(ひとしずく・黙示録シリーズ・クラス1 パート7)<預言について①> | sarah‐mercy

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右差し(ひとしずく・黙示録シリーズ・クラス1 パート6) からの続きです

 

黙示録シリーズ・クラス1 パート7

 

(4月29日 午前中のクラス)

 

<預言について>

 

ペテロ第一の手紙を見ましょう。

預言者が後の人々のために、調べたり預言したりしてくれていたということが書かれています。

 

 この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、

  たずね求め、かつ、つぶさに調べた。

 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、

 キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、

 それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。

 そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、

 あなたがたのための奉仕であることを示された。

 それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて

 福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、

 今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、

 これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。

                            (第一ペテロ1章10~12節)

 

とあります。

つまり預言者たちは私たちが与る救いについてつぶさに調べ、預言していたのですが、

御使いたちもそれを知りたかった。

そのようなことが私たちに証しされているということです。

それは素晴らしいことです。

 

預言の解釈について入っていきたいと思います。

終わりの時については、たくさんの預言者が語っています。

聖書の預言というのは、一つのことについてだけ語られている場合もあれば、

違う時代に起る似たような二つ以上の出来事が一緒に語られている場合とがあります。

どういうことかというと、神さまが預言者に見せる未来についての絵像というのは、

たとえば遠くの山々を見るようなものです。

実際は手前の山と奥にある山は別の山であり、

その距離はかなり離れていることもありますが、

遠くから見るとひとかたまりの山のように見えます。

預言もそれと同じように、手前の時代にある一つのイベントと、

その先にあるもう一つのイベントとが、ひとかたまりで語られていることがあるのです。

 

また預言は、ある時は一章で、

またある時は、数節だけで凝縮して語られていることもあります。

「主の日」と言っても、それは裁きの時であり、主の来臨であり、

新しい統治の始まりと、様々なことが含まれています。

そうなると一つの断片を見て、全てを判断することはできないこともあります。

しかし、聖書には新約と旧約があり、

両方に書かれている共通の預言を照らし合わせることによって、

その預言の詳細が理解できるようになっています。

旧約時代の預言者が語ったことが、新約を読むと、こういうことだったんだ、

と理解できるのです。

 

たとえば、至福千年新天新地、またその始まりというのは少し似ています。

しかし似ているのですが、別の時代のことを言っています。

しかし、旧約の預言者はそれをワンセットで語っていることがあります。

そこには千年の違いがあります。

その違いというのは、預言者にとっては両方とも遠い未来のことですが、

イエス様の再臨を間近に控えた私たちにとっては、この千年の違いというのは、

とても大きいものになります。

そこで、新約聖書で至福千年には何が起るのか、また新天新地はどういうものか、

ということを調べます。

そして、それを至福千年と新天新地がまとめて語られている旧約と照らし合わせてみると、

この部分は至福千年のことで、こちらは新天新地のことなんだ、と見分けがつくわけです。

 

だったら新約だけ読んでいればいいやと思うかもしれませんが、

新約で書かれていない詳細が旧約に書かれている場合もあるので、

どちらも預言を解読する上で必要であり重要なのです。

旧約で至福千年について学んでいると、

それに関連する至福千年の前に起るいくつかのことの詳細も書かれているわけです。

そうすると、至福千年の前に起る患難時代が

どういうものであるかということがわかってきます。

福音書や黙示録からだけではわからなかったことが、

イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、ゼカリア書などからわかってくるわけです。

つまり、これからどのようなことが起るかというのを、新約だけでなく、

旧約を見ることでさらに詳しく学ぶことができるということです。

 

基本的なところですが、イザヤ66章22~24節から、

今、説明した二つのイベントが重ねて書かれた預言について見て行きたいと思います。

これは黙示録にも出てくる至福千年期と新天新地についての預言ですが、

それが一緒に語られています。

 

「わたしが造ろうとする新しい天と、

 新しい地がわたしの前にながくとどまるように、
 あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」
と主は言われる。

                               (イザヤ66章22節)

 

これは神様が言われていることです。

「新しい天と、新しい地」とあります。

「わたしの前にながくとどまるように」というのは永遠のことを言っています。

これは至福千年のことではありません。

新天新地のことです。ところが次です。

続きを見ましょう。

 

「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」

 と主は言われる。

「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。

  そのうじは死なず、その火は消えることがない。

  彼らはすべての人に忌みきらわれる」。

                   (イザヤ66章23、24節)

 

とあります。

新天新地でも人々の屍やうじがあるのか、と思ってしまいますが、

これは至福千年の始まりのことです。

至福千年の直前にはハルマゲドンの戦いがあるので、

至福千年の始まりにはそれによって死んだ多くの遺体や武器などを片付けることになります。

                     (黙示録19章20、21節、エレミヤ39章を参照) 

 

ですから、これは至福千年のことです。

新天新地の前には、すべて取り除かれるべきものは火で焼かれて新しくされるので、

屍やうじなどはありません。

 

神は、遠い未来、この地をどのように支配をもたらすかということを

イザヤに語って下さっていて、至福千年新天新地の両方を語って下さっています。

それを知らずに読むと、新天新地にも屍やうじがあるのか、

と誤って理解してしまいますので、このことをよく覚えている必要があります。

 

もう一つ、今度はイエス様の初臨と再臨についての預言が一緒に語られているところを

見てみましょう。

イザヤ9章6、7節です。

イエス様がこの地上に来られるのは、二千年前の初臨と、

これから来られる再臨とがありますね。

 

 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。

 まつりごとはその肩にあり、その名は、

 「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。

  そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、

 ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、

 とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。

 万軍の主の熱心がこれをなされるのである。

                     (イザヤ9章6、7節)

 

この聖句の始め、

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、

 ひとりの男の子がわれわれに与えられた。」

というのは、イエス様の初臨についての記述であることがわかります。

しかし、その後に書かれている内容は、初臨の時とはちょっと違います。

イエス様の初臨の際は、ここにあるような

「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」

とはとなえられませんでした。

そして、ダビデの位に座してイスラエルの国を治めるということもありませんでした。

治めるどころか、十字架につけられ死んでしまいました。

「とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。」

というのも初臨のことではありません。

 

ですから、イザヤ9章の初めのところだけは初臨の際に成就しましたが、

あとの部分はイエス様の再臨の際に成就することになります。

メシアが地上に来られるということについては共通の事柄であり、

一つの預言としてまとめられているのですが、

その一つの預言に初臨と再臨の二つのイベントが入っています。

一つに見える山がここでも実は二つ重なっているわけです。

でも、この間には二千年の期間があることは説明されていません。

 

旧約聖書にはこういう預言が多くあります。

近い将来成就するものと、遠い未来に成就することです。

遠い未来のことに関しては、

特に終末、主の日についての預言が多いです。

しかし、このことを知らずに、まだその預言の最終成就はしていないのだけれど、

歴史を詳しく調べてみると、ある出来事が聖書のある預言とぴったり合うので、

この預言はすでにこの時に成就されたと解釈する人がいます。

 

しかし、聖書に書かれた預言をよく見てみると、

確かにそれに似た出来事が過去に起っていて、預言に書かれたいくつかのことは

当てはまるのだけれど、ほかの部分は当てはまらない、というのがあります。

それでこの預言は中間成就であって、最終成就はまだ先のことで、

終わりの時のことであることがわかるのです。

聖書の預言はこのようになっているということを覚えておく必要があります。

 

右差し続く(ひとしずく・黙示録シリーズ・クラス1 パート8)<預言について②> 

 

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               (2020年6月ももちゃん

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