忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史) -8ページ目

日本の女性

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昭和十二年の「人民文庫・日本浪漫派討論会」で、「人民文庫」を代表するひとり高見順は「現在浪漫派の主張、具体的には保田君のものは高等学校の生徒が皆読んで」ゐるさうだ。/つまり高校生活の観念的な傾向に浪漫派の人々が受け入れられてゐる訳だ」と発言し、それは「実に幼稚ななげかはしい傾向だと思ふ。それが天下を風靡することは」と述べている。この座談会の発言を読んだのはずっと後のことだが、当時の私は、不遜にもわずか三十年ほど前の学生を魅了した保田の文章が、理解できないわけはないと思っていた。『日本の橋』を何度か読みかけ挫折しながら、ある時、ふっと私のうちに納得するものを感じた。「日本の橋」の最後に出てくる裁断橋碑文のくだりだ。保田の引用原文は仮名が多いので、ここでは読みやすさを考慮して、適宜感じを交えて引用した。

天正十八年二月十八日に、小田原への御陣堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、また再目(ふため)とは見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架けるなり。母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え。逸岩世俊と、後の世のまた後まで、この書附けを見る人は、念仏申し給えや。三十三年の供養なり。

戦乱の世に戦で息子を亡くした母親のこの短い碑文に込めた思いは、四百年近い歳月を超えて私たちの胸に惻々と伝わってくる。名のある女性ではない、教養をつんだわけでもない、ましてや文章をうまく書こうと思ったのでもない。子の死から三十三年経って、世は泰平の時代に代わり、この女性は既に七十を超える高齢であっただろうと推測される。それでもなお、亡くした子供への思いから、橋を渡るひとに「念佛申し給へや」と語りかけるのだ。
この挿話を今読むと、私は戦後、保田與重郎が金閣寺放火事件について「祖国正論」に書いた文章を思い出す。犯人の学層は、放火の動機を美に対する嫉妬だと言い、面会に来た母親に母子の縁を切ってくれと言ったという。母親は早く父を失ったわが子をよい僧侶とするため、里心が起こらないよう家に寄せつけずまた訪ねようともしない古風の人だった。その母親が帰途の車中から保津川に投身自殺した。保田は「一個の知識人の思想が、親子の絆といふ現実の、厳しく、深い真実を断ち切りうるものか否かへの、悲痛な回答であった。息子の、世の中のすざまじい罪障を己一身に背負うて、母親は我とわが命を裁つたのである。親は常に断崖に臨んで生きてゐるのだ」と述べている。
さらにもうひとつ、保田が『日本語録』のなかで引いた有村蓮壽尼の「雄々しくも君に仕ふるもののふの母てふものはあはれなりけり」を思い出す。蓮壽尼は「桜田門外の変」で井伊直弼を討ち取った薩摩藩士、有村治左衛門、雄助兄弟の母である。治左衛門は直弼の首をあげすぐに自害したが、雄助は捕らえられ薩摩に送られたのち自害した。その死は母の促しによるもののようだ。「この母はたゞ子等の志を信じる上で生きたのである。たゞ一つの君に使へるみちを貫いた子らを信じること、即ち国の道を信じることが母の生きる唯一のより所であった」と保田は書いている。わが国の母たちは、ときに子の身代わりとなって命を投げだし、また子に死を勧めることすらあるのだ。彼女たちの心のうちは激しい、けれどもその在りかたは美しいのだ。
