忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史) -9ページ目

特攻の母 高貴な威厳

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昭和十八年十月、戦局の悪化に伴って文科系学生の徴兵猶予が停止され、徹も㐮も学業を繰り上げて出陣しなければならなくなったのである。
二人はともに海軍を志願し、航空隊に入隊した。そして長男の徹は千島から比島に転戦し、ミンドロ島沖で戦死した。一方、二男の㐮は特攻隊を志願し、神雷特別攻撃隊の一員として沖縄に出撃、昭和二十年三月二十一日、米艦に突っ込んで果てたのだった。
特攻隊員に選ばれた㐮は、出撃を待つ間、千葉県佐原市の基地に母三和代を呼び寄せ、今生の別れをした。三和代は初めて㐮の覚悟を知って驚愕したが、顔には出さず、その夜は市内の木内旅館で一夜を語り明かして、息子を励ました、という。

   昭和十九年十二月二十五日、神雷特別攻撃隊となりし次男㐮に面会せんとて佐原に赴く

  うつし世のみじかきえにしの母と子が今宵一夜を語りあかしぬ

  ももとせのよはひを願ひし吾子なれどくにの大事に今ぞ捧げむ

このとき別れの場で詠んだ三和代の歌だが、わが子に悲しみをみせまいとして、必死に耐える母心があわれである。
翌朝、㐮は不要になった身の回り品をトランクに詰めて母に託し、静かに挙手の礼をして隊へ戻っていった。

  いざさらばわれはみくにの山桜母のみもとにかへり咲かなむ

㐮の辞世だった。さすがの三和代も、こらへていた悲しみを爆発させ、涙を流して激しく泣いた、という。

  ちる花のいさぎよきをばめでつつも母のこころはかなしかりけり

気を取り直して気丈な歌を詠んだけれども、母のかなしみはそれで癒えるものではなかったろう。
あとでわかったことだが、三和代と㐮の母子が、佐原で最後の夜を語り明かしたまさにその日──昭和十九年十二月二十五日、南海のミンドロ島沖では、長男の徹が米機と交戦、散華していた。偶然とはいえ、あまりにも痛ましい話ではないか。

  初陣の感激高し我が翼国家浮沈の運命かかれり

これが徹の辞世で、比島へ出陣のとき、鹿児島の友人に託していたのが、戦死後、三和代のもとに届けられたという。
戦後──どの戦争遺族もそうであったように、三和代もつらい暮らしを強いられた。彼女の場合は、頼みの男児を二人とも失い、重度の障害を持つ子を抱えているだけに、困苦はより深刻だった。だが、三和代は弱音ひとつ吐かず、短歌を伴侶に世俗を超越して生きた。
昭和三十年代の中ごろ、関西のある民放テレビ局が“特攻の母”を主題にした番組を放映したことがある。戦死した若者の母をスタジオに招き、その悲しみや戦後の苦難を語らせ、戦争の悲惨さと無益を浮き彫りにしようという企画で、三和代も招かれて出演した。司会者は番組の狙いにそって戦争への恨みや悲しみの言葉をひき出そうと、再三、三和代を誘導したが、彼女は終始変わらず穏やかな口調で、自分は我が子の信念と行動をいまも立派だと思い満足している、と繰り返し語った。
たまたまこの番組をみていた與重郎は、三和代の態度にすっかり感動し、

その言葉はしづかで、沈着な語尾のおさへも、まことに女らしく、私はその態度に冒し難い、高貴な威厳を、美しく感じたのである。やさしくをヽしい女らしさの威厳というものを感じながら、私は激しく落涙した。(中略)
苦難の経験は世の中の常である。かヽる時に、和歌に執心し得て、歌境の清澄に遊び、自然を感得するに近い心懐に達し得たといふことは、人としてこの國に生まれて享けることの出来た、最も高邁な精神上のよろこびを味わつたものと判断される。
(『緒方家集』)

と、激賞した。
『風日』編集長としての、緒方親のめざましい業績も、この母あったればこそだった。
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『空ニモ書カン』吉見良三

西田昌司「保守の原点を問う2 -参政権って何?-」




日本人以外の誰が日本を守るのか。
日本人しかいないわけです。

西田昌司「保守の原点を問う1」