました。

そしてなぜか涙があふれてしまいました。


私の姿を見かけるたびにAさんは

「ちょっとは大人になったか」とか、

「そこで芽を出してがんばれよ」とか、

たくさんの言葉をかけてくれました。


ずっと気にかけてくれたAさんの

気持ちに最後まで応えられなかった。


今思うとそんな涙だったのかな。

イヤ、いまだに分かんねえ。




Aさんとは年賀状のやりとりだけに

なっていましたが、律儀にいつも

送ってくれました。

「ちょっとは大人になったか」

「そこで芽を出してがんばれよ」って

年賀状でも言ってくれてる気がして。


でももう、Aさんからの年賀状が

届くことはありません。

Aさんとのことを書き始めた9月半ば、

Aさんが亡くなったことを聞きました。

実に父親の命日の次の日でした。

60歳で定年退職を迎えたあとも

再雇用で施設長を続けておられ、

体調が悪くなる6月ごろまで

仕事をしておられたようです。





2年前にケアマネの更新研修で

私は講師、Aさんは受講生として

再会しました。

Aさんは施設長で法人理事でしたから

「なに、冷やかしに来てるんですか?」

と、笑ってしゃべったのが最期に

なってしまいました。


「大造、おまえ、何歳になる?」

「45です」

「そうか。いっしょに仕事した頃の

おれと同じぐらいだな。

俺の苦労が今なら分かるだろ」

「そんなに苦労かけましたっけ?」




告別式に参加しましたが、

棺の中に収まっていたAさんは

私の知っているAさんとは

まるで別人のようでした。


私の知っているAさんは

ロマンスグレーを通り越した白髪で

毎週末に出かけるゴルフで

白くなっている暇がないほどの日焼け顔で

くわえタバコから出る煙が目に入るのを

避けるためにしかめた目をしながら

「大造、おまえは死ぬまで働かんと

いけんだけな~」って、

自分は世の中の道理を

ぜんぶ知っているような

えらそうな顔をして

でもどこか憎めない兄貴

みたいな人でした。

あの世でもそんな口調で

やってるのかな。


Aさん、

俺も死ぬまで働かんと

ダメみたいですわ。

干されていた私に救いの手をさしのべてくれて

事務員としての仕事と社会人としての心構えを

一から教えてくださったAさん。


今思えば、こんな私がこうしてあるのも

Aさんのおかげなんですが、

若気の至りというものは恐いものです。


これは、おそらく経験の違い、

ということなのかもしれませんが。


先にも言ったように私は

学校を卒業して介護現場を経験しました。

だから、介護現場の大変さを

身にしみて感じていましたが、

Aさんは始めから事務方の人だったので

介護現場の実態には疎い、

そう思っていました。


ですから私は、事務方の仕事が

片付いたら介護現場の手伝いをしていました。

おもにやっていたことは食事運びや

食事介助でした。その姿を見て、

Aさんは私に「君は事務員だから

事務の仕事に徹しなさい」と言いました。


私は事務の仕事をおろそかにしていたわけでもないし、

新しい事務員の姿を確立したいとまで

考えていましたから、当然Aさんに反発しました。


事務員と介護職員の区別をきっちりとつける、

Aさんの硬直した考え方を私は好ましく思いませんでした。

でも、今思えば、事務員としてやるべきこと、

与えられたこと以上の事務の仕事を

私は開拓していく責任があったのではないか、

と思います。

どちらの考えが合っている、間違っている

ということではなくて。


本当に扱いにくい職員だったと思います、

今の私が昔の私を部下に持ったとしたら

何も言わずに見捨てていると思います(苦笑)




1年で特養の事務員を辞めた私ですが、

Aさんは別の施設の事務員として

私を推薦してくれました。


救いようのない私でしたが、

Aさんはなんとか別の環境で

私が花開いてくれたら…と思っていたのか

どうか、それを聞くことはもうできません。