ところである時、浪漫派に近い批評家から「浪漫派の神髄はね、男は愛嬌、女は度胸ということだよ」という話を聞いた。それは「河原操子」にあてはまると私は思った。河原操子は、もとは長野の高等女学校の教師をしていた。彼女は体が丈夫なほうとはいえず、二十歳をいくつも過ぎていなかった。明治三十五年、中国人の女子教育をめざし上海の女学校の教師となり、翌三十六年、喀喇沁王からの要請を受け、喀喇沁に赴任、教育に携わることになった。とはいえ彼女は、その地がどこにあるかさえ知らなかった。「喀喇沁(カラチン)はいづこ、北京の東北にあり、北京より九日程にて達すべしと、甲も斯く丙も斯くいふより外には、何事も聞かせぬにはあらず、知るものななきなり」と記すような心細い状態だった。おりから日露戦争が勃発、日本人としてはこの北辺の地にただひとり残り、教育に携わるかたわら敵方の動静を北京に知らせる使命を帯びることとなった。
河原操子は立派にその使命を果たした。保田は彼女に国策型の「女丈夫」という言葉を冠することを否定している。そして河原操子のような女性こそが、日本女性の典型であり、思わぬときに意外にも勇敢な姿を現すと言葉を換えてくりかえし述べている。
保田與重郎をもっとも早く評価したのは、萩原朔太郎であった。朔太郎は「詩人の文学」のなかで、保田たちの「コギト」を「過去のいかなる文壇的ギルド系統にも所属しないところの、全く新しい別種の文学精神の出発」と言い、「小説の文壇からは出発しないで、詩のエスプリから出発したところの文学者でもある」と親しみをこめて述べている。また大宅壮一が保田たちの文学を「お筆先のやうなもの」と言ったことに対し、「お筆先」という「意味の解らない迷語」や「バラモン教徒の呪文」のごときものこそ「むしろ過去の文壇的邪教と挑戦して、新しき福音を呼ぶための新約なのだ」と言って擁護した。
その萩原朔太郎に「日本の女性」というエッセイがある。そのなかで朔太郎は、裁断橋碑文の母親とともに、小泉八雲が「或る女の日記」として発表した明治期に市井に生きた女性のことを紹介している。彼女は月俸十円の役所の小使をしている男と見合い結婚をして、三人の子供を作るが、子供たちはすべて生まれて間もなく死に、彼女自身も産後の肥立ちが悪く早世した。この女性の五年間の日記には、度重なる不幸にもかかわらず、夫につくし、貧しい暮らしのなかで短歌や俳句をたしなむ余裕をもち、たまの芝居や寄席、行楽を楽しんでいることが記されている。日記は彼女が「昔話」と題して針箱のなかにしまっていたものを、死後発見されたという。辞世の句は「楽しみもさめてはかなし春の夢」。朔太郎は「その薄倖な生活に満足し、良人の愛に感謝しながら、すべてを過去の帰らぬ『昔話』として、侘しく微笑しながら死んだ一女性のことを考へる時、たれかその可憐さに落涙を禁じ得ないものがあらうか」と感想を述べている。
裁断橋の碑文を書いた女性をはじめ、ここに紹介した女性たちはフィクションのなかに存在したのではなく、現実の日本の社会のなかに生きた女性たちである。彼女たちは、かなしく、やさしく、ときに雄々しく、またなつかしい。今日のフェミニズムの社会にも、日本が日本である限りにおいては、形をかえてこうした女性は無数に生まれるであろう。
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新学社 保田與重郎文庫1 改版 日本の橋 解説 日本の女性 近藤洋太







「世論の「保守化」の原因は左翼のウソ」

高森アイズ 「世論の「保守化」の原因は左翼のウソ」



タイトルの「保守化」がカッコで括られているのは、保守化というより反左翼化といったほうがいいかもしれない。

女心に咎ありや

明治三十八年始めごろ(君死にたまふことなかれが出たあと)
大塚楠緒


「お百度詣で」


ひとあし踏みて夫(つま)思ひ

ふたあし國を思へども

三足ふたたび夫おもふ

女心に咎ありや

朝日に匂ふ日の本の

國は世界に只一つ

妻と呼ばれて契りてし

人は此の世に只ひとり

かくて御国と、我夫(わがつま)と

いづれ重しととはれなば

ただ答へずに泣かんのみ

お百度詣であゝ咎ありや





この情、悲しみは誰にでも共感出来るものだと思う。
それでも戦うしかなかったことが、なおさら胸をしめつける。