”(ひとしずく・黙示録シリーズ・クラス1パート6)患難期前携挙説と患難期後期携挙説” | sarah‐mercy

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イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

(転載)2022-06-01

右差し(ひとしずく・黙示録シリーズ・クラス1 パート5)麦と毒麦 からの続きです

 

黙示録シリーズ・クラス1 パート6

                                                (4月29日 午前中のクラス)

 

今回、実は黙示録のクラスのために、今までひとしずくで配信した黙示録について

書いたものを冊子にまとめて持ってきたかったのですが、冊子にする前に、

もう一度、患難期後携挙説を唱えている人の参考文献を調べて、

それを補充したいと思っています。

実はそれを調べていて、あるサイトに出会いました。

それはロバート・D・ルギンビル博士という方のサイトなのですが、

その方は20年間も費やして、患難期や携挙の時期について調べてきたようです。

 

世界が遭遇するであろう大変な時期に、クリスチャンも患難期を通過することを

聖書はこんなにもたくさん語っているのに、それを主張する人が少ないことを懸念し、

20年間もそれにフォーカスして聖書を調べ、

そしてそれをサイトを通して発信している方です。

前にも話しましたが、彼は神学校も出ていますが、牧師になることを止め、

聖書研究に専念するため言語学者の道を選んだ方です。

 

私は彼のサイトにたどり着けたことを本当に感謝しています。

ひとしずくでは、彼の書いた「サタンの反逆と堕落」というタイトルのシリーズを

日本語に翻訳して配信しています。

でも、その同じファイルにあるものは、ひとしずくで全部は配信されていません。

 

「ダーク・トゥー・ライト」のサイトにPDFとワードで載せています。

https://darktolight.jp/ichthys/

それには五つのセクションがあり、今はその内二つの翻訳を終え、

3つ目を翻訳しているところです。

それは黙示録の学びに入る前に読むことを勧めているものです

 

ところで、

どうして患難期前携挙説のような理論や教義を主張する人がいるのか。

元々、イエス様は終わりの時の患難期にはイエス様を信じる者たちが

患難を通過するということを語られていますし、弟子たちもそうです。

それが何千年も伝えられてきた元々の教えです。

 

しかし、終わりの時には、いろいろな教えが出てくるわけです。

偽り救世主、偽り預言者ばかりでなく、偽りの教義もたくさん出てくることは

聖書で警告されています。

もちろん、その教義を主張する人たちにはその聖書解釈があるのですが、

クリスチャンは患難期を通過すると聖書から学んできた私たちにとっては、

それらの根拠とされるものは、腑に落ちるものではありません。

 

もしそのような教えを聞いた時、それに惑わされないばかりか、

でも聖書にはこう書いてありますよね、と説明できるよう、

またそういう識別がしっかりできるようにしておく必要があると思います。

そのためにも、多くのクリスチャンの間で主張されている患難期前携挙説と、

患難期後期携挙説について、遅ればせながらこれから皆さんと一緒に、

一つ一つ確認しながら学んで行けたらと考えています。

ただ、あの先生が言っていることだから、ほとんどの教会がそう主張しているからと、

鵜呑みに信じるというのではなく、各自で調べる必要があり、

そういう習慣をつけることが大切だと思います。

 

聖書にはたくさんの預言があり、メシアであるイエス様についての預言も多いですが、

終わりの時についての預言も、旧約ではイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、

ゼカリヤ書など、多くがこの主の日について預言しています。

それらのパズルが合ってくると、こんなにも聖書に書かれていたのか、とびっくりします。

それとイエス様が語られたことや黙示録、

その他弟子たちが書いていることなどと合わせると、

神さまがこんなにもはっきりと語られていることを発見し、改めて聖書の奥深さを知り、

自然と聖書の言葉から養われるようになって行くと思います。

 

私はパウロに私はアポロに、というように誰々の教師につくというのではなく、

直接聖書自体に結びついて、各自が御言葉の学びから喜びを見出し、

信仰が強められていくようになれば素晴らしいと思います。

それが私の願いであり、今回のリトリートのゴールでもあります。

 

その聖書には、クリスチャンが患難を通過することが書かれています。

しかし、「あなたは患難を通過しませんよ」という教えに慣らされると、

患難期においての心構えや霊的に備える、ということができなくなってしまいます。

 

人生には試練や患難はつきものであり、

それはこの時代の最後までもそうであるということです。

黙示録には、イエス様の証のために命を惜しまなかった人たちが、

天で祝福されていることが書かれていますが、それを見ると、

神様が私たちが患難の中で最後まで信仰を保つことをどれだけ喜ばれるか、

というのがわかります。

 

でも、まず最初に、神さまご自身が私たちのへの愛ゆえに命を惜しまなかったのですね。

神様はアブラハムの信仰に感動し祝福しました。

アブラハムは神への信仰をもって自分の息子イサクさえも惜しむことはありませんでした。

 

また、ヨハネは言っています。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。

 それによって、わたしたちは愛ということを知った。

 それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」

 (第一ヨハネ3章16節)と。

 

このように聖書の至るところで、「命をかける」ということが書かれています。

「この命は主のものです」、そういう信仰に立つ時、それは怖いものではなく、

むしろ、主への愛と信仰ゆえにという大義のもとに命をかける神聖な喜びを

感じるのではないかと思います。

 

主は、私たちが命を捧げる機会を提供して下さっているのだと思います。

こういうことを話している私も、自分の肉にはそういう力はないことを知っています。

実際の現場でペテロのように怖気づいてしまうのではという思いもあるのですが、

神の憐れみと恵みによって、

最後まで信仰を保って人生を全うできたら素晴らしいなと思います。

 

聖書はそう語っているのに、

そんなことはないですよ、私たちは患難には遭わないですよ

とは言えないです。

聖書の呼びかけというのは、「あなたの命を主に捧げなさい」ということです。

それが聖書が言っていることです。

 

私たちが神の御国のために、私たちのために命を捨ててくださった神の言葉を信じて

命をかけるということは、決して無駄死にではないと思います。

それは私たちクリスチャンの大義です。

そうではないですか。

私たちは神の言葉に基づいて行動しようとしているのです。

イエス・キリストが私のために命を捨てて下さって、

それを信じ主との交わりを持つようになりました。

そしてその聖霊からくる確信というものがあると思います。

それに基づいて、勇気を奮い起こして、命をかけて人生を歩むと言うのは、

本当に無駄ではありません。

 

かつて、そして今も、イエス様を知らず、福音も知らず、

これが人生の大義だと信じて死んで行く人たちがいます。

命をかける価値があると信じるなら、人はそれをします。

ましてやイエス・キリストのために命をかけて、命を捧げることは、

私たちにとって最高の大義だと思います。

 

しかし、気をつけなければならないのは、

それがプロパガンダで教え込まれた嘘である場合です。

実際、そのために命をかけ死んでしまった人もいます。

ですから私たちは、これに命をかけて本当に良いのか、

というのは自分で調べる必要があるのです。

 先生が言っていたから、あるいはみんながそう言っていたから、

 騙されて自分の命をかけちゃった、

そうであってはいけません。

なぜ、こんな細かいことを勉強しなくてはならないのか?

それは命に関わることだからです。

真実を確かめるには主に直接結ばれて、聖書から識別できるようになる必要があるのです。

 

たとえば、放射線量が多いところで暮らしているとします。

 ここにいて大丈夫なの? 放射線量が基準値を上回っているけれど、

 政府もテレビも大丈夫だと言っている。

 周りの人もみなそれを信用してるみたいだけど、本当に大丈夫なの?

という場合、これは調べたほうがいいです。

命に関わることなので、調べて当然です。

 

しかも、聖書で言っていることというのは、永遠の命に関わるもっと重大なことなのです。

もし獣の刻印が強制され始めたとして、受けないと生活できなくなるしなー」

悩んでいるところに、誰かが

獣の刻印を受けても大丈夫ですよ。

 神様はそんなことで罰したりするお方ではありませんから」と言ったら、

それを鵜呑みにして受けてしまうのでしょうか?

 

実際、聖書は何と言っているでしょうか?

 

「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、

 神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、

 聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」

                             (黙示録14章9、10節)

 

と、はっきり言っているのです。

火と硫黄で苦しめられる時、っぱり間違いだったー」、と

その人を非難しても遅いのです。

命の書に名が記されている人は獣の刻印は打たないと思いますが、

私たちは自分だけではなく、周りの人たちにも良い証ができるよう、

御言葉を学んでいけたらと思います。

 

いくら誰かが大丈夫だと太鼓判を押しても、聖書を調べるなら、

その大丈夫だという根拠はどこなのですか? というようなことがあります。

ですから、聖書をしっかり学び、識別力をつけ、

疑問に思うことがあれば聖書からその答えを探し出す習慣をつける必要があると思います。

 

右差し続く(ひとしずく・黙示録シリーズ・クラス1 パート7)<預言について>

(転載おわり)

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