からの続きです
艱難期の天の前奏曲 第2部B:パート8
天の神殿の型としての地上の幕屋と神殿:
3. 至聖所(出エジプト記25章-40章参照):
幕屋神殿の至聖所は、
聖所を隔てる幕がメシアであるイエス・キリストによって取り除かれるまで、
死後の救われた人間でさえも立ち入ることのできない天上の神の神殿を表していました
地上の幕屋-神殿の至聖所は、贖罪の日に大祭司だけが入る場所であり、
(ヘブル9章7節; レビ16章1-34節も参照)、
その形状は完全な立方体でした(出エジプト26章16節, 36章21節参照)。
これはソロモンの神殿でもそうでしたし(列王記上6章20節)、
千年王国時代の神殿でもそうでしょう(エゼキエル41章4節)。[1]
重要なことは、新しいエルサレムも完全な立方体になる(黙示録21章16節)ことで、
事実上、最後の「神殿」になることから理解できる特徴を持っています。
この最後の楽園で、神は地上に戻って、
救われた人類と永遠に「天幕」を張り、新地にご自分の「幕屋」である
新しいエルサレムを建設するからです(黙示録21章3-4節;黙示録21章1節も参照)。
「全能者にして主なる神と小羊とがその神殿である」ので、
新しいエルサレムには「神殿がない」のです(黙示録21章22節)。
新しいエルサレム全体が、その祝福された未来の時に、
最終的で究極的な聖所、完全な立方体の空間
(縦、横、広さにおいて三位一体の完全性を表す:エペソ3章18節参照)として機能し、
そこに救われたすべての人類が収容されて、
永遠に神の臨在に住まうのです(黙示録21章3-4節)。
a. 慈悲の座:
金の「慈悲の座<新改訳Ⅳ:宥めの蓋/新改訳Ⅲ:
贖いの蓋/新共同訳:贖いの座/口語訳:贖罪所>」または贖罪の蓋とも呼ばれ、
神の御座(天の御座については下記参照)を象徴しています。
(神の神性にふさわしく)完全に金で作られた慈悲の座は、
二つの金のケルビム(天の御座が実際のケルビムによって守られているのと同じ)に
挟まれていました。
主がモーセに「そこでわたしはあなたと会う」(出エジプ記25章22節)と言われたのは、
この二つの金のケルブの間でした。
このように、神の天の御座の慈悲の座が与えるイメージは、
象徴的なものを超えて、幕屋と神殿の中で、
神の栄光、御臨在、あるいはシェキナの栄光<神がおられるゆえに実際に光を発する輝き>が
実際に宿る場であったと言えるでしょう。
この慈悲の座上、金のケルビムの間に、シェキナ(Shechinah)の栄光は、
天の至聖所における御父の主権による集会を象徴する御子のクリストファニー
<キリストの降臨/顕現>であり、実際に世の光として輝いていたのです。
(「御子(イエス)は神(父)の栄光の輝きであり、神(父)の本質の真の姿」
(ヘブル1章3節前半)です。
大祭司が年に一度だけ贖罪の日に犠牲の血を振りかけたのも、
この慈悲の座や贖いの蓋の上でした(ヘブル9章7節;レビ記16章34節参照)。
私たちの罪のためのイエス・キリストの「ただ一度」
(ローマ6章10節; ヘブル7章27節,9章12節, 9章26節, 9章28節, 10章10節;
第一ペテロ3章18節)の犠牲を明らかに象徴しており、
御父は御子の「流した血」を完全に受け入れながら見下ろしておられるのです
(ヘブル1章3節後半, 9章12節, 10章12節) [3]
b. 神の箱 :
「契約の箱」は、私たちの主イエス・キリストの幕屋の中で最も重要なシンボルです。
幕屋全体とその儀式や犠牲が私たちの主とその救いの業を語っている一方で
(香の祭壇、供えのパンの机、金の燭台は、
上に見たように、特に主の明確な型を表しています)
神の箱には、復活したキリスト、父のもとに昇天し、父と親しく座っている
(十字架の犠牲は既成の事実としての)キリストが描かれているのです。
この合体は、箱と慈悲の座(蓋)が密接に関連し、後者が御父の御座を表し、
前者がその御座と連続的に結合している御子を表していることからも明らかです
千年王国では主の御座が神の箱に取って代わります)。
さらに、箱と慈悲の座<贖いの蓋>は常に一緒に現れ、
しばしば「<神の>箱」と総称されます(例えば、サムエル記上3章3節-7章2節)。
このように、箱と慈悲の座は、それらが象徴するイエスと父が「一つ」
(ヨハネ10章30節)であるように、非常に現実的な意味で「一つ」なのです。
最終的に、箱と慈悲の座<贖いの蓋>が示す特別なイメージは、
復活したキリストと父、メシア、人間、神との一体性です。
人間であり神であるメシアが
(すなわち、箱は金で覆われたアカシアの木で作られており、
初臨とは対照的にメシアの神性が完全に見えるようになっています)、
現在勝利して父の右に勝利して座しておられることが描き出されています
(詩篇110篇1節; ローマ8章34節; エペソ1章20-22節; ピリピ2章9節;
ヘブル1章3節, 12章2節; 第一ペテロ3章22節)。
ヘブル9章1-5節にあるように、神の箱にはもともと、
1)マナのつぼ(出エジプト16章33-34節)、
2)芽を出したアロンの杖(民数記17章10節)、
3)律法の石板(申命記31章24-26節; 列王記上8章21節)などが入っていました。
これらの項目はそれぞれ、神の備えとその備えを拒否する人間のことを語っているのです。
(もともとアダムと一緒で、その後、人類全般の典型として
イスラエルの行動で示されるように)
神は人間のために完全な肉体の糧(アダムにはエデンの木、イスラエル人にはマナ)
を提供しましたが、人間はこの恵み深い提供を拒否しました
(アダムは善悪を知る木の実を食べ、
イスラエル人は「不平」[マナのつぼ]を口にしました:
創世記3章6節; 出エジプト記16章11-12節; 詩編78篇17-22節参照)。
神はこの世での保護を人に提供しました
(アダムには園、イスラエル人にはモーセとアロンの指導を)。
しかし、人間はこの恵みを拒否しました。
(アダムは神の警告に耳を貸さず、
イスラエル人はモーセとアロンに指導権を求めました[芽生えた杖]。
神は人間に完全な霊的供給をされましたが(アダムには命の木、イスラエル人には律法)、
人間はこの恵み深い供給を拒否しました。
(アダムは神の言葉による警告に、イスラエル人は神の書いた律法[石板]に違反しました。
人間の神への拒絶の3つの本質的なカテゴリーの
(肉体的、時間的(選択の自由)、霊的)
それぞれの象徴が<神の>箱に直接含まれることは、
イエスが「私たちの罪をその身に負って」いることを非常に意味深く表しています
(第一ペテロ2章24節; マタイ26章26節; ローマ7章4節;
第一コリント11章24節; ヘブル10章10節を参照)。
このため、箱が「契約の箱」と表現されるのは驚くべきことではありません。
なぜなら、イエス・キリストの死は、神の先見の明のある契約を成就し
(死がなければ、そのような契約/遺言は有効ではないからです:ヘブル9章15-18節)、
同時に、救い主である小羊の尊い血を振りかけることによって
赦しの新しい契約を開始させたのです
(マタイ26章28節; 第一コリント11章25節; 参照:イザヤ42章6節)。
キリストが最初の契約の呪いを負われたのは(ガラテヤ3章13節)、
罪の障壁を廃し、私たちに代わって犠牲となられたキリストの体を通して、
私たちを神と和解させるためです(コロサイ1章22節)。
そして、この象徴は契約の箱の中身に反映され、
それを覆う慈悲の座にこぼれた血は、
罪のための主の犠牲を図式的かつ効果的に表しています。
人間が拒絶し、反抗したにもかかわらず、神は救いを与え、
この証の箱が効果的に示す神の比類なき、計り知れない恵みの証となったのです
(出エジプト記25章16節, 40章20-21節参照)。
さらに、イエスはその犠牲を通して、人間が最初に拒絶したにもかかわらず、
これらすべてを新たに供給されました。
なぜなら、イエスは命のパン(マナと同じ)であり、
私たちは二度と飢えることがなく(ヨハネ6章25-58節; 黙示録2章17節)、
イエスは枝(芽吹く杖と同じ)であり、
私たちが永遠に住むことができるその完全な王国は終わることがなく、
(イザヤ4章2-6節; 黙示録3章21節)、そして律法と神の言葉の成就者
(参照:神の言葉が刻まれた律法の板)であり、
私たちが永遠に甘い交わりを楽しむことができるようにされたからです
イエスはこれらの罪と全人類の罪のために御自身を犠牲にされましたが、
それは全人類がイエスへの信仰によってこの永遠の命で祝福されるためです。
これはすべての約束の中で最も祝福されたものであり、
神の箱の象徴によって明確に教えられているものです。
この神の箱の象徴は、天の神殿に神の箱と対になるものが存在しない理由を
説明するのに役立ちます。
慈悲の座と対になるものは父の御座に存在し、
父ご自身の栄光の存在が幕屋のシェキナの輝きに対応しています。
しかし、神の箱は御子を表し、御子もすでに御父の右手「御座の中央」に座っておられます
(まさに私たちが神の箱があると期待する場所は、「慈悲の座」、
すなわち御座とつながっているのです。黙示録5章6節)。
ですから、シェキナの栄光の真の対型が、
ただ御父ご自身の中にのみ見出されるように、
御子の最も重要な象徴である契約の箱の真の対型は御子ご自身の中にのみ見出されるのです
(その象徴を見逃さないために:エレミヤ3章16-17節を参照)。
なぜなら、主はその犠牲によって、「巻物を開く」権利を獲得し、
主の王国の設立につながる最後の出来事を引き起こすからです(黙示録5章9-10節参照)[4]。
地上の幕屋とその品々についての考察を終えたところで、
ヨハネの黙示録4章の釈義に戻り、上記の考察を念頭に置きながら、
天上の神殿についての考察に移りたいと思います。
[1] 同じことが、後にヘロデによって「再建」されたゼルバベルの第二神殿
(エズラ6章3節参照)にも言えます。
この神殿については、再建される前のキュロスの手紙(上記引用箇所)の
記述しか残っていませんが、この手紙の重要なフレーズは
「(第一神殿の)土台を修理しなさい」です
(NASB、ケーラー・バウムガルトナーのレキシコン、C.F.ケイルの注解、omn. in loc.)。
これによって、元の幅と高さが保たれたことになります
(高さも保たれ、同じ立方体の形になったと考えるべきです)。
ソロモンの神殿が全体として「高さ30キュビト」であったのに、
聖所の高さは20キュビトしかなかったように、
幕屋の聖所の立方体の形が維持されたのは、意図的であったとしか解釈できません。
ヨセフスの言葉を信じるなら、ヘロデの改造は、内陣の
「屋根を30キュビトまで高くする」という結果をもたらし、立方体を汚しました
(真理と真の象徴を無意味な、さらには汚辱的な装飾に置き換えるというのは、
神を信じない「礼拝」の典型的なやり方です)。
[2] このイメージの中で、モーセと地上のキリストとの関係は、
イエスと天上の父との関係に類似しています:出エジプト25章22節参照:
「そこで、わたし(父を表すイエス)は、あなたに会うであろう」
(モーセはキリストの型;出エジプト18章18節;ヘブル3章1-6節参照)。
[3] もちろん、イエスはご自分の命を捧げられたのであって、
文字通り血を捧げられたのではありません。
ヘブル書では、このような誤解を招くような印象を与えないように
細心の注意が払われています(ヘブル8章3節参照:「捧げるもの」)。
「キリストの血」は、「神の子羊」がイエスの犠牲を象徴する称号であるように、
イエスの犠牲を象徴するものだからです。
このような異端を避けることが、ヨハネがイエスは血を流して死なれたのではなく、
血がまだイエスの体の中にある間に「霊をゆだねられた」ことを示すのに
非常に苦労した理由の一つです(ヨハネ19章33-35節; マタイ27章50節;マルコ15章37節;
ルカ23章46節; ヨハネ19章30節; 第一ヨハネ5章6-8節 参照)。
ペテロの手紙シリーズ#9章「信仰による救いとキリストの血」も参照。
[4] 箱そのものは、後に黙示録11章19節で天の神殿に現れますが、
真の神殿と神礼拝の象徴として、また、獣が地上の神殿(箱の正当な場所)に座す、
反-神宗教に対して下される裁きとして現れます。
--パート9に続く
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昨日は春一番の風が吹き荒れましたね
夜から朝にかけてもかなり風が強くて
駐車場に止めてあった自転車が倒れてしまいました
気温も高くなり、上着を脱いでウォーキングしないと汗ばむほど
春の草花たちも芽吹きはじめ、歩いていてもほっこりしますね
神さまの恵みを感謝します
クリスマスローズも咲き始めたね
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(2018年2月ももちゃん)
今日もありがとう